Posts categorized "本"

鶴見俊輔さんを悼んで過去記事紹介

 先日、お亡くなりになった鶴見俊輔氏を悼み、また在りし日のその” 知の巨人ぶり ”に敬意を表して、氏と加藤周一氏の対談本についての過去記事を紹介します。

 「二○世紀から」(加藤周一 鶴見俊輔)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

大人とは・・ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2005-12-01 にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 教育関連の投稿の最初で紹介した本「未熟なオトナと不遜なコドモ」(ロバート・ブライ著/「クイズ番組に見る学力の低下・・」参照)には、現代の状況を読み解くのに示唆的な言葉が多く見られて私自身かなり勉強になったので、その中からまたいくつかの言葉を紹介したいと思う。


 皆さんは、「ジャックと豆の木」の物語を覚えているでしょうか。著者によると、この物語は、「父親に制約されない”怠惰で、軽率で、羽目をはずしがちな”十代の息子を持つ母親の話」であるということで、「巨人とは、書斎で人を刺し殺し、子どもを食らう者だ。」として「子ども部屋のコンピューターやテレビ」「子どもを一人きりで巨人の元へやっている」ことに他ならないとしています。 「二十歳から三十歳までの半大人はこうしたファイル(ポルノ)から子どもを守ろうとはしない」(同書70頁)「ジャックとは、父親のいない、そして最近では母親もいなくなりつつある社会に住むすべての男女をあらわしているのである。」(51頁)と。


 「保護されない子どもージャック」
 
 「子どものいる子ども」


 そして、思春期の少女たちも、「多くは必要な保護を受けていない」として、彼女達が「家庭の中でさえも親に大切にされていないと感じている。」とする少女の研究家の言葉を紹介している。(64頁)


 「思春期の若者たちが運営する社会」「子どもたちを軽視し」「半分大人の状態を評価」する。そこでは、「親は退行してこどものよう」であり、「子どもは見捨てられてしまう、早く大人になることを強いられる」のでこの本の表題である「未熟なオトナと不遜なコドモ」たちが多く見受けられるようになったのであると。
 
 「子どもたちは、あまりにも早く物事を知るようになるので、”大人”になりすぎて年長者を大人とみなすことができない子どもがますます増えている。」という土居健郎の著作「甘えの構造」からの言葉も紹介されている。そして、「大人のような子どもと、子どもっぽい大人の共通要素は甘え」であると。


 女性たちもまた、肉体的にも感情的にも若く、さらには未熟であれと社会に命じられている。

 「教養を身につける苦労を怠る者」は「代わりにナルシシズムに浸り、幻想を上演している多目的劇場への切符を手に入れる」(77頁~79頁)


 「イニシェーションを体験していない女性たちのナルシシズムはきょうだい主義社会を直接あおり、男性の思春期の延長とも共謀している。」(159頁~160頁)


 「充分な心の準備ができる前に性欲を刺激されてしまう」「早すぎる思春期を迎え、永遠に思春期のまま留まる。」(182頁)


 きょうだい主義社会は、父親を家庭から奪い、がらくた文化を無批判に受け入れ、若すぎるうちから薄っぺらな性体験を促し、礼儀を奪い去り、経済的な不安定さをもたらすことで、娘達の魂に重大なインパクトを与えてきた。(164頁)


 その人の癒しは蓄積してきた歴史に基づいたものでなければならないだろう。
 
 思春期の若者は、「同世代のことしか気にしない!自分の欲望が大切だし、それで集団が生き延びられないというなら、そもそも生き延びる価値はないんだ。」(76頁)
と感じている。

 
1965年頃、何世紀にもわたって、有効だった家庭のしつけが突如崩壊した。

 裕福な者も貧しい者も、基本的には同じ家族の解体を経験しているのだ。(64頁)
 
→保護されない子ども ジャック の出現


 エルヴィス―年長者に導く対象として見られたことがない息子のよう(115頁)


