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最近読んだ本2~他人を見下す若者たち(少し追記しました)

 最近読んだ本の2冊目「他人を見下す若者たち」(副題)「自分以外はバカ」の時代!(速水敏彦/講談社現代新書)について、

 今回この本を再読したのは、「中原中也」の記事で触れたこの本の指摘、(若者の感情の変化―「悲しみ」の感情の減少と「怒り」の表出の増加)について確認したかったからですが、他にもこの本の指摘には、自分の経験からも肯かされることが多かった。

 今は、本書のテーマをきちんと系統立てて紹介するだけの余裕が無いので、かなりアトランダムに印象に残った言葉をいくつか紹介することにします。

 「はじめに」より、日本人の感情・やる気の変化について触れたあと、その背後にある日本人(おもに若者)の心性について、

 現代人は自分の体面を保つために、周囲の見知らぬ他者の能力や実力を、いとも簡単に否定する。世間の連中はつまらない奴らだ、とるに足らぬ奴らだという感覚をいつのまにか自分の身に染み込ませているように思われる。そのような他者軽視をすることで、彼らは自分への肯定感を獲得することが可能になる。一時的にせよ、自分に対する誇りを味わうことができる。(6頁~7頁)

 筆者は、この”他者軽視を通じて生じる偽りのプライド”のことを、それが”彼らの過去の実績や経験”にいっさい関係なく持たれることから、「仮想的有能感」と名づけている。(いわゆる自尊感情とは違う。)このような他者軽視の感情は、昔は学問を修めて高い理想を持った一部のエリートたちに見られたものであるが(「罪と罰」のラスコーリーニコフのような)、現代における他者軽視は、それらとは違って、一部のエリートたちだけが身に付けているものではなくて、もっと広い範囲にまで広がっており、それら多くの若者たちにとっての他者軽視は、内心の自信喪失や劣等感に対する”一種の防衛機制”として、自分たちの能力には関係なく無意識的に行われているため、昔にくらべて、「死ね」などという言葉が簡単に使われりるするような、どろどろしてネガティブなものになりやすく、社会にとっても個人にとってもそれを無意識なままに増殖させることは危険であると筆者は指摘している。


 一方、悲しみの感情を表出するにしろ、しないにしろ、今の子どもは集団規範をずいぶん気にしてその判断をしているとの感想も見られた。「ここで悲しまなかったら友人ではないと思っている」「皆の前で自分が外れた感情を示すのではないかと思って表に出さない」
 そして「怒りは自然に出てくるものだが、悲しみは生活体験、想像力がないと持てない」、また「悲しまずに責任転嫁するからがんばれない」、などの、悲しみという感情の特徴に言及した感想も述べられた。
(21頁~22頁)

 
 そうなんですよね。ドラマなんかを子どもたちといっしょに観て、私だけが泣いてしまうことが多々あるし、「仮想的有能感」による他者軽視の例として挙げられていた、自転車で横一列に並んでしゃべりながら併走してくる女子中学生が、対向して来た荷台に荷物を載せて自転車を押して歩いていたお年寄りにまったく道を空けようとしなかったというようなことは、私も日常茶飯時出くわしている出来事である。筆者は、このような「平然としている」若者たちの心性を「自分に直接関係のない人間を軽く見ている」 「彼らにとって赤の他人というのは、物体のようにしか受けとめられていないのではなかろうか」と説明しています。私が感じるのは、彼らの自分たちの仲間内での異常とも思えるような気遣いと、それ以外の者(外部)に対する異常なほどの冷淡さ、無関心ですよね。それらは単に社会的なマナーを教えられないまま大きくなったためだと考えられなくもないが、私には、やはり他者に対する冷淡さ、無関心は、そこからはずれることへの恐怖による神経症的気配りの中で続けられている友だち付き合いと好対照を成していると思う。そして、あれはたまらんだろうと思うし、その居心地の悪さの原因は、前の記事で触れた「母性原理の過剰」と「父性原理の不足」からくる社会のバランスの悪い状態を反映していると思うし、彼ら彼女らは、前記事では触れなかったが、「永遠の少年」とともに語られたもうひとつのキーワード「グレートマザー」(=母なるものの元型、肯定的な面と否定的な面があり、この本では日本におけるグレートマザーの強大化による否定的な側面がおもに指摘されている)の支配する「場の倫理」(=個人の成長や自我の確立<場の平衡状態をいかに保つか)の犠牲者といえるかもしれない。

 さて、少々尻切れトンボみたいな感じですが、この文はひとまずここで置きたいと思いますが、同書で、「笑い」の変質(仮想的有能感を抱く人たちが求めている、相手を軽視したり、誰かをこき下ろしたりすることに喜びを感じるような冷たい笑いの増加が指摘されています。)とともに、現代の若者の悲しみの性質について解説した章で、中原中也の「汚れつちまつた悲しみに・・・・・・」について言及した部分があります。「仮想的有能感によって自己を防衛している」「彼らの悲しみには、利己的なご都合主義的原理が働いていると考えられ、それが汚れた情感などという意識は、ないにちがいない。」と。そして悲しみの経験の減少は、自尊感情を肥大させ、弱い人間や傷付いた人間へのやさしさを喪失させる、「悲しみをある程度感じた経験のある人の方が共感性という点では優れている」、[悲しみをある程度蓄積している人の方が感情の統制ができる」と述べられています。

