Posts categorized "映画"

「 ハリー・ポッターと謎のプリンス 」

 「 ハリー・ポッターと謎のプリンス 」を、やっと観に行ってきました。
 
 実は、私は、原作を最終話まで読んでいる息子から、本作の一番の謎、”謎のプリンス”の正体については聞いていたので、あの「教科書」が出てきた時も、最後に本人が名乗ったときにも、そして、この作品のラストの衝撃的シーンについても聞かされていて、その真の意味についても知っていたので、そんなにびっくりはしなっかたのですが・・・。
 
 「不死鳥」と同じ監督だということですが、その前作ほど暗くなく、このシリーズの最初の方の作風に、ちょっと戻った気がして、私はすきでした。前作、前々作の暗い色彩とトーンが、物語の暗い展開をさらに暗くしていてちょっと苦手だったので、ホッとしました。暗さを描くには、明るさも描かなくてはね。原作は読んでないのですが、「謎のプリンス」は、最終章「 死の秘宝 」につながる話として、なかなか興味深い作品となっているのではないでしょうか。ダンブルドア、ドラコ、スネイプが、きちっと夫々のキャラクターを演じていて、よかったのではないでしょうか。そして、ドラコが、今回、初めて、劣等感と内面の葛藤を感じさせる人物として描かれていたことに注目させられました。トム・リドルの秘密を知るスラグホーン先生もなかなか興味深い人物だったし、双子のフレッドとジョージの店も面白かったし、映画だけを観ている者には、満足できる作品だったのではないでしょうか。プリンスの正体はわかったけれど、その正体以外の彼にまつわる謎は謎のままですが。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

K-20(TWENTY) 怪人二十面相・伝 ( 追記あり )

 映画「 K-20(TWENTY) 怪人二十面相・伝 」を、忙しいなか観て来ました。あまり期待していなかったけれど、わりに面白かったです。金城武ファンとしては、「 レッド・クリフ 」よりもよかったかも。(PartⅡの孔明にも期待していますけど。)松たか子も、彼女しかいないと思うほど役の雰囲気にぴったりのキャスティングでした。金城君は、動きがダイナミックできれいなので、やはりアクションのある映画が似合ってます。そして、私的には日本映画でのアクションの方がどちらかというと好みです。長い感想を書く時間が無いのですが、お正月映画として家族で楽しむのにぴったりの作品だと書いておきます。「三丁目」では気になった作り物感が、”架空の世界”という設定のこの作品には合っていたと思います。

追記:金城君は、平吉の変装術修行シーンで、医者の格好をして鳩に聴診器を当てているシーンが、個人的にツボでした!
 松さんは、明智を引き留めるためのあの手この手(ケーキ放り投げ&色仕掛け)のシーンが可愛かったです。

 監督・脚本の佐藤嗣麻子さんのことは、ほとんど存じ上げなかったのですが、この映画の世界観や細部の表現など、かなり気に入りましたので、同キャスト同スタッフで、ぜひ続編を作ってほしいです。

 ※gooブログ関連記事 「 K-20 & ラヴァーズ 」

| | Comments (0) | TrackBack (2)

「 レッド・クリフ PartⅠ」

 「 三国志 」と言ったら、昔、NHKでやっていた人形劇を、ぼんやりと思い出すくらいで、ゲーム「 真三國無双 」をやっている子どものほうが、余程詳しいので、「 三国志 」自体に余り思い入れを持ってない者の感想なのですが、「PartⅠ」は長い長いプロローグで、「赤壁」の闘いの本編が描かれるのは「PpartⅡ 」なんですよね。だからⅡまで観てから最終的に評価しようと思いますが、「 Ⅰ 」は、傑作かと言われると、う~んんんっ、というところでしょうか。
 