以上、かなりアトランダムに本の言葉を紹介してきましたが、最後に著者の考える大人についての定義の部分を紹介します。

 
大人とは、われわれがエディプスコンプレックス前の願望と呼んできた、快楽と慰めと興奮をすぐに手に入れたいという願望に支配されない人間
 
 世界は主に死者のものであり、われわれはほんのしばらく死者から世界を借りているにすぎないことを理解するのは大人の眼力である。
 
子どもの扱い方に多大な時間と労力を注ぎ込んでいる。世界を継続させていくのは子どもたちだからだ。

 本当の大人とは、思春期の若者の激しさに対抗するための、自分の世代と創造性にふさわしい激しさを失わずにいられる者だ。こうした激しさを失わないだけでなく、さらに激しさを増す時、大人は長老となると言えるだろう。


 世界へ出ていき「他人のために感情の宝石を集める」者だ。(アンサール)


     
 大人は本当に大人になるとはどういうことかを判断しなければならない。
 若者を大人の世界へ引っ張り入れることを求められている。大人が振り向いてこのラインまで歩いて行き、思春期の若者を引っ張り込まねなければ・・・・。(321頁~322頁)

 今日も、「思春期気分の大人」による「子どもたちへのひどい仕打ち」
と見られる犯罪のニュースが絶えません。でもそれらは、突然変異的に現われたものではなく、私たちが住んでいるこの社会と文化が生み出しているものなのだという意識を忘れてはならないと思います。そのことを考える時、著者が「がらくた文化」の「巨人」と呼ぶテレビやコンピューターあるいはゲームやアニメなどが子どもたちに与えている毒の部分に大人たちが無関心でいることの危険性を私たちがもっと自覚することの重要さを感じます。
 これに関連して、前の投稿(「テレビの中の出来の悪い役割モデル」)でも触れた”さんま”が前にテレビで「”古典”なんか生きていくのに必要ないから勉強する必要がない。」という(高校の古文の先生が聞いたら嘆くだろう)意味のことを発言していたのを覚えています。私もテレビの前で「それは違うよ」と呟いていましたが、皆さんはどう思われますか。どなたかが言っていましたが、「イギリス人はたとえその全文を読んでいなくても、少なくともシェークスピアの戯曲についての知識は持っていて如かるべきであると。」だから日本人にも身に付けるべき必須の教養はあるはずで、さんまの言うように生きていくだけなら、(金もうけをするだけなら)古文の知識など必要ではないかもしれないが、例えば、平家物語の前文の知識があるかどうか、芭蕉の俳句をいくつか知っているかどうかで、それらを全く知らない人とは人生観や哲学において全く違ってきてしまうと思うことを考えると、さんまの言っている事の誤りは簡単にわかることだろうと思う。そして、そういう発言こそは”きょうだい主義社会”の流している毒に無自覚な発言であるし、私たち自身がその中にどっぷり浸って育ってきた存在であるという自覚の元に、この社会を見直していく必要が、子どもたちのために必要だと思う。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

「散るぞ悲しき」ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2007-06-30 にgooブログに掲載したものの再投稿です。
 
 生協のピースライブラリーで見つけて、「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」(梯久美子・著/新潮社)を読んだ。読むのは大体夜中、寝る前だったのだが、読んでいる間は、その後眠れなくなって困った、そんな本だった。そして、読むのが止めれなくなるような本だった。
 内容は、映画「硫黄島からの手紙」で描かれている栗林忠道像を、その硫黄島での日々、戦闘そして最期を、そのまま詳しく描写した感じで、あの映画が、かなりリアルに、栗林忠道という人物を描いていたということがわかった。
 
