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テレビの中の出来の悪い役割モデルたち(細木数子、明石屋さんま)ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2005-11-30 にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 子育てに関するふたつの記事を書いていて、ふと気付いたことを書いてみたい。
 
 前回の投稿の最後にも書いたのだが、「明石屋さんまは出来の悪い”役割モデル”である」、あるいは 「さんまの番組”から騒ぎ”は細木数子の番組に似ている」ということに気付いた。
 
 彼が、例の(もう恋がどうこうという歳ではないのであまり見たことは無いですが)「恋のから騒ぎ」やその他のトーク番組で、若い女の子や芸人たちに向かって恋愛薀蓄話や自分の女性観を語っている様子が、その不完全さにおいて、細木数子が彼女の番組で若い芸人たちや女の子たちに説教している図に重なって見えたのだ。
 私は、さんまが、現在において若い世代にどれだけの影響力があるのかは知らないが、若手芸人たちやテレビをよく見る層にはまだまだ絶大な支持を受けていると思うので、そんな彼が「俺は子どもを産んでお母さんになった女は駄目なんだなあ~」とか、若い女の子に(ご丁寧に”説教部屋”などと名前を付けて)説教を垂れているのを見ると勘弁してくれと思う。「このひとは何歳まで”恋がどうたらこうたら ”言い続けるつもりだろうか 」、と思う。そしてこんな”出来の悪い役割モデル”しかいない日本の若者たちを可愛そうに思う。私は、芸人さんまは決してきらいじゃないし、例の”説教部屋”も大人が見ることをとやかく言うつもりはない。彼の「サトウキビ畑」のドラマでの演技などは評価しているし、今時の若い芸人たちよりもずっと常識も教養もあると思う。彼の時おり見せる父親としての感想に共感したりもする。ただ、「彼の恋愛論だけはもううんざりなのである。」若い子たちには、「彼の女性観や恋愛論を真に受けても幸せにはなれないよ 」ということは声を大にして言っておきたいと思う。(皆がわかっていて、「反面教師」として聞いているなら、それはそれでよいのですが、番組の出演者たちを見ているとどうもマジに聞いているとしか思えないので)

 それにしても、「から騒ぎ」に出演している女の子たちには、どうもバブルの時代の尻尾がくっついているようなセンスの古さを感じてしまうんだが・・。その出演者のセンスの古さ加減が、さんまの恋愛論とほどよくマッチしているのかもしれないが・・・。

 今日の格言:  恋愛を語っているさんまは、”思春期気分のオトナ”でしかない

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大人とは・・ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2005-12-01 にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 教育関連の投稿の最初で紹介した本「未熟なオトナと不遜なコドモ」(ロバート・ブライ著/「クイズ番組に見る学力の低下・・」参照)には、現代の状況を読み解くのに示唆的な言葉が多く見られて私自身かなり勉強になったので、その中からまたいくつかの言葉を紹介したいと思う。


 皆さんは、「ジャックと豆の木」の物語を覚えているでしょうか。著者によると、この物語は、「父親に制約されない”怠惰で、軽率で、羽目をはずしがちな”十代の息子を持つ母親の話」であるということで、「巨人とは、書斎で人を刺し殺し、子どもを食らう者だ。」として「子ども部屋のコンピューターやテレビ」「子どもを一人きりで巨人の元へやっている」ことに他ならないとしています。 「二十歳から三十歳までの半大人はこうしたファイル(ポルノ)から子どもを守ろうとはしない」(同書70頁)「ジャックとは、父親のいない、そして最近では母親もいなくなりつつある社会に住むすべての男女をあらわしているのである。」(51頁)と。


 「保護されない子どもージャック」
 
 「子どものいる子ども」


 そして、思春期の少女たちも、「多くは必要な保護を受けていない」として、彼女達が「家庭の中でさえも親に大切にされていないと感じている。」とする少女の研究家の言葉を紹介している。(64頁)