 出だしはよかったです。曹操の登場シーンは、彼の傲慢さと残忍さに恐れおののき沈黙する皇帝や大臣たちなどの表現がよかったのですが、違和感があったのは、その後に延々と続く戦闘シーンです。「三国志」の有名な英雄たちが「超人的に強過ぎる!」のと、彼らが一人ずつ顔見せのように出てきて、カンフーアクションのような型どおりの活躍をして、最後、ハッとポーズを決めて行くような表現を延々と見せられると、なんか途中で白けてしまって、飽きてしまった。早く戦闘シーンが終わらないかなあと思いながら見ていた。それと多くのひとがいらないと言っていた、周瑜と妻小喬のエロティックなシーンですが、曹操がこの闘いを始めた理由が、「周瑜の妻小喬を自らのものとするため 」と説明されているので強調されているのでしょうが、長くて思わせぶりで、そんなに長くいらない感じでした。所々、好きなシーン( 孔明が孫権を最初に訪ねるシーンとか、同じく孔明が周瑜の赤壁での軍の訓練を観に行くところとか、曹操軍が油断しているところとか、ラスト周瑜と孔明が曹操の大軍を赤壁から遠望するシーンとか )あったのですが、先にあげた戦闘シーンとかラブシーンとかが冗長で、なんかチープになってしまう、ゲームの実写かカンフーアクション映画を見させられている気分に所々なってしまうのです。もうちょっとリアルにストイックに表現してくれないかなと思う。お腹いっぱいになるというか。戦闘シーンをすごく長く感じてしまった。そう言えばチャン・イーモウの「ラヴァーズ」の最後の闘いのシーンも、様式的で、いまひとつだったし、なんでかなあ、あの様式性は中華圏の特徴なのでしょうか。黒沢明は、その辺りはやはり凄かったと思う。様式的なところ、リアルでない部分を入れているのだけれど、リアルさがあったし、嘘くささは感じなかった。
 
 「赤壁」のような多勢に無勢ってのは「パイレーツ・オブ・カリビアンⅢ」のラストでもあったけれど、娯楽大作だとしても、あのぐらいに描いてくれればと思う。「三国志」ファンは不満でしょうけど。私の一番の不満は、金城君の声が吹替えだったことですけど。(トニー・レオンも吹替えだったらしいけど、)彼の声が聞けるのと聞けないのとでは私にとっては天と地ほどの差があります!「 partⅡ 」を少しだけ期待して待ってます。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「 ラ・マンチャの男 」

 ピーター・オトゥール主演の、有名なミュージカルの映画化作品 「 ラ・マンチャの男 」をDVDで観ました。
 セルバンテス(=オトゥール、ドン・キホーテ=アロンソ・キハーナと二役)は、”宗教裁判”についての芝居を大道で演じていたことで宗教裁判所により逮捕されて、宗教裁判を受けるために牢獄に入れられてしまいます。そこで、大事な脚本が、囚人たちによって焼かれそうになり、脚本を守るために、牢獄の中で囚人たちといっしょに演劇を始めます。その物語こそ、有名な騎士「ドン・キホーテ」の物語でした。(アルドンサ=ドルシネア役はソフィア・ローレン。)

 物語は、舞台に見立てた牢獄と、ロケで撮影された場面の両方で進んで行きます。当時40代のオトゥールは、ドン・キホーテの老けたメークは、それなりに馴染んで老人らしいのですが、老けた演技はやはり演技なので、そこはかとなくオトゥール自身の若さが滲んで見えて、老いぼれた騎士ドン・キホーテにしては、騎士の威厳や品は感じられるのですが、滑稽さが少し足りなく、少し土台が若くきれいすぎるかなあと思いました。本当にメークも、演技も舞台出身のところがこの物語に合っていて、不満はないのです。でも、もっと実年齢が近くなってから演じたら、”悲しき顔”の騎士と呼ばれるドン・キホーテの、滑稽さによって醸し出される悲哀感がもっと強く出て、そのことによって彼の持つ正義感が更にひきたったのではないかと思います。