 この本のタイトル「散るぞ悲しき」は、彼が最後の総攻撃前に、大本営に宛てた訣別電報の最後に添えられた辞世の歌3首のうちの1首、

 国の為重きつとめを果たし得で 矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき

 から来ています。当時、軍人(指揮官)として、戦闘行為を詠むに当たって、タブーとされていた”悲しき”という言葉―新聞発表では”口惜し”と改変されて発表された―が、どのような経緯で、どのような思い(意志)が籠められて発せられたのかを、軍人、家庭人としての栗林の性格や、島での地下陣地構築の日々、「生地獄」とも表現された、過酷で凄絶な戦闘の様子やその最期をていねいに描写していくことによって、描いている。もちろん、映画でも使われた手紙も数多く紹介されている。
 私が最も印象的だったのは、生前の栗林を知る者を訪ねて、軍の軍属(裁縫係)として、生前の栗林と親しく接し、彼のことを”うちの閣下”と呼ぶ85歳の貞岡氏に会った時のエピソードだ。当時「閣下のもとで死にたい」と願い、硫黄島に渡ろうとしたが、本人から「来てはならん」と怒鳴られ、その願いを果たせず、今でも栗林の最期の電報の電文の一言一句を忘れず、まるでお経を読むように朗誦するという貞岡氏は、栗林の死から33年後の昭和53年に慰霊巡拝団の一員として島に渡ったときに、案内の人が栗林が潜んでいた司令部壕を指すと、「閣下ぁー、貞岡が、ただいま参りましたーっ!」と呼びかけながら、その方向に駆け出したという件を読んだときは、われ知らず泣けた。
 映画でも使われた最後の出撃前の栗林の言葉、

日本国民が諸君の忠君愛国の精神に燃え、諸君の勲功をたたえ、諸君の霊に対し涙して黙祷を捧げる日が、いつか来るであろう。

 を、思い出した。

 貞岡氏の電文朗誦は、硫黄島の死者の霊に対する、私たちに代わっての、やはりお経なのだ。それは、そのような戦争があったことも、そこで亡くなった兵士たちのことも忘れて暮らしている私たちの戦後を照射している。私たちはそれらの死者を思い出し、涙することがあったのかと。(私は、栗林忠道のことを映画「硫黄島からの手紙」を観るまで知らなかった。)


 アッツでもタラワでも、サイパンでもグアムでもそうだった。その死を玉砕(=玉と砕ける)という美しい名で呼び、見通しの誤りと作戦の無謀を「美学」で覆い隠す欺瞞を、栗林は許せなかったのではないか。(同書220頁より)

 スミス中将が、その不気味なまでのしたたかさをウジ虫に例えた硫黄島の地下陣地。それは、名誉に逃げず、美学を生きず、最後まで現実の中に踏みとどまって戦った栗林の強烈な意志を確かに具現していた。(同書126頁より)

(※スミス中将=米海兵隊硫黄島上陸作戦の指揮官、ホーランド・M・スミス中将)

 しかし、その闘いは、栗林本人をして、「鬼神(きじん)を哭(なか)しむる」と表現させずにはおかないほどの戦いだったのだ。
 この本からは、栗林の”絶唱”としての電文に籠められたその闘いの哀切さとともに、その最期のときまで徹底した現実主義者(現実主義者としてアメリカとの開戦に反対していた)だった軍人栗林の姿が浮び上がって来る。硫黄島の地下陣地やその闘いぶりによって、敵将を感嘆させ、彼に対して畏敬の念を抱かせるほどの。そしてその現実主義者の彼が、留守宅のこまごまとした事までを気遣う手紙を書く、よき父親であり、夫であったことは、映画でも描かれていたとおりだった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

斜め読みの批判の批判ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2010-05-24 にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 前の記事で紹介した「古地図で巡る龍馬の旅」の講師、茨城大学準教授の磯田道史氏の龍馬評に「龍馬はリアリストですから」(第8回 放送で) というのがあったが、漫画家黒鉄ヒロシ著作「坂本龍馬」で、黒鉄氏は、「龍馬は過大評価され過ぎている」という最近の”疑問符”に対して、”龍薬”と題した項で、司馬さんの「竜馬がゆく」が戦後の日本人に与えた勇気と元気について語りながら、”龍馬さん”は抜群の効き目を持つ”薬”であるとして、その薬に対して、”歴史の研究”という”外科的手術”を施すことに抵抗があるし、推論でしかない疑問符は”野暮”だとし、”投げかれられた疑問符を打ち返すつもりはない。見逃してしまうしまうだけである。”と言い切っている。この黒鉄氏の発言は言いえて妙だと思うので、その項の最後の言葉を紹介してみよう。