 「思春期の若者たちが運営する社会」「子どもたちを軽視し」「半分大人の状態を評価」する。そこでは、「親は退行してこどものよう」であり、「子どもは見捨てられてしまう、早く大人になることを強いられる」のでこの本の表題である「未熟なオトナと不遜なコドモ」たちが多く見受けられるようになったのであると。
 
 「子どもたちは、あまりにも早く物事を知るようになるので、”大人”になりすぎて年長者を大人とみなすことができない子どもがますます増えている。」という土居健郎の著作「甘えの構造」からの言葉も紹介されている。そして、「大人のような子どもと、子どもっぽい大人の共通要素は甘え」であると。


 女性たちもまた、肉体的にも感情的にも若く、さらには未熟であれと社会に命じられている。

 「教養を身につける苦労を怠る者」は「代わりにナルシシズムに浸り、幻想を上演している多目的劇場への切符を手に入れる」(77頁~79頁)


 「イニシェーションを体験していない女性たちのナルシシズムはきょうだい主義社会を直接あおり、男性の思春期の延長とも共謀している。」(159頁~160頁)


 「充分な心の準備ができる前に性欲を刺激されてしまう」「早すぎる思春期を迎え、永遠に思春期のまま留まる。」(182頁)


 きょうだい主義社会は、父親を家庭から奪い、がらくた文化を無批判に受け入れ、若すぎるうちから薄っぺらな性体験を促し、礼儀を奪い去り、経済的な不安定さをもたらすことで、娘達の魂に重大なインパクトを与えてきた。(164頁)


 その人の癒しは蓄積してきた歴史に基づいたものでなければならないだろう。
 
 思春期の若者は、「同世代のことしか気にしない!自分の欲望が大切だし、それで集団が生き延びられないというなら、そもそも生き延びる価値はないんだ。」(76頁)
と感じている。

 
1965年頃、何世紀にもわたって、有効だった家庭のしつけが突如崩壊した。

 裕福な者も貧しい者も、基本的には同じ家族の解体を経験しているのだ。(64頁)
 
→保護されない子ども ジャック の出現


 エルヴィス―年長者に導く対象として見られたことがない息子のよう(115頁)


以上、かなりアトランダムに本の言葉を紹介してきましたが、最後に著者の考える大人についての定義の部分を紹介します。

 
大人とは、われわれがエディプスコンプレックス前の願望と呼んできた、快楽と慰めと興奮をすぐに手に入れたいという願望に支配されない人間
 
 世界は主に死者のものであり、われわれはほんのしばらく死者から世界を借りているにすぎないことを理解するのは大人の眼力である。
 
子どもの扱い方に多大な時間と労力を注ぎ込んでいる。世界を継続させていくのは子どもたちだからだ。

 本当の大人とは、思春期の若者の激しさに対抗するための、自分の世代と創造性にふさわしい激しさを失わずにいられる者だ。こうした激しさを失わないだけでなく、さらに激しさを増す時、大人は長老となると言えるだろう。


 世界へ出ていき「他人のために感情の宝石を集める」者だ。(アンサール)


     
 大人は本当に大人になるとはどういうことかを判断しなければならない。
 若者を大人の世界へ引っ張り入れることを求められている。大人が振り向いてこのラインまで歩いて行き、思春期の若者を引っ張り込まねなければ・・・・。(321頁~322頁)