 芝居の後半で、囚人のひとりが宗教裁判に呼び出され、芝居が中断した時、「なぜ詩人は異常者が好きだ?」と聞かれて、セルバンテスが、「 似てるのだ 」と答えるシーンがあります。そして、「(人生を)ありのまま受け入れろ 」と言われて、自分のこれまでの人生を振り返り、兵士や奴隷だった経験から、悲惨に死んでいった者たちのことを 「 彼らは人生をただ受け入れてきた 」「 そして死んだ 」「 ただ当惑して ”なぜ” と問いながら死んだ 」「 ”なぜ死ぬか” ではなく ”なぜこんな人生を” と問いながら 」「 異常とは現実的すぎる事 夢を持たぬ事 」「 正気を通す事 」そして、「一番の異常は人生をそのまま受け入れることだ 」と答えます。最初の方のシーンで、「 この世こそ牢獄 」「 欲望ばかりで満たされる事はない 」と言い、「(自分は)理想家だが夢想家ではない 」と言う。 このセルバンテスの言葉を聞いて見るドン・キホーテの物語は、やはり感動的だ。そして、彼とサンチョというコンビを創作したことだけでもセルバンテスは偉大だと思う。 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「 崖の上のポニョ 」~足りないのはなにか~

 ジブリで駿作で大ヒットということで、”天邪鬼”なわたしとしては、「まっ、別に書かなくても 」と思ったりもするのですが、「崖の上のポニョ」。「 ポーニョ ポーニョ ポニョ さかなの子 」という例の主題歌が頭の中でぐるぐる鳴っていたり、映画を観たあと、いろんな感想が浮かんではいたので、少しだけつれづれなるままに書いてみます。

 まず、最初に感じたのは、随分”母性的”な物語だなということで、それは2年前に公開された息子宮崎吾朗監督の「ゲド戦記」という、「ポニョ」に比べたら、世間的にいまひとつの評価だった作品、そして「父と子の物語」で、父性を感じさせた作品と比べても、「神経症と不安の時代に立ち向かう」「母と子の物語」と紹介されているように、「崖の上のポニョ」の”母性”は際立っている。そして、その逞しくて強力な母性に対して、父性の影が決定的に薄いのである。ポニョの父親の「フジモト」然り、宗介の父親の耕一然り。「フジモト」は、「アトム」の天馬博士のような神経質なルックスで表現されているし、宗介の父、耕一の、「船員で家にいない」という設定からして、この映画の父性の薄さを象徴しているではないか。最初、母のリサが、「耕一が帰ってくる」と言った時は、てっきり、宗介の兄のことか?と思ってしまった。(映画では、耕一は、結局、陸に上がりませんでした!)ポニョの父フジモトと母グランマンマーレも、ほとんどいっしょに暮らしているわけではないみたいだし、(彼女は母なる海=海なる母の象徴という偉大な存在らしいから仕方ないにしても)、映画の主要な登場人物で、途中ちょこっと出てくる手漕ぎボートの若い夫婦くらいしか、両親がそろって暮らしている夫婦は出て来ないのだ。「ひまわりの家」の老人たちも、女性ばかりだったし。宗介の5才という年齢は、まだまだ父親より母親との関わりが大きい年齢と言うことかもしれないが、でも母性と父性のバランスという点から考えて、この映画の”母性の過剰さ、強力さ”と、”父性の影の薄さ”は、やはり気になる。ポニョを過保護に閉じ込めようとするフジモトと言い、船上から自分の息子の賢さに感心する耕一と言い、父親というより、まるで”母の息子”のような彼ら。あれでいいのだろうか。リサと宗介の日常の描写は、保育園への送り迎えなど、子育てをしながら働いている女性の日常がよく描かれていると思う。だが、リサが、耕一が帰って来れないと知って、むくれて、夕食の支度を放り出して、外食にしようと言い出すところなど、可愛い反応なんですけど、仕事優先で、家庭を母子家庭化してきた、これまでの日本の家庭そのまんまだし、一方、子どもたちの面倒を見ているフジモトは、ポニョのことを閉じ込めて、自分の思い通りにしようとする、別の意味で問題のある父親に見える。
 それに比べて、監督によって理想化された母親達。リサとグランマンマーレ。それで幸せなら別にいいのかもとも思うけれど、帰って来ない父親への不満を、可愛く表現して見せて、まあまあいいじゃないかというのは、男性の責任回避のごまかしの表現にも思える。亭主元気でなんとかとか言うから、そのほうが幸せなのかもしれないけれど、それと対になったリサの理想化された描かれ方が気になる。可愛く描かれていたリサの不満が、ある日爆発したりしないのか、と理想的でない母親は考えてしまうのです。