 「新史料を斜めに読むことによって龍馬さんの位置を下げることにどれほどの意味があろうか。良薬を失ってしまうだけである。」(同書より)

 ネット上には、史料を斜めに読んだ”推論でしかない疑問符”みたいなものをさらに斜め読みしたような批判が氾濫している。”皆が評価しているものを批判している自分って凄いでしょ”と自分に酔っているようなそれらの批判にうんざりしている。

 最近は、ニュース番組とかもほとんど見てない。一応何があったかくらいは、ちらちらと見るが、キャスターのコメントなどは、ほとんど聞かない。それらもほとんどが”斜め読みの批判”みたいに、物事の本質には迫ってない、批判しているポーズに酔っている、充足しているものばかりに思えるからだ。

 最初に紹介した磯田氏の龍馬評のように、きちんとした根拠に拠った発言を聞きたいのだ。ものごとの多面性を無視して、全か無かで物事や人物を切り捨てるような批判が、意外にも一目置かれたりするのは何とかならないものかなあと思うこのごろ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

加藤 周一の言葉ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2011-04-10 にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 福島の事故後の東電の会見を見ていて思い出した言葉があった。それは「二○世紀から」という加藤周一と鶴見俊輔の対談集の中の、( 11:科学技術の専門化と普通人の役割 )という章の中の加藤周一の言葉だ。少し引用してみます。

本当に優秀な技術者にとっていちばん大事なことはやっていることがおもしろいということなんです。
 だから「道徳的におかしい」「政治的愚行だ」と非難しても、科学技術とモラルの問題だけを論じ、技術者にとっての知的興味という問題を落とすと議論は空論になる。実際にやっている人は部分だけをやっていて、モラルのことはそんなに考えていない。技術者にそういうことを求めるのは無理なんです。 ( 加藤:同書233頁 )

 なぜ理科系の秀才がオウムに入るのかという問題も、戦争中は頭のいい技術者たちでさえいつかは神風が吹くと信じていたわけで、その問題と似ていると思う。技術者というのは二つの世界に住んでいて、緻密にものを考えるのは専門の実験室いるときで、一歩実験室の外に出ると大衆の一人に変わる。そのあいだにつながりはない。もちろん例外はあるでしょうが、全体の傾向としてはそれが技術者の一面なんです。( 加藤:同書239頁 )

 普通人の定義は難しいけれども、膨大な人数の普通人がいるという現実と、技術がこれほど発達した世界にとっては偉大な普通人が必要である、という二つの問題があると思う。ナチスに追われてアメリカに渡ったカール・フリードリヒは、デモクラシーの土台石の一つは普通人の哲学の尊重で、エリートだけではデモクラシーは成立しないと言っている。( 鶴見:同書234頁 )

「技術者にモラルを求めるのは無理」、「偉大な普通人が必要」 

 追記:

 結局は話題の選択の問題だと思う。テレビに何が映っているかというと、世の中にとって重大なことはほとんどない。・・・・全体として構造的に重大な問題はあまりない。そうすると世界は調和的だという印象が大衆の中に浸透していく。これがいちばん大きな問題です。 ( 加藤:同書301頁 )

 被災地の現実を忘れ去らないために、(自分達の不自由さを語れない芸能人たちの)ヴァラエティを見るのをやめよう。福島の悲劇の大きな原因のひとつに、みんなの無関心があったことは事実。9・11のテロが世界の無関心を告発した時のように。

 まだ世界は決して調和的ではない。あのくだらなさを増したように見えるバラエティが糊塗し、忘れようとしている現実を見よう。そこからしか再生は無い。そうすれば電力会社もスポンサーを降りるだろうよ。。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「魔術師のおい」読了(追記あり・ナルニア関連記事の紹介あり)ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2006-04-15 にgooブログに掲載したものの再投稿です。

黄金の門より入れ、さなくばはいることなかれ。
わが木の実はひとのためにとれ、さなくばひかえよ。
木の実をぬすむもの、つい地をこえるものは、
心の欲はみたすとも、つきぬ絶望も見出さん。
    