 今日も、「思春期気分の大人」による「子どもたちへのひどい仕打ち」
と見られる犯罪のニュースが絶えません。でもそれらは、突然変異的に現われたものではなく、私たちが住んでいるこの社会と文化が生み出しているものなのだという意識を忘れてはならないと思います。そのことを考える時、著者が「がらくた文化」の「巨人」と呼ぶテレビやコンピューターあるいはゲームやアニメなどが子どもたちに与えている毒の部分に大人たちが無関心でいることの危険性を私たちがもっと自覚することの重要さを感じます。
 これに関連して、前の投稿(「テレビの中の出来の悪い役割モデル」)でも触れた”さんま”が前にテレビで「”古典”なんか生きていくのに必要ないから勉強する必要がない。」という(高校の古文の先生が聞いたら嘆くだろう)意味のことを発言していたのを覚えています。私もテレビの前で「それは違うよ」と呟いていましたが、皆さんはどう思われますか。どなたかが言っていましたが、「イギリス人はたとえその全文を読んでいなくても、少なくともシェークスピアの戯曲についての知識は持っていて如かるべきであると。」だから日本人にも身に付けるべき必須の教養はあるはずで、さんまの言うように生きていくだけなら、(金もうけをするだけなら)古文の知識など必要ではないかもしれないが、例えば、平家物語の前文の知識があるかどうか、芭蕉の俳句をいくつか知っているかどうかで、それらを全く知らない人とは人生観や哲学において全く違ってきてしまうと思うことを考えると、さんまの言っている事の誤りは簡単にわかることだろうと思う。そして、そういう発言こそは”きょうだい主義社会”の流している毒に無自覚な発言であるし、私たち自身がその中にどっぷり浸って育ってきた存在であるという自覚の元に、この社会を見直していく必要が、子どもたちのために必要だと思う。

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お笑いにみる学力の低下

 一応、教育というカテゴリーに設定していますが、そんな大上段な内容ではないので、気楽に読んでみてください。
 日本のお笑い界を代表する三人と言えば、ビートたけし、タモリ、明石家さんま。(異論のあるひともいると思うけれど、とりあえず、この三人にさせてもらいます。)三人の中で、一番若いのが、明石家さんまで昭和30年生まれ。で、何が言いたいかというと、私は「お笑いに必要なものは、常識だ」と常日頃思っているので、三人ともそういう点から見ると、安心して見ていられる。(この場合、あくまで、彼らは「常識がある」と言っているので、「常識的である」と言っているのではない。)つまり、固い言い方をすると、笑いというのは、大衆のもので、大衆に受けるためには、大衆の深層心理に通じていなければならない、ということで、それには、「常識がある」ということが、必須条件だからだ。柔らかく言えば、頭がよくなければ、(成績がいいということではなく)、お笑いをやってはいけないということになる。(あくまで、”プロ”の話です。)そういう点から、この三人を見ると、三人ともクリアーしていると思う。(勿論、それぞれの全てを肯定している訳ではないし、特に、その女性観に関しては、勘弁して欲しいと思うけれど、それは、今回のテーマではないので。)で、彼ら以降、彼らを、脅かすような新人があらわれたかというと、あらわれていない。若者の圧倒的支持を得ている、いろんなコンビにしても、「常識」というより、「非常識」を売り物にしている。「知っていながら知らない振りをしている」のではなく、元々、「知らない」ことを、売り物にしている。だから、身辺雑記や、芸能界のあれこれについて、しゃべるしかネタがない。どうして、こういうことになってしまったのだろうか。それは、学校だけでなく、社会全体の教育力が低下したためだと思う。つまり、どこかに「知の断層」があるように思われる。「知らない」ということが恥ではない社会というべきか。 因みに、三人のなかで、一番、常識人であると思うのは、ビートたけし。彼の場合、常識人である自分への照れから、お笑いというかくれ蓑をまとっているという感じだ。そして、時々、我慢できなくなって 、ぼそっと鋭い言葉を吐いてしまう。(彼に関しては、別の機会に取り上げてみたい。功罪あると思うので。)ビートたけしが、今まで残って来たのは、どんなに、非常識を演じようと、その後ろに、常識人の彼が見えるからで、他のふたりにもそれは言えることだと思う。だから、社会の教育力の低下で、常識の無さを売り物にする芸人は増える一方だが、当分、彼らを脅かすような芸人は出て来ないと思う。


※マイホームページ日記ページに新記事(中田英寿~MY FAVORITE FOOTBALLER~)アップしました!

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