 この映画を観て、一番に思い浮かべたのが、「ゲド戦記」で、あの映画は未だに世間的には失敗作ということになってしまっているみたいなのですが、あの映画は欠点はあったけれど、(それも原作ファンを敵に廻すという致命的な欠点でしたが)、残念と言うか惜しい映画で、その可能性をふくろ叩きのように全否定すると言うことは、日本の表現における”父性的なものの表現の萌芽”を摘み取ってしまった気がしているからだ。あの映画は原作ファンの怒りを買ってしまったので、仕方がない面もあると思うのですが。そして、息子の作品に対する答えが、母性賛歌のような、この作品だとしたら、・・・。
 私は、「神経症と不安の時代に立ち向かう」には、母性だけでなく、父性の力も必要だと思っているので、「もっと父性的な表現」をと思ってしまうのです。母性賛歌だけでは乗り切れないところに私たちは来てしまっていると思うし、不足しているのは父性だから。「母性賛歌、賛美」だけでは足りないと。

 ※関連記事

 映画「ゲド戦記」

 思いつくままに(映画「ゲド戦記」追記)

 THE ART OF TALES from EARTHSEA

 ゲドのいる入り江

 クロード・ロラン風の雲

 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

映画「西の魔女が死んだ」

 映画「西の魔女が死んだ」を観ました。中学生の主人公まいが、不登校になり、山の中で一人暮らしをしている「西の魔女」と呼ばれている英国人のお祖母ちゃんのもとにしばらく預けられることになります。(おばあちゃん役は、あのシャーリー・マクレーンの娘のサチ・パーカーさんです。)まいが「おばあちゃん大好き」と言うと、おばあちゃんは「I know」と答えます。だいすきなおばあちゃんのもとで、まいは「魔女修行」をすることになりますが、この物語の魔女は、別に箒に乗って飛んだりなどという特別なことをするわけではありません。夜は11時に寝て、朝は7時に起き、朝食をきちんと食べ、おばあちゃんに日常の細々とした仕事を教わる=生活するのです。その映画に映された、おばあちゃんとの日常のなんと素晴らしいこと!途中で、おばあちゃんに学校でのことを相談するシーンはありますが、まず、主人公は、そのおばあちゃんとの日常の生活=労働によって、癒されていくのです。たらいの中で足踏みして洗ったシーツをふたりで絞って、ラベンダーの上にぱっと広げて干すことの楽しそうなこと。ハーブを煮てつくる虫除けの薬。そして、おばあちゃんの作る料理のおいしそうなこと!おかあさんとまいが到着したした日にまいが畑から採って来たレタスで作ったサンドイッチ、裏山のワイルドベリーで作るジャム、そして、そのジャムをのせたトースト、お父さんが訪ねて来たときに出たキッシュ、「時々、夜急にお菓子を焼きたくなる」といって、おばあちゃんがまいの寝室まで持ってきたクッキー、郵便屋さんのバイクが故障したときに出された果実酒、いろいろなハーブティーなどなど。おばあちゃんは、まいにそれらの仕事を教えながら、まいのはなしを聞いてくれます。決して押し付けがましくなく。
 
 「女の子の付き合いって独特なの」

 「大変ですねえ」

 そして、日本の山の自然の豊かさ。おばあちゃんが「まいサンクチュアリ」と名付けた、山の中のまいのお気に入りの場所。そこでひとりで過ごす至福の時間。子どもにとって、そういう場所と時間がどれだけ大切か。そして、女性にとって、生きるとは、こういう日常の細々としたことをこなしながら生活することだということを改めて思い出させてくれる。女性は、そうやって昔から生きてきた、そしてこれからもそうやって生きていく。そこに女性の強さがあると思う。このおばあちゃんの境地までには至れなくてもである。

 おばあちゃんの訃報を聞いて、駆けつける車のなかで、母(娘)が「あのひとはほんとうの魔女だったの」とまいに言う、「魔女」とはそういう意味。

 映画では、生前のおばあちゃんとまいが、あることをめぐってわだかまりを抱えたまま別れて、和解できないままおばあちゃんが逝ってしまったことを、まいが悔やむシーンがありますが、それが感動のラストシーンに繋がりますので、是非映画でご覧になって下さい。

| | Comments (0) | TrackBack (2)