 ※参考記事「汚れつちまつた悲しみに・・・・・・~現代国語的中原中也」

 ※参考記事「中也の詩の紹介」

 ※参考記事「もっと悲しみを~中也の絶対音感~

追記:「笑い」の変質との関連で「ユーモア」についても考察されていたので、ちょっとだけ紹介しておきます。「ユーモアの源泉は哀愁である」というマーク・トウェインの言葉が紹介されたあと、「本当のユーモアは、周りを下に見て笑うのでなく、自分の人間としてのいたらなさ、不十分さといった、本来悲しみの源泉となるようなものを、少し距離をおいて他人の立場で眺められるようになったときに、生じるものではなかろうか。」と定義しています。そして仮想的有能感の高い人たちは、「自分が傷つくことを極度に恐れているため」「自分をゆっくり外側から見つめるだけの余裕」がなく、「自分を笑うことはできない」だろうと。ちょっと前に、「ヒロシ」の自虐的な笑いが受けたのは、自分の情けなさや駄目さ加減を語る彼の笑いに、誰かを蹴落としたり攻撃したりする笑いばかりを見慣れた現代人が、こころのどこかで共感を覚えていたためではないかということも指摘されています。(そういえばヒロシは子どもたちにも受けてました。)私は、先頃亡くなった植木等さんのクレージーキャッツのころからのお笑いの変遷―お笑いがどんどんエゲツナク、品が無くなっていく過程を観てきているので、現代主流の笑いに、はまったり、熱心に見たりということは殆ど無いのですが(クレージーキャッツにもドツキとかからかいとかドタバタとかはあったけれど、何というのか、節度があったので品は残っていたと思う)、あるところで紹介されていた最近注目らしいある若手のコンビを知ったのですが(彼らを観るとダウンタウンの古さがわかると紹介されていました)あんまりお笑い系の番組を観ないもので、紹介できるほどの知識がございませんので、またの機会にします。(みんなとっくに知っているかもしれませんが。)

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最近読んだ本~四十歳の少年浦島の国~

 最近、読んだ本を紹介します。
 
 「母性社会日本の病理」(河合隼雄/講談社+α文庫)
  
 「他人を見下す若者たち」(副題)「自分以外はバカ」の時代!(速水敏彦/講談社現代新書)です。

 どちらも再読だったのですが、最近ブログに書いたこととの関連で確認したいことがあったので、また読み返してみました。「母性社会日本の病理」は「野ブタ」の感想記事に書いた、日本における”父性の不足”の問題について、「他人を見下す若者たち」は「中原中也」の記事に書いた、「悲しみ」という感情の減少についてとの関連で再読しました。それで、興味深かった点を少しだけ紹介してみます。

 まず、「母性社会日本の病理」ですが、河合隼雄氏は日本の社会のことを、父性原理に基づく西洋の近代社会に対して、母性原理の強い国ではあるが、厳密にいえば、”母性原理を基礎に持った「永遠の少年(=いつまでも少年であって、成人になれない)」型の社会”である、と定義しています。そして、”日本人の自我における父性原理の弱さ”は、今後の国際交流の必要性からも問題となるであろうから、”われわれは父性原理の確立にもっと努力すべき”であると。(筆者は、西洋型のモデルをそのままよしとしているわけではなく、母性とのかかわりを失わない”第三の道”の模索を提唱しています。)
 そして、そのような日本人の「永遠の少年」的心性がもっともよく現われた日本的な昔話として、「浦島太郎」の物語が紹介されています。この部分はとても興味深いので、くわしくは同書を読んでいただきたいと思うのですが、簡単に紹介しますと、浦島太郎というのは”「母ひとり子ひとり」家族の四十歳の子ども”なのだそうで、父親がいないということは、”主人公がその男性性を確立すべきモデルを欠いていることを示している”のだそうで(当然独身である)、そのルックスは、今で言うところのなかなかのイケメンではあったが、どこか弱々しくて男性的な強さは感じられないのだそうで、まさに典型的な「永遠の少年」そのものであると言える。(現在の日本で好まれているジャニーズ風なルックスを思い浮かべるといいのではないだろうか。)そして、浦島のもともとの話では、四十歳になった浦島は、ある日釣りに出かけたが、魚はまったく釣れず、一匹の亀を釣って逃がしてやったところ(三回釣って三回逃がしたという話もある)、その亀が美しい女性に変身して彼にプロポーズすると、浦島は(よく考えもせずに)すぐにそれを受けて結婚し、(この結婚の部分は現在残っている話では完全に脱落してしまって、亀姫は亀と乙姫に分かれてしまっている)、彼女に付いてこの世ならぬ世界へ行き、そこで時の経つのも忘れて過ごしていたが、ふと故郷が恋しくなって帰りたくなり、またあまりよく考えもせず玉手箱をもらって帰って来るが、現実の世界では途方もない時間が(三百年経ったと述べられている話もある)経っていて、途方にくれた浦島は、「開けてはならない」と言われた玉手箱を開けて老人になる(一説にはそのまま死んでしまったという話もある)というみんなによく知られた結末を迎えるところは、今もむかしも変わらない。なぜ結婚のテーマが脱落してしまったのかについては、儒教の影響や仏教の報恩思想との関連が指摘されていると同時に、日本人が持つ女性像との関連が説明されています。つまり、もとの話では浦島は四十歳にして、はじめて相手に言われるままではありましたが母親以外の女性と出会って、結婚というステップにすすむのですが、現在残っている話においては、結婚のテーマが脱落してしまい、亀姫が亀(女性の肉体性の象徴)と乙姫(結婚の対象とは考えられない仙女のような女性)に分離してしまったということは、「日本人が男性と同一平面上に存在し、対等な愛の対象となる女性像を結実させることが非常に困難である」(316頁)ということを意味しています。ともかく、筆者によると、浦島は”あまりにも弱く”、行き当たりばったりで、”努力がなさすぎ”で、”乙姫というアニマ像(=すべての男性がその内部にもっている女性の永遠なイメージ、決定的な女性像―ユングによる、)との間に望ましい関係を確立”するのに必要な”持続的な意志力”を持ち合わせなかったため、「玉手箱」(=”禁止を守り抜く意志力”をためすためにわたされたと考えられる)を不用意に開けてしまい、皆さんご存知の悲劇的結末に至るのである。(ふ~疲れた。)だから、現在の日本で起こっているいろいろな精神病理的問題の背後には、日本人の持つ”母性社会における「永遠の少年」的心性”という背景が横たわっており、その面からの考察が必要とされる。われわれ日本人は、なぜ、「成熟した大人」になかなかなれないのか、父性原理の弱さから来る自我の弱さ(=ひ弱な永遠の少年浦島像に象徴されるような)は、日本人自身によって、もっと意識されて、克服されなければならないものに思われます。日本における、父性原理と母性原理のバランスの悪さは、男性にとっても、女性にとっても居心地のいい状態とは言えないから。