     「ナルニア国ものがたり6/魔術師のおい」(C・Sルイス作 瀬田貞二訳)より

 「ナルニア」の6巻目「魔術師のおい」を読了した。上に引用したのは、この物語の主人公の子どもたちディゴリーとポリーがアスランに命ぜられて、リンゴをとりに行った、とおい緑の谷間にある果樹園の門のとびらに書かれていた文句です。この巻では、ナルニアがアスランによって、どのようにしてつくられたか、またそのできたばかりのナルニアに子どもたちのせいで悪がまぎれこんでしまう様子が語られています。ディゴリーとポリーはそのつぐないのためにリンゴをとりに行くことになるのです。また、「1/ライオンと魔女」に出て来る”衣装だんす”の秘密や、ルーシィが初めてナルニアに行った時に見つけたあの”外灯”のなりたちも語られていますので、興味のある方は読んでみてください。
 
 映画「ナルニア国ものがたり ライオンと魔女」の感想をいくつか読みましたが、何か本質と関係ない(美形が出てこないとか、「指輪物語」と比べて物足りないとかの)ピントのずれたものが多かったです。皆、何を観てるんだかねえ。極端に”美”にこだわることについてはいずれまた書きたい(前記事に書いた女性の主に外見に関する完全主義とも関連していると思うので良かったら見てください)と思ってますが、この「ナルニア」の中では、悪が美の顔を持っていることが多いということだけは言っておきます。
 それと「指輪物語」と比べて物足りない、お子様向けだという意見ですが、よい児童文学は大人が読んでも読み応えがあります。エドマンドがターキッシュ・デライトというお菓子を食べて悪に引き込まれるところの表現などは本当にうまいと思います。映画が物足りなかったひとは是非原作を読んでほしいですね。原作を読んでも物足りないと思ったひとは、暴力あふれるメディアに慣らされて、強い刺激やショッキングな描写でしか満足できない自分の感性の鈍化を疑ってみてください。


 私は人間をとりまいているさまざまの固定観念、限界、束縛などを解き放とうとするときに生じる摩擦音のようなものとして、ファンタジーを考えてみたい。
       「子どもの本の現在」清水真砂子著(62頁)より

追記:ローリング・ストーンズの来日ツアーも終わったのかな?何かでインタヴューをやっていたのを見た記憶があるが、今さら、「アーイキャーンゲッノォーサァーティースファークショオーン」なんて聞く気もないが、今回ではなくて、ちょっと以前にニュース23で草野さんがインタビューしていた時のキースのインタビューはすごかった。例によって酔っ払っていたと思うが(いつもしている髑髏の指輪の意味についても説明していたと思う)、「若者に何かメッセージを」と言われてカメラに向かって言ったひと言 「生きのびろ!」 は、言ったひとがキースだけに強烈なインパクトがあった。
 「”どうやったら生きのびられるか”ということを子どもたちに伝えるのが子どもの本のいのちである」と上述の清水真砂子さんが「幸福の書き方」という著書で言っておられますが(彼女は、「今時、幸福なんて、口にするのも恥ずかしい」と前置きされて語られていることは断っておきますが)、私も、それを知りたくて子どもの本を読んでいます。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「1984」 デヴィッド・ボウイ 「Diamond Dogs」ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2005-10-05にgooブログに掲載したものの再投稿です。 