映画 「ナルニア国物語第2章  カスピアン王子の角笛 」

 映画 「 ナルニア国物語/第2章 カスピアン王子の角笛 」を観た。(そのあとで、原作をもう一度、読みたくなったので岩波少年文庫の「ナルニア国ものがたり」全7巻を買って、「カスピアン王子のつのぶえ」を再読しました。
 原作と映画では、若干違う点がありますが、映画は、まずまずの出来だったと思います。というか一般には、映画版は第1章「ライオンと魔女」よりも好評みたいなのですが、私は、映画 「ライオンと魔女」もなかなかよかったと思うので、「角笛」のほうが特によくなったとは思わないのですが。というか、「ナルニア」全7巻のなかで、「角笛」は、第1章の新鮮さや第3章「朝びらき丸東の海へ」、第4章「銀のいす」の物語のおもしろさに比べると少し物足りない章とも言える。ペベンシー家のピーターとエドマンドとスーザンとルーシィの四人のきょうだいが、ふたたびナルニアを訪れる(呼ばれる)ことと、カスピアン王子の登場と、(彼は、次の3章でも活躍し、4章にも関連する)、彼が、変わり果てた現在のナルニアをよみがえらせるためにナルニアの新しい王になるまでの物語なので、彼の登場にも関わらず、1章の繰り返し(ピーターたちが白い魔女を倒して、ナルニアの王と女王になる)のような物語なので、3章や4章のような、主人公たちの、「わくわくして読み進める冒険物語」というわけではないのだ。カスピアンの生い立ちや現在の境遇や、彼が師と仰ぐコルネリウス博士より渡された「(スーザンの)魔法の角笛」を吹いて、再びナルニアに呼寄せられた、ピーターたちが、廃墟となったかっての城跡で、(こちらの世界では一年しか時間が経っていないのに)ナルニアでは数百年の時間が経っていることに気付くところや、彼らがカスピアン軍に合流するための道中で、今回もルーシィが最初にアスランに気付くが、他のものには彼が見えないために、信じてもらえないことなどが、また繰り返され、それはそれでとてもおもしろいのですが。映画は、1章が原作に忠実に描いて、一部での評判がよくなかったためか、カスピアン軍とミラース軍の戦闘場面が多くなっており、―そのためアスランの登場が原作よりも遅い―ナルニア軍に合流したピーターが、アスラン塚の陣地で敵を迎え撃とうというカスピアンに対して、こちらからミラースの城に攻め込む作戦を主張し、結局ピーターの作戦が実行されるのですが、圧倒的な勢力差に少なからぬ犠牲と損害を蒙り、退路を絶たれそうになって、ほうほうの体で退却するのですが、原作には、この闘いはありません。それにカスピアンとスーザンのちょっとしたロマンスも付け加えられていて、(ほんとうにちょっとしたもので、イケメンの王子のキャスティングを生かすためだったのか私には、このエピソードはいらないような感じでしたが。)この辺りは好みなのでしょうけど。

 「ナルニア国ものがたり」のおもしろさは、子どもたちがナルニアに「往って、還って来るものがたり」という点にある。彼らが、どのようにしてナルニアに往き―1話の「箪笥の向こう側にナルニアがひろがっている」というイメージの素晴らしさ!―どのようにして還って来るのか、(そのためには、自分たちに向こう側で課せられる役割ー今回はナルニア伝説の王と女王として、カスピアン王子が現在の王ミラースを倒して、ナルニアの真の王になるのを助ける―を充分に果たしてからでないと、こちら側に還れないのですが)、その仕かけのおもしろさにあります。そして、彼らが、決して特別ではないふつうの子どもたちだということが重要なのです。彼らがふつうの子どもたちだからこそ、私たちは、彼らと、彼らの活躍に感情移入できる。この主人公たちの設定と、「往きて還りしものがたり」という点は、ジブリの「千と千尋」なども同様です。そこにこそ、ファンタジーの醍醐味がある。そして、平凡な彼らが、ナルニアに往くと、ものすごく生き生きとして、力強くなり、こちら側では思いもよらないような冒険や活躍をすることになる。(千尋もそうでしたよね。)彼らは、ナルニアでは伝説の王と女王としてそして、こちら側に還ってきた彼らは、向こうでの冒険や経験によって往く前に比べると逞しく変化しているのです。そして、向こう側(ナルニア)に往けるのは、ある年齢までで、今回、ピーターとスーザンは、アスランから、ふたりは年をとりすぎたからもうこちら側(ナルニア)にはこられない、と告げられます。
 