 まあ、自分達の居心地の悪さの原因を考える時に、自分たちのことを客観視する視点が大事だと思うし、ジャニーズの美少年たちを観て、私たちの日本的に限定された美意識と「永遠の少年」型社会(の孕む問題点)にまで思いを馳せるのも意味のあることじゃないかなと思います。「そんなのうざ~い!」とか言うのは、典型的な「永遠の少年」的(浦島的)発想ですよ。(この間、ハリー・ポッターの「アズカバンの囚人」が放送されていましたが、主演の子どもたちのインタビューを聞いて、十代の彼等、彼女達のインタビューが、とてもしっかりしていて哲学的だったのに感心させられました。)
 
 ※以前に書いた関連記事、

 ヨン様、韓流ドラマ考(ココログアップのお知らせ)
 
 「野ブタ」最大の謎~母親の不在について

 というわけで、「他人を見下す若者たち」については時間が無くなりましたので、次回に紹介する(予定)です。

 

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もっと悲しみを~中也の絶対音感~

 ハルキ文庫版の「中原中也詩集」の樋口覚氏による解説、「中原中也―「歌」への奉仕」で、一番印象に残ったのは、中也の詩は「中也にのみ固有な絶対音感を伴っていた。」というところだ。樋口氏はその特質を「歌」であると表現している。そして、そんな中也の「歌」は、時代の大きな流れがすくいとれなかった「小さな声」「いとけなき魂の声」を代弁しているのだと。そして「それは感傷的な哀歌ではなく、近代という時代の傷口に正確に対応していた」のだと。

 生きていくうえで、悲しみを経験せずに一生を終えられるひとはまずいないでしょう。命に限りがあるかぎり、どんなに幸福なひとにも愛するものとの別れは避けられない。そんなときに中也の歌が、彼の悲しみの定義が、彼のあの祈りのようでさえある言葉が私たちを慰めてくれるでしょう。詩人がその言葉を紡ぎだすのに、どれほどの営為があったのか、凡人には及びもつきませんが、芸術作品のうらには、建築家のような緻密な思考や分析や構築が、そして自らの不幸でさえも客観視する冷静な頭が必要です。芸術は天才の一瞬のひらめきや酒に酔うような酩酊だけからは生まれない。そして中也の詩には、彼の詩を凡百の流行歌や自己陶酔的韻文や散文などから区別する”絶対音感”があった。それが現在においても彼の詩が受け入れられる理由だと思います。

 落語家の談志師匠は、何を言ってもずーっと笑い続けている客に対して、途中で噺を止めて、「ここは笑うところじゃないんですけどね。」と説教したことがあると言っていましたが、私たちに必要なのは、可笑しくも無いのに笑い続けること、ではなくて、悲しみをちゃんと悲しむこと、ではないのかなと思います。幸福なひとには必要ではないでしょうが・・。


そう言えば、今朝の「日本語で遊ぼ」で中也の「月夜の浜辺」をやっていましたね。それと、最初に書いた樋口さんの解説に、村上龍の小説「インザ・ミソスープ」に中也の「除夜の鐘」のことが出て来ることが紹介されています。この小説は読んでないけど、村上龍の感覚を少し見直した。