 私が、この小説のことを知ったのは、デヴィッド・ボウイが1974年に発表したアルバム「Diamond Dogs」によってだった。このアルバムは、ボウイが傾倒していたオーウェルの小説「1984」から想を得て作った、ボウイによる「1984」の世界の表現だった。当時の日本でのボウイ人気は、グラムロック人気の延長からの、彼のルックスによる少女マンガ的な人気だったと思うが、(そういう私も、その口だったことは否めないので大きなことは言えないが、)ポストビートルズのロック界において、当時、彼がトップランナーだったことは間違いないし、彼の社会的、政治的なメッセージ性の強い曲作りに共感していた熱狂的な日本のファンも少なからずいたと思う。その後の80年代のボウイは、「レッツ・ダンス」の大ヒットなどによって、不可解な方面へ変容していって、古くからのファンに見放されていくのだが、それは置いといて、「Diamond Dogs」を聴いていた頃の私は、これより少し前の有名なアルバム「Ziggy Stardust」の中の有名な曲、「Five Years」の悲痛な叫びのようなボウイのボーカルによってくり返されるペシミスティックな歌詞「地球の滅亡まであと五年間・・・」という曲と共に、アルバム「1984」の描き出す近未来の陰鬱な予想図をぼんやりと恐れていた。「あと五年間・・・五年間・・・五年間・・・」というリフレインを聴きながら。だから、今思えばお目出度いと思うが、実際の1984年が表面的には何事もなく過ぎ去ったときには、「世界も滅びなかったし、1984の世界も現実にならなくてああよかった」とナイーブに思ったのを覚えている。

 しかし、しかし、私たちが安堵して、その世界は私たちとは関係ないどこかの共産主義やファシズム体制の国のことかと思っていた現実が、この2005年の日本で実現されようとしているとは・・・。

 このアルバムよりも少しあとで、小説と同名の映画「1984」を観た。オーウェルの「1984」の世界を忠実に映画化しているとされるその映画は、最初から最後まで、陰鬱で、やるせなく、灰色の希望のない世界が表現されていて、観たあと気が滅入ったことを覚えている。映画館から外に出た時には正直ほっとした。

 80年代のボウイの変容は、私の中で、彼に対する興味とロックに対する興味の両方を失わせていったが、あれから20年経って、オーウェルやボウイの予言した世界を最も洗練された形で抵抗もなく現出しようとしている国があるとは・・・。

 オーウェルの「1984」もボウイの初期の上に挙げたようなアルバムも、今の日本でこそ読まれ、聴かれるべきかもしれないと思う。日本には、今のところ彼らのような預言者、警告者は現われそうにないので・・。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「 日本人と日本文化 」(司馬遼太郎/ドナルド・キーン)

 司馬遼太郎とドナルド・キーンの対談本 「 日本人と日本文化 」を読んだ。

 読んだといっても、日本人と日本文化について、高校の教科書程度の知識しかない私には、ふたりの、( 司馬氏の博識は当然としても )、ドナルド・キーン氏の造詣の深さ(陳腐な表現ですが)は、もう只々溜息でした。 ほんとうに知らないことだらけです。

 で、面白くて、読みやすい本なんですが 、その内容を咀嚼するには、再読しなければ、という感じなのですが、現時点で印象に残った点をひとつふたつ挙げておきます。

 司馬氏は、やっぱり”戦国”と”幕末”が好きだということ。それに比べて、”忠臣蔵”はあまり好きではないということ。(戦国はともかく、私も幕末>忠臣蔵なのでそうだなぁ~って感じです。)

 それと、明治維新において、イギリス人、” アーネスト・サトー ”が果たした功績を、”西郷隆盛に匹敵する志士”と評価していること。大河の「 龍馬伝 」で、サトーの”長州”を評価する言葉が紹介されましたが、まさか、日本史を動かすような働きをした外国人がいたことは驚きでした。

 ふたりとも、”東照宮的”きらきらを嫌っていること。

 書かれていることは深いですが、対談なので非常に読み易い本ですので、興味がある方はご一読を!

| | Comments (0) | TrackBack (0)

黒鉄ヒロシ作 「 坂本龍馬 」

 「 龍馬伝 」放送が、始ってから思い出したのですが、そう言えば息子に読ませようと買った、黒鉄ヒロシの漫画本( 御本人は「歴画」と名付けられているそうですが )「坂本龍馬」があったと。早速読んでみると、これが、なかなか面白い。
 写真の残っている登場人物は、写真を参考にして描かれているのがとてもいい。略して描いているところも、それぞれの本人の特徴がよくとらえられているのが素晴らしい。そして、ギャグや少々ブラックなユーモアを交えながら、残された資料に忠実に、ほぼ史実通りに描かれているので、不勉強な私などには面白がりながらとても勉強になったし、不明なところは、細かな事実を積み重ねていきながら、本人の意見もさりげなく述べられている。過不足が無いその手際に感服した。面白いし、読みごたえもあった。これはなかなかの傑作です。
 