 今回は、(前章でスーザンが、こちら側に還ってくる前にナルニアで落として無くしたのち、カスピアンの手に渡った、)「魔法の角笛」によって、四人が、ふたたびナルニアに呼び戻され、ナルニアでの長い時間の経過と、自分たちの治世時とは変わり果てたナルニアの現在に気付くところ、ピーターとミラースの一騎打ちの勝負がクライマックスでしょうか。(ピーターは、前回主張した作戦の失敗を償うように、一の王としてよく頑張りました。)
 
 物語の基本にキリスト教の世界観がありますが、その知識がなくても、「ナルニア」を理解することはできるし、物語を楽しむこともできます。そこが素晴らしい。そして、次映画化されるのはどの章なのか、カスピアンが活躍するのだとしらた3章「朝びらき丸東の海へ」ですが、この章は、さらにファンタジー色の強い冒険(航海)物語ですので、さらにおもしろい作品になると思います。

 ※過去の関連記事
  つれづれ日記(最近観た映画のことなどを少しだけ)

 「魔術師のおい」読了(追記あり・ナルニア関連記事の紹介あり)

 「ナルニア国ものがたり」読了

 「さいごの戦い」に感じた違和感

 

| | Comments (0) | TrackBack (1)

ピーター・オトゥールの「ヴィーナス」

 ピーター・オトゥール主演(アカデミー賞主演男優賞ノミネート)の映画「ヴィーナス」をDVDでやっと観ました。彼のファンとしては、動いている彼が見られただけで、映画の出来如何に関わらずOKなので、レヴューを書くのが難しいのですが・・・。

 脚本のクレイシは、谷崎潤一郎の「癇癪老人日記」に影響を受けてこの物語を構想したそうです。オープニング、海の映像のあと、同じ海を描いたと思われる油絵を見ながらコーヒーを飲む主人公、モーリス(ピーター)の、老人の孤独と哀愁の滲んだ顔。.(ぞくっとするほど今でも美しい!)場面が変わって、カフェで親友の老俳優仲間と薬の説明書を読みながら、次々と薬を飲むシーンの、ふたりのシニカルさとエスプリにあふれた会話が、薬と切り離せない老人の日常を表現しながらもイギリス的ユーモアにあふれていて、(この親友とのシーンが、若い娘(=ヴィーナス)とのシーンよりも好きだったくらい )よかった。

 インタビューで、オトゥールが、主人公は「好ましくないことに」、「友人の美しい姪の娘に惹かれ」、(主人公とその友人のことを、)「絶望的に病んでる2人の男 」と言っているように、主人公の職業が、年老いた俳優であることから、ピーターとこの物語の主人公を同一視したがるひとが多いと思うけれど、オトゥールは、この役を「演じている」のであって、彼はモーリスそのものではないのだ。
 さらに、インタビューを引用すると、

  「演じる役柄を役者として
  理解できない者を―
  主役に考えてはいけない 
  本当に適した役者が
  見えなくなる」
  という”演劇において古くから用いられている言葉”の引用(ジェシー役のキャスティングに関しての言葉)

  「明かりのついてない
  街灯のような主役を迎えた―
  撮影現場ほど
  恐ろしいものはない
  事実そんな現場も多い」

  などの言葉から、彼の演技哲学―演じる役柄を理解して、理知的に演技を組み立てていく―が垣間見える。でも、オトゥールの演技には、昔から理知的なだけではない、日本で言うところの”華がある”と言うのか、ヨーロッパの知性の翳りを帯びた色気が感じられて、それが比類なくいいのである。今回の映画で言うと、ジェシーに頼まれて、彼女がヘビの刺青を入れるためのお金を出してやるのだが(実はボーイフレンドとお揃いの刺青)、刺青を彫っているジェシーを見ている主人公を、外で見ているジェシーのボーイブレンドに気付き、彼が振り返るシーンとか、その若いボーイフレンドが気の毒なくらい、オトゥールの方が色っぽいのだ。ラスト近くで、ふたりが部屋に訪ねてきたときも、不遜な態度でモーリスを見ているその男を見つめるオトゥールは、カッコよすぎで、やはりそのボーイフレンドの駄目さ加減が余計に際立ってしまってました。