  除夜の鐘


 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
 千万年も、古びた夜の空気を顫(ふる)はし、
 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 それは寺院の森の霧(けむ)つた空・・・・・・
 そのあたりで鳴つて、そしてそこから響いて来る。
 それは寺院の森の霧つた空・・・・・・

 その時子供は父母の膝下(ひざもと)で蕎麦(そば)を食うべ、
 その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出、
 その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ。

 その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。
 その時囚人(しうじん)は、どんな心持だらう、どんな心持だらう、
 その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。

 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
 千万年も、古びた夜の空気を顫(ふる)はし、
 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

    詩集 「在りし日の歌」より (参照:「中原中也詩集」/ハルキ文庫 )

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中也の詩の紹介

 今回、読んだ中也の詩のなかから、気に入った詩を紹介します。他にもたくさん気に入った詩はあるのですが、今回は、今の季節に合わせて、ロマンチックで静謐なイメージのものを選んでみました。


    時こそ今は・・・・・・
            時こそ今は花は香炉に打薫じ
                    ボードレール

  
  時こそ今は花は香炉に打薫(うちくん)じ、
  そこはかとないけはひです。
  しほだる花や水の音や、
  家路をいそぐ人々や。

  いかに泰子、いまこそは
  しづかに一緒に、をりませう。
  遠くの空を、飛ぶ鳥も
  いたいけな情け、みちてます。

  いかに泰子、いまこそは
  暮るる籬(まがき)や群青(ぐんじょう)の
  空もしづかに流るころ。

  いかに泰子、いまこそは
  おまへの髪毛(かみげ)なよぶころ
  花は香炉に打薫じ、

     
         詩集 「山羊の歌」より (参照:「中原中也詩集」/ ハルキ文庫 )

 もう一篇、紹介します。


     湖上

  ポッカリ月が出ましたら、
  舟を浮べて出掛けませう。
  波はヒタヒタ打つでせう、
  風も少しはあるでせう。

  沖に出たらば暗いでせう、
  櫂(かい)から滴垂(したた)る水の音は
  昵懇(ちか)しいものに聞こえませう、
  ――あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。

  月は聴き耳立てるでせう、
  すこしは降りても来るでせう、
  われら接唇(くちづけ)する時に
  月は頭上にあるでせう。

  あなたはなほも、語るでせう、
  よしないことや拗言(すねごと)や、
  洩らさず私は聴くでせう、
  ――けれど漕ぐ手はやめないで。

  ポッカリ月が出ましたら、
  舟を浮べて出掛けませう、
  波はヒタヒタ打つでせう、
  風も少しはあるでせう。


     詩集 「在りし日の歌」より (参照:「中原中也詩集」/ハルキ文庫 )


 さらに、もう一篇、今度のは恋歌ではありませんが紹介します。


    生ひ立ちの歌


     Ⅰ

    幼年時
  私の上に降る雪は
  真綿のやうでありました

    少年時
  私の上に降る雪は
  霙(みぞれ)のやうでありました

    十七――十九
  私の上に降る雪は
  霰(あられ)のやうに散りました

    二十――二十二
  私の上に降る雪は
  雹(ひょう)であるかと思はれた

    二十三
  私の上に降る雪は
  ひどい吹雪とみえました

    二十四
  私の上に降る雪は
  いとしめやかになりました・・・・・・

      Ⅱ

  私の上に降る雪は
  花びらのやうに降つてきます
  薪の燃える音もして
  凍るみ空の黝(くろ)む頃
  
  私の上に降る雪は
  いとなよびかになつかしく
  手を差伸べて降りました

  私の上に降る雪は
  熱い額に落ちもくる
  涙のやうでありました

  私の上に降る雪に
  いとねんごろに感謝して、神様に
  長生したいと祈りました

  私の上に降る雪は
  いと貞潔でありました


     詩集 「山羊の歌」より (参照:「中原中也詩集」/新潮文庫 )


 最後に紹介した詩のように、時代や病気や三角関係や愛児の死などのさまざまな不幸によって彩られているような中也の短い生涯でしたが、そんななかにも最初の二編にあるようなひとときがあったことを思うと少しホッとします。(現実の恋はこの詩のような静謐なものではなかったでしょうが・・・。)

 不幸や悲しみさえも美しい言葉に変える詩人は、「言葉の錬金術師」ですね。私たちの感情は、詩人によって、名付けられ、定義され、普遍化されるのを待っている。


     


  


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汚れつちまつた悲しみに・・・・・・~現代国語的中原中也

 NHKの教育テレビの「日本語で遊ぼ」という番組の中で、中原中也の「汚れつちまつた悲しみに」の一節が朗読されている。彼の「サーカス」という詩の一節も時々朗読されている。その詩の空中ブランコを表現したと思われる不思議なフレーズ、 「 ゆあーん  ゆよーん  ゆやゆよん 」 を”コニちゃん=コニシキ”や子どもたちが朗読している。(この番組では、他にも、平家物語の前文「祇園精舎の・・・」や宮沢賢治の「雨ニモマケズ」も紹介されていて、なかなかよい選択だと思う。)