 黒鉄氏は土佐出身ということもあって、この本の中の龍馬は、” 活写 ”という言葉を思い出すほど、生き生きと躍動している。読みながら「 坂龍飛騰 」という言葉を思い浮かべてしまう。 そして、土佐の幕末を語るために、関ヶ原と長宗我部、山内一豊から語り始められているところも、土佐藩の上士、下士(郷士)制度理解には必須事項ですのでよかった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

最近読んだ本2~他人を見下す若者たち(少し追記しました)

 最近読んだ本の2冊目「他人を見下す若者たち」(副題)「自分以外はバカ」の時代!(速水敏彦/講談社現代新書)について、

 今回この本を再読したのは、「中原中也」の記事で触れたこの本の指摘、(若者の感情の変化―「悲しみ」の感情の減少と「怒り」の表出の増加)について確認したかったからですが、他にもこの本の指摘には、自分の経験からも肯かされることが多かった。

 今は、本書のテーマをきちんと系統立てて紹介するだけの余裕が無いので、かなりアトランダムに印象に残った言葉をいくつか紹介することにします。

 「はじめに」より、日本人の感情・やる気の変化について触れたあと、その背後にある日本人(おもに若者)の心性について、

 現代人は自分の体面を保つために、周囲の見知らぬ他者の能力や実力を、いとも簡単に否定する。世間の連中はつまらない奴らだ、とるに足らぬ奴らだという感覚をいつのまにか自分の身に染み込ませているように思われる。そのような他者軽視をすることで、彼らは自分への肯定感を獲得することが可能になる。一時的にせよ、自分に対する誇りを味わうことができる。(6頁~7頁)

 筆者は、この”他者軽視を通じて生じる偽りのプライド”のことを、それが”彼らの過去の実績や経験”にいっさい関係なく持たれることから、「仮想的有能感」と名づけている。(いわゆる自尊感情とは違う。)このような他者軽視の感情は、昔は学問を修めて高い理想を持った一部のエリートたちに見られたものであるが(「罪と罰」のラスコーリーニコフのような)、現代における他者軽視は、それらとは違って、一部のエリートたちだけが身に付けているものではなくて、もっと広い範囲にまで広がっており、それら多くの若者たちにとっての他者軽視は、内心の自信喪失や劣等感に対する”一種の防衛機制”として、自分たちの能力には関係なく無意識的に行われているため、昔にくらべて、「死ね」などという言葉が簡単に使われりるするような、どろどろしてネガティブなものになりやすく、社会にとっても個人にとってもそれを無意識なままに増殖させることは危険であると筆者は指摘している。


 一方、悲しみの感情を表出するにしろ、しないにしろ、今の子どもは集団規範をずいぶん気にしてその判断をしているとの感想も見られた。「ここで悲しまなかったら友人ではないと思っている」「皆の前で自分が外れた感情を示すのではないかと思って表に出さない」
 そして「怒りは自然に出てくるものだが、悲しみは生活体験、想像力がないと持てない」、また「悲しまずに責任転嫁するからがんばれない」、などの、悲しみという感情の特徴に言及した感想も述べられた。
(21頁~22頁)