 モーリスの妻役のヴァネッサ・レッドグレーヴは、さすがの存在感でした。ジェシーに約束をすっぽかされて、傷心の彼が突然訪ねて来た時に、TVで若い頃のモーリスの出演している映画を見て、「ハンサムだったわね」というところは笑えました。(このシーンはそれだけでなく、その後のふたりのやりとりがなかなかいい、シーンでした。
 また、ラスト近くに、モーリスの「死亡記事」をカフェで読んでいるふたりの友人に、カフェの女が、「お友だちは?」と尋ねると、ふたりが、彼の若い頃の写真(オトゥール本人の写真)の掲載されている新聞記事を見せると、女が、「お友達はすごく魅力的(=ゴージャス)だったのね」と言うところも、オトゥールへの製作者の敬意が感じられた。 
 
 音楽では、ドヴォルザークの哀感あふれる 「スラヴ舞曲」が印象的に使われていました。あと、ベラスケスの有名な油絵、「鏡を見るヴィーナス」と、モーリスのしゃべるシェークスピア劇のセリフなども効果的に使われていて、さすが英国映画という感じでした。

 映画の、老人の性や若い女への執着という谷崎的なテーマは、正直あまり興味が無く、また主人公の「欲望を最優先する(それによって彼は過去に妻と子どもたちを捨てたのですが)生き方」にも共感はしないし、支持もしないのですが、それをオトゥールがどう演じるのか、それだけで観れてしまう私です。オトゥールの演技には、いわゆる”エロじじい”と言って片付けられない+αがあるのだ。それを、できれば彼の主演で、また観たい!

 ※ピーター・オトゥール 関連記事
  「名犬ラッシー」
  ロレンスの言葉 
  「 アラビアのロレンス[完全版] 」 DVD
  「アラビアのロレンス[完全版] 」
  世界一の美貌  
  

 

 

| | Comments (0) | TrackBack (1)

「Sweet Rain 死神の精度」

 金城武が死神役を演じている「Sweet Rain 死神の精度」を観た。ひと言で言うと、「ほっこり」しました。私的に微妙な評価の作品が続いた金城君出演作のなかで、これはひさびさに○です。天使とか死神とか、そういう役が本当にはまりますね。(香港映画で天使役を演じたのは「ラベンダー」だっけ。)不慮の事故で亡くなる人物を7日間観察(実際に接触もする)して、「実行」か「見送り」かを判断する。彼が現われると、こちらはいつも雨、で彼はいつも傘を持ち、青空を見たことがなく、黒い犬を連れている。そして 「ミュージック」が好き。(ひとり目の時の小道具はウォークマン、ふたり目の時はiPodが使われていて、時の経過を表していた。最後は家事機能付きロボットだったけれど。)仕事柄、いつも非情に死の「実行」の判定を下すかと思いきや、今回はどうもそうではないらしい。観察の相手や時代に合わせて、人間界へ通じるドアを通り抜けると服装や髪型も変わるらしい。私は、ふたり目のターゲット(中年やくざ)の時の”それ風”出で立ちが「不夜城」を思い出してGoodでした。
 死神とターゲットの会話の微妙なズレ加減が笑える。ゲラゲラではなくて「クスッ」といった感じの笑い。「ナンパ」→「難破」、「醜い」→「見にくい」、「雨男って雪男みたいなもの?」みたいな人間界の新しい言葉に適応できない死神の勘違いから生ずる笑い。それを演じる金城君の飄々とトボケた感じがいい。それと、2話で、ボーリング(「ゴールデンボウル」の引用)と、ビリヤード(得意)と、マージャンをする場面があったりして、私はこの部分が死神のルックスをも含めて、一番おもしろかった。
 私的には、動いている金城武と、あの低音ボイスを聞けただけでも満足なのですが、これまでの彼の持ち味を生かしきれてないいくつかの日本映画に比べて、この映画は、彼の個性をよく生かした演出になっていると思います。ただ、小西真奈美→冨司純子が、私的には、どうしても違和感でした。それは、小西真奈美のプロポーションが80年代のOLと言うには現代的過ぎるせいで、(薄幸な感じは出ていましたが)、最初、1話から2話への時の経過が少しわかりにくく感じました。でも、私的には、充分満足の作品でした。中年やくざの光石研とその子分役の石田卓也の演技もよかった。