 もう二十年くらい前に、母と妹と三人で、夏に山口県を旅したことがあって、山口市の湯田温泉の近くの中也の詩碑のある公園のことをガイドブックで知って、立ち寄ったことがある。詩碑があること以外は、何の変哲もない、近所の子どもが遊んでいるような小さな公園だったのですが、その詩碑と横に立つ妹の写真が残っている。先日実家の母に、この写真に写っている詩碑の文章を知り合いに色紙に書いてもらいたいので、詩の文章を調べてほしいと頼まれた。この公園は中也の生家(現在は記念館)近くにある高田公園、刻まれているのは小林秀雄の筆による「帰郷」という詩の一節。※こちらを参照


  これが私の故里(ふるさと)だ
  さやかに風も吹いてゐる
       心置なく泣かれよと
       年増婦(としま)の低い声もする

  あゝ おまへはなにをして来たのだと・・・・・・
  吹き来る風が私に云ふ

                      詩集・山羊の歌「帰郷」より (参考:新潮文庫「中原中也詩集」)

 「心置なく泣かれよと」 と 「年増婦(としま)の低い声もする」の行が碑にあったかどうかは写真ではちょっと判然としないのですが(行数から考えると省かれているように見えます。)
 中也の詩は、思い出しただけでも「月夜の浜辺」「汚れつちまつた悲しみに・・・・・・」「北の海」が教科書に採用されていたと思う。三篇というのは、詩人の中でもかなり多いほうではないだろうか。三篇とも、ひとがこころのなかに持っている普遍的な感情が表現されているので、他の詩人の詩よりみんなのこころにぴたっと来る感じがあって、「 さう さうこの感じ 」と思ったりするし、今読んでも、感覚的に古くない、現代的だし、言葉遣いは、平易で簡単そうに見えるけど、かなり計算された平易さ、さりげなさで「巧い!」と思う。「クイーン」とか「ビートルズ」とかにも感じることだけど、”ポピュラーだけども俗ではない”という感じがする。難解な言葉などは用いずに、俗にならないぎりぎりの場所で勝負している。その場所を見つけることは簡単なようでとても難しいことだと思う。その絶妙なポイントはとても狭いので、凡人には、なかなか見つけられない。やりすぎなものや足りないものは多くみかけるし、その狭いポイントを見つける才能のないものは、俗っぽい表現しかできない。たとえば有線で聞くJ-POPなどというジャンルの歌詞なんかも、全体的に固いというかこなれてないというか、芸がないものが多い。「なんとかでえ、なんとかでえ、なんとかなのですう~」とか「なんとかでえ、なんとかでえ、なんとかだー」とかのうんざりするような説明的な歌詞たち・・・。

 最近読んだ本によると、最近の若者は「悲しみ」の感情が減少して「怒り」の感情が増大しているらしいが、それはさておき、「悲しみ」という感情はやはり重要な感情だと思う私は、「悲しみ」という感情に、これほどまでに現代的な相貌を与えて定義した詩人は中也のあとにも先にもいないと思う。中也の「悲しみ」は私たち現代人の悲しみなのだ。そして「悲しみ」をちゃんと悲しむことは大事だよねと思う。だからいま中也を見直すってのはありだよね。

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「存在の耐えられない軽さ」、「ライアンの娘」、デュラス、馳星周・・・~エロティシズム考~

 こんな表題を書きましたが、看板に偽りありなので、あまり期待しないでくだい。

 前記事で馳星周氏の小説「鎮魂歌」と「長恨歌」のことを書いた時に、その中の性表現について感じた事の関連でちょっと書いてみようかという程度なので。

 小説でもっとも官能的だと感じたのは、やはりデュラスの「ラ・マン」です。そういうシーンのみが官能的というわけではなくて、小説全体から官能性があふれているような作品。例えば、淡々とした描写の積み重ねのような細部がすでに官能的なのだ。主人公やその愛人の着ている服や化粧などを描く、(訳者によって、「こころよい音楽をひびかせる」、 「すこしも湿ったところのない叙情性」と表現されている)その文体がすでに官能的なのだ。

 
 それに比べて、馳星周の作品はどうかというと、こういう小説のお決まりのように性的なシーン(暴力をからめた)はふんだんにあるのだが、そういうシーンからはエロスがほとんど感じられない。お約束のような言葉遣いと描写に却って白けてしまう。エロスやエロティシズムはそこにはない。そういうものの入り込む余地の無い暴力と欲望を描くのが目的なのでしょうが、なんというのか、女性からみたら、なんとなく陳腐に感じるそれらの表現(ステロタイプで詳細な表現には特に、)に白けてしまう。 