 
 そうなんですよね。ドラマなんかを子どもたちといっしょに観て、私だけが泣いてしまうことが多々あるし、「仮想的有能感」による他者軽視の例として挙げられていた、自転車で横一列に並んでしゃべりながら併走してくる女子中学生が、対向して来た荷台に荷物を載せて自転車を押して歩いていたお年寄りにまったく道を空けようとしなかったというようなことは、私も日常茶飯時出くわしている出来事である。筆者は、このような「平然としている」若者たちの心性を「自分に直接関係のない人間を軽く見ている」 「彼らにとって赤の他人というのは、物体のようにしか受けとめられていないのではなかろうか」と説明しています。私が感じるのは、彼らの自分たちの仲間内での異常とも思えるような気遣いと、それ以外の者(外部)に対する異常なほどの冷淡さ、無関心ですよね。それらは単に社会的なマナーを教えられないまま大きくなったためだと考えられなくもないが、私には、やはり他者に対する冷淡さ、無関心は、そこからはずれることへの恐怖による神経症的気配りの中で続けられている友だち付き合いと好対照を成していると思う。そして、あれはたまらんだろうと思うし、その居心地の悪さの原因は、前の記事で触れた「母性原理の過剰」と「父性原理の不足」からくる社会のバランスの悪い状態を反映していると思うし、彼ら彼女らは、前記事では触れなかったが、「永遠の少年」とともに語られたもうひとつのキーワード「グレートマザー」(=母なるものの元型、肯定的な面と否定的な面があり、この本では日本におけるグレートマザーの強大化による否定的な側面がおもに指摘されている)の支配する「場の倫理」(=個人の成長や自我の確立<場の平衡状態をいかに保つか)の犠牲者といえるかもしれない。

 さて、少々尻切れトンボみたいな感じですが、この文はひとまずここで置きたいと思いますが、同書で、「笑い」の変質(仮想的有能感を抱く人たちが求めている、相手を軽視したり、誰かをこき下ろしたりすることに喜びを感じるような冷たい笑いの増加が指摘されています。)とともに、現代の若者の悲しみの性質について解説した章で、中原中也の「汚れつちまつた悲しみに・・・・・・」について言及した部分があります。「仮想的有能感によって自己を防衛している」「彼らの悲しみには、利己的なご都合主義的原理が働いていると考えられ、それが汚れた情感などという意識は、ないにちがいない。」と。そして悲しみの経験の減少は、自尊感情を肥大させ、弱い人間や傷付いた人間へのやさしさを喪失させる、「悲しみをある程度感じた経験のある人の方が共感性という点では優れている」、[悲しみをある程度蓄積している人の方が感情の統制ができる」と述べられています。

 ※参考記事「汚れつちまつた悲しみに・・・・・・~現代国語的中原中也」

 ※参考記事「中也の詩の紹介」

 ※参考記事「もっと悲しみを~中也の絶対音感~

追記:「笑い」の変質との関連で「ユーモア」についても考察されていたので、ちょっとだけ紹介しておきます。「ユーモアの源泉は哀愁である」というマーク・トウェインの言葉が紹介されたあと、「本当のユーモアは、周りを下に見て笑うのでなく、自分の人間としてのいたらなさ、不十分さといった、本来悲しみの源泉となるようなものを、少し距離をおいて他人の立場で眺められるようになったときに、生じるものではなかろうか。」と定義しています。そして仮想的有能感の高い人たちは、「自分が傷つくことを極度に恐れているため」「自分をゆっくり外側から見つめるだけの余裕」がなく、「自分を笑うことはできない」だろうと。ちょっと前に、「ヒロシ」の自虐的な笑いが受けたのは、自分の情けなさや駄目さ加減を語る彼の笑いに、誰かを蹴落としたり攻撃したりする笑いばかりを見慣れた現代人が、こころのどこかで共感を覚えていたためではないかということも指摘されています。(そういえばヒロシは子どもたちにも受けてました。)私は、先頃亡くなった植木等さんのクレージーキャッツのころからのお笑いの変遷―お笑いがどんどんエゲツナク、品が無くなっていく過程を観てきているので、現代主流の笑いに、はまったり、熱心に見たりということは殆ど無いのですが(クレージーキャッツにもドツキとかからかいとかドタバタとかはあったけれど、何というのか、節度があったので品は残っていたと思う)、あるところで紹介されていた最近注目らしいある若手のコンビを知ったのですが(彼らを観るとダウンタウンの古さがわかると紹介されていました)あんまりお笑い系の番組を観ないもので、紹介できるほどの知識がございませんので、またの機会にします。(みんなとっくに知っているかもしれませんが。)

| | Comments (1) | TrackBack (2)