 死神=金城武ならばということで、原作者伊坂幸太郎さんの映画化OKが出たそうです。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「 スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師 」

 実は、この映画を観てから大分時間が経っているのだが、なかなかレヴューが書けなかった、書こうかどうしようか迷っていた。そもそも、殺人鬼が主人公と言うことで、予想される映画の内容に観ようかどうしようか迷ったのだが、ジョニー・デップ主演と言う誘惑には勝てず観に行ったのだが、未だに正直戸惑っています。作り物の血が流れ出す、この物語の内容を暗示しているように不気味な映画の冒頭部分で、既に、ウッと少し目まいがしました。(冒頭からティム・バートンワールド炸裂です。)ストーリーは、社会的強者(=判事)の自分の妻への横恋慕による理不尽な暴力によって、全てを失って投獄された男の復習譚で、復讐心にとりつかれて狂気の連続殺人鬼と化した男と、自分へ振り向くことのないその男を愛して、その犯罪に加担してしまう女の悲劇の物語、と書いただけで陰鬱なことこの上ない話なのですが、主人公の復讐が達成されたからと言って、それで、すかっとするわけでもない。それは、容赦ない殺人場面と、その死体の行き着く先(死体の階下のパイ屋の地下の床への落下)までを、罪の無い人たちが殺される場面を含めて何回も見せられるからである。殺人や死体は暗示するだけでも充分怖さは伝わると思うのだが、監督は、毎回、殺人、血、死体の床への落下までを御丁寧に見せるのだ。それは、もうリアルに怖くて気持ち悪い。それは、どうしてだったのか、をずっと考えていた・・、それがティム・バートンだから、で説明されてしまう気もしますが、それを悪趣味だと切って捨てる気にもならなかったのです。だから、トッドが判事への復讐を果たしてもなお、全てを見せられた観客は、復讐と狂気が呼寄せた更なる暗い未来を予想して不安に駆られながら、悲劇の結末を待つことになるのです。だから、ラヴェット婦人の夢想する、トッド、自分、トビー三人の、海辺の静かな生活に見られるユーモラスさを楽しむ余裕など私には全く無かった。不気味な白塗りのふたりのメークによって演じられるそのメルヘンチックな夢の場面は正にバートン調なのだが、全く笑えなかった。暴力と復讐の虚しさと、それが呼寄せた更なる悲劇、破滅を描いて物語の幕を閉じるラストシーンは見事でした。だから、殺人シーンのショッキングさの強調とその繰り返しのインパクトが、舞台と違って強過ぎて、悲劇の印象が薄まってしまったのではないか、と言うのが、観終わっての印象でした。あの部分を、もっと控えめに演出してもよかったのではないかと。でも復讐の虚しさと暴力の怖さ、グロテスクさと、私たちの感情移入を一切拒否するような、殺人の狂気にはまり込んでしまった主人公のどうしようもなさ、は伝わってきたので、それを伝えるための演出だったのかとも思いました。勿論、トッドを演じる、ジョニー・デップの役作り、演技、存在感は申し分無いのですが、観る人を選ぶ作品ではあると思います。外部がいとも簡単に内部に侵入して来てしまうような守りの薄いひと、フィクションの暴力に引き摺られて自分の中の暴力性を誘発されてしまうようなひとは観ない方がいいと思う。
 
 この物語には色々な愛が登場するのですが、私が最も心惹かれたのは、少年トビーのラヴェットに寄せる愛でした。ラヴェットも彼に母性的な愛情を感じているのですが、最後の所で、(泣きながらでしたが)トッドへの愛を選んでしまう。少年の彼女に寄せる愛がとても純粋だっただけに、やり切れない選択でした。この愛は、ラストシーンの重要な鍵となるのですが。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

より以前の記事一覧