 
 ところで、映画の中の美しくエロティックなラブシーンということでは、「存在の耐えられない軽さ」と「ライアンの娘」が思い浮かびます。
 「ライアンの娘」は「アラビアのロレンス」や「ドクトル・ジバゴ」の名匠デヴィッド・リーン監督ですから、主役ふたりの(不倫の)ラブ・シーンがまるでドガの絵のように美しく丁寧に撮られています。そしてイギリス人将校への主人公の想いを、家の周囲に咲いているユリの花の花粉によって表現したりという細部の表現がとてもエロティックなのです。この映画は不倫だけを描いた映画ではないのですが、私には表現がとても官能的な映画として印象に残ってます。
 そして「存在の耐えられない軽さ」は、これも不倫なんですが、色男を演じていた頃のダニエル・デイ・ルイスとレナ・オリンのラブ・シーンがとても美しくてエロティックで印象に残ってます。
 最近は、あんまりリアルな性表現で何かを伝えようというのはちょっと古い気がしますが、この二つの映画はおすすめです。(日本だと渡辺淳一みたいなのがありますが、あんまり興味がないですね。)

 やはり文学とポルノの違いというのがあって、その差というのは、両方の性の視点があるかどうかじゃないでしょうか。(馳氏の小説に欠けているのは、そういう女性の視点ではないでしょうか。男性を主人公として描いても、やはり作者に女性の側の感性もないと物語が深くならないと思う。)

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「さいごの戦い」に感じた違和感

 前の記事でも書きましたが、もう一度「ナルニア国ものがたり」の「さいごの戦い」の終わり方に感じた違和感について少し考えてみたいと思う。

 まず、この物語ではナルニアに出かけた子どもたちの中で、只ひとりだけ現世のことに心奪われて、ナルニアに関心を示さなくなったスーザンのことが、登場人物によってとても否定的に語られています。そこまではわかるとしても、両親や兄弟姉妹たちが列車事故ですべて死んでしまうという設定は、彼女が、こちらがわの世界にひとりぼっちでとり残されてしまうことになり、それではあまりに可哀そうすぎる気がしました。

 それと、「馬と少年」と「さいごの戦い」で特に感じたのですが、カロールメン国はイスラム世界をモデルにしているのが明らかなので、キリスト教世界とイスラム世界を単純に善と悪として描いているのは、厳しい両世界の対立が顕になった現代から見ると単純すぎる比較だと思う。

 そして、やはりラストで子どもたちが列車事故で死んでしまうことによって彼らがアスランの国に残ることになるという設定は、上に書いたスーザンの境遇も含めて、やはり子どもたちに向けた物語としては乱暴すぎると思われるのです。私は、やはり彼らは、「ほんとうのナルニア(アスランの王国)」を見届けたのち、こちらがわに帰ってくるべきだったと思います。

 と、いろいろな疑問点が、特に「さいごの戦い」については(この物語のキリスト教思想との深い係わり、アスラン=イエス・キリストであるという解説を前提にしても(岩波少年文庫版の竹野一雄氏による))やはり、その終わり方には違和感を感じます。勿論、そのことによって、この物語の素晴らしさ、面白さ、アスランがこの物語の中で放っている輝きや彼が体現している価値の素晴らしさや、その他の登場人物の造形のおもしろさなどは損なわれることはないのですが、少し気になる点としてまとめてみました。

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「ナルニア国ものがたり」読了

 「ナルニア国ものがたり」全7巻(C・S・ルイス作 瀬田貞二訳)読了しました。いやあ、すべての巻がおもしろかったです。興味のある方は、すべての物語を読まれることをおすすめします。

 参考までに、私が印象に残った登場人物とその人物が登場する物語を紹介します。映画化された「1/ライオンと魔女」はよく知られていると思うのでそれ以外の物語、ペベンシー家の四人以外から紹介します。(※「ライオンと魔女」ではエドマンドが我知らずにとったおろかな行為によって物語がすすんでいくことから、エドマンドが最も印象に残りました。そして、ターキッシュ・ディライトというお菓子によって、彼の(私たち人間の)の弱さやおろかさが象徴的に描かれているということは言っておきます。)

 まず、「3/朝びらき丸 東の海へ」から、いとこのユースチスです。この物語での彼の冒険の項は、この巻の白眉と言えると思います。

 次に、「4/銀のいす」から” 泥足にがえもん(沼人) ”という愛すべきキャラクターが出てきます。沼地に住む人々の独特の風貌と知恵のある思慮深い言動で、ユースチスとジルのよき旅の道づれとして彼らを助け続けます。

 最後に、「7/さいごの戦い」には、私が考えた中で、「ナルニア」の中でもっとも醜悪なキャラクター、”ヨコシマ”という小悪党が出てきます。白い魔女のように、もっと強力で迫力のある悪は他にもいるのですが、ナルニアは、この醜い小悪党の毛ザルのヨコシマな企みによって、あっけなくくずれさってしまうのです。ナルニアの住人たちが、ヨコシマの計画にまんまとはまって、簡単なペテンによってまんまとだまされる様は、腹立たしくもありますが、私たちの世界でもよく起きていることのようでとても示唆的でした。

 そして、この「ナルニア国ものがたり」全7巻の結末とも言える「7/さいごの戦い」のラストは、私には前の6巻とは違う結末に、???という風に大きな疑問を感じてしまった。そして何か、作者の現実世界に対するあきらめのようなニヒリズムのようなものを感じたのですが皆さんはどう思いますでしょうか。 (以下ネタバレ注意!)
 それは、「2/カスピアン王子のつのぶえ」のラストで、アスランは、ピーターとスーザンに対して、彼らは大きくなったので、もうナルニアにはもどってこられないと告げていますし、「3/朝びらき丸 東の海へ」のラストでも、今度はエドマンドとルーシィがアスランに、ふたりとも年をとりすぎたので、ナルニアにはもうもどれないだろうと告げられているのです。

 「わが子たちよ、ふたりとも、年をとりすぎたのだ。」とアスランがいいました。「もはや、あなたがたのあの世界によくなじんで暮らしていかなければならないよ。」
 「かんじんなのは、ナルニアではありません。」とルーシィが、泣きじゃくって、「アスラン、あなたなのです。わたしたちは、あの世界ではあなたには会えませんもの。あなたに会えないでどうして暮らしていかれましょう?」
 「それでも、あなたは、わたしに会うよ。むすめよ。」とアスラン。
 「あなたが?あなたが、あちらにも来られるのですか?」とエドマンド。
 「いるとも。」とアスラン。「ただしあちらの世界では、わたしは、ほかの名前をもっている。あなたがたは、その名でわたしを知ることをならわなければならない。そこにこそ、あなたがたがナルニアにつれてこられたほんとうのわけがあるのだ。ここですこしはわたしのことを知ってくれれば、あちらでは、もっとよくわかってくれるかもしれないからね。」
                         (「3/朝びらき丸 東の海へ」 302頁より)

このアスランの言葉に、作者のこの物語を読む子どもたちに向けたメッセージが込められていると思うし、それは、「6/魔術師のおい」でもアスランに、わたしたちの世界に対するいましめのことばを吐かせてはいますが、ポリーとディゴリーはちゃんとこちらがわの世界にもどってきていますので、物語の構造はここまでは一貫していると思います。でも、「7/さいごの戦い」は、このアスランの言葉を否定するような構造、結末となっているのです。このことを、私たちはどう考えたらいいのでしょう。この、物語を終わらせるに当たって、どういう心境の変化が作者におこったのでしょうか。作者は、アスランの警告の言葉のように、わたしたちの世界がなってしまったので、物語の結末をああせざるをえなかったのでしょうか。そう考えることはとても切ないです。そして、ほろんでしまった影のナルニア国のおろかな住人たちのように、わたしたちは、アスランの、

 この老人はみずからわたしの声がきこえないようにしてしまっている。・・・・・・・・・・・。ああ、アダムの子らよ、あんたがた人間はなんと手ぎわよく、じぶんたちによいことをしてくれるものから身を防ぐことか!・・・・・」
                            (「6/魔術師のおい」 249頁より)

  という警告に気付かずに、”ヨコシマ”が作った偽アスランのようなサギに騙され続けているのではないでしょうか。
 「さいごの戦い」でディゴリー卿が、アスランがあなたがたがもどることがないといったのは、影のナルニアのことで、いまわたしたちがもどってきたのは、まことのナルニアだと説明しているのですが、彼らがそこにもどるのは、こちらがわの世界(影の世界)で死ぬことによってなのです。この点に、この結末に、わたしは作者のわれわれの現実に対する深い絶望のようなものを感じてしまうのです。

 わたしたちは、こちらの世界で死ぬことによってしかユートピアを見いだせないのでしょうか。それとも、「うちがわは、そとがわよりも大きいものだ。」 (「さいごの戦い」より)というディゴリー卿の言葉のように、私たちは、私たちの内側にしかユートピアを見いだせないということなのでしょうか?

  ※gooブログの「ナルニア」関連記事です。

ナルニア国ものがたり(全7巻セット)
C.S.ルイス作 / 瀬田貞二訳
岩波書店 (2005.6)
通常24時間以内に発送します。

 

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「アブダラと空飛ぶ絨毯」

 年末年始に読んだ本、あの「魔法使いハウルと火の悪魔」の姉妹篇 「空中の城2 アブダラと空飛ぶ絨毯」 (ダイアナ・ウィン・ジョーンズ作/西村醇子訳/徳間書店) を紹介します。

 作者は、あの”空飛ぶ絨毯”が出て来る本を書きたくて、この物語を書きはじめたそうです。そして「ハウルと仲間たちの、その後の様子も気になっていた」ので、彼らを、この物語にも登場させています。ハウルやソフィー、カルシファーは、三人ともそれとはわからない姿に変えられて登場しますので、「ハウル」を読んだひとは、あれっ、彼らは何処だ?と思われるでしょうが、作者のジョーンズさんはちゃんと彼らをこの物語に登場させています。「ハウル」を読まれたかたには、彼らがどのような形でこの物語に登場するのかを見つけるという楽しみもあると思います。もちろんあのハウルの城も出てきます。姿を変えられて。

 主人公は、ラシュプート国ザンジブ市のバザールの絨毯商人アブダラです。彼は、金持ちでも英雄的でもない、空想好きで気の弱い青年です。その彼が、偶然手に入れた空飛ぶ絨毯に導かれて行った庭園で、<夜咲花>という姫ぎみに出会って、恋に落ちますが、ある日のこと、彼女は庭に舞い降りた魔神(ジン)によってどこかへ連れ去られてしまいます。それから、アブダラの、空飛ぶ絨毯や”瓶の精霊”ジンニーに助けられた、<夜咲花>を捜す旅が始まります。途中で、ジンニーの助言によって、ずるがしこそうな顔をした、いわくありげな兵士といっしょに旅をすることになります。そして瓶の精霊ジンニーは、一日にひとつ持ち主の願いをかなえてくれるのですが、かなり気むずかしくて、「災いを引き起こすような形でしか願いをかなえない」のです。果たして、この兵士は何ものなのか、そしてアブダラは<夜咲花>を見つけ出すことができるのか、ハウルやソフィーはどこにいるのか。物語の後半は、「ハウル」の舞台インガリー国(オキンスタン国)に移って展開します。結末を知りたいかた、またハウルたちに会いたいかたはぜひ読んでみてください。

 それにしても、前作のソフィーもそうでしたが、この作品に出て来る女性たちも、<夜咲花>をはじめとして、皆、運命に立ち向かおうとする聡明で力強い女性(本編に出て来るソフィーのことを、アブダラが「気が強い」と評しています)に描かれています。それに比べて、前作のハウルもそうでしたが、この作品のアブダラも決して英雄的人物には描かれてはいません。そんな彼らが、愛するもののために勇気を出して、危険を冒して、運命に立ち向かっていきます。前作でも本作でも、それがテーマだと思いますが、「ハウル」を読んだものとしては、ソフィーとハウルのその後を知ることができたのがうれしかったかなと思いました。


 ソフィーとハウルは、あいかわらず空中の城でくらしました。ときどき喧嘩はしていましたが、その方が二人は幸せなんだと言われています。                ( 「アブダラと空飛ぶ絨毯」より ) 

アブダラと空飛ぶ絨毯
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ作 / 西村 醇子訳
徳間書店 (2001.9)
通常24時間以内に発送します。

 

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「魔法使いハウルと火の悪魔」

 映画「ハウルの動く城」の原作「空中の城1 魔法使いハウルと火の悪魔」(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ作/西村醇子訳/徳間書店)を読んだ。我が家で映画を観ているのは小3の次男だけで、(長男は原作だけを読んでます)、私もDVDのレンタルが始まる前に原作を読んでおこうと思って読み始めたのですが、なかなか面白くて、(ファンタジーは導入部分でつまずくとなかなか物語りに入っていきにくかったりするのですが、そういうこともなく)すっと物語の中に入り込むことができました。

 作者のジョーンズさんは、ある少年に 「動く城の話を書いてください」 と言われて、この物語を書き始めたとのことですが、この物語の主人公ソフィーと同じように三人姉妹の長女として育ったジョーンズさんは、女の子たちのため、とりわけ 「昔話で成功するのは末っ子に決まっている」、 「いつだって失敗する」と思われている長女たちのためにこの物語は書かれています。
 
 映画の予告を見た方ならご存知のように、帽子屋の長女で十八歳の主人公のソフィーは、ふとした偶然から「荒地の魔女」の呪いによって、九十歳の老婆に変えられてしまいます。「なぜ、彼女は老婆になってしまったのか?」 これがこの物語の最大のポイントなんですが、ヒントととなる魔法使いハウルのセリフを紹介してみます。
  
  (以下ネタバレ注意 !)

 「・・・・・・あんたが気づかないうちに、何度か呪いを解こうとしてみたんだ。ところがどうやってもうまくいかない。ペンステモン先生のところへ連れていったのも、先生ならどうにかできると思ったからさ。でも、駄目だったみたいだ。そこでぼくとしては、あんたが好きで変装していると思うしかなかった」  ( 259頁 )

 ソフィーとハウルは、ソフィーが老婆に変えられる前に一度出会っているのですが、その時のソフィーは、長女の呪縛にとりつかれているのか、自分の容姿に自信が無いのか、ハウルに 「臆病な灰色ネズミちゃん」 と呼びかけられるほど、びくびくしていましたが、老婆になってからのソフィー、帽子屋を出て、ハウルの城に住む事になったソフィーは、これが同じ人物かと思うほど生き生きとして、ハウルのことを観察し、辛らつに批判したりして、ハウルや彼の城の仲間達に影響を与えます。

 「・・・・・・あんたって、不快なことはみんな嫌いなんだから、違う?逃げまわるウナギみたい。いやなことがあると、いつだってぬるぬると逃げちゃうんだ」 ( 74頁 ) 
 
 と、ソフィーに評されるハウルのほうはと言うと、「偽名とか変装大好き」で髪の毛の色と衣装にものすごい執念を持ち、浴室で入念に美しさのまじないをかけたのち、ギターをかかえて、お目当ての女性の元へ日参しますが、相手の女性が落ちてしまうと興味を失って逃げてしまうというプレーボーイ、とソフィーや仲間達には見られていて、実際その通りなのですが、このハウルの造形は、この物語が書かれた時代(1986年のイギリス)の影響が色濃いと思われます。それは、現代にまで続いているあるタイプの男の子の典型のような気がします。

 荒地の魔女との闘いのあとで、ハウルは 「ぼくは臆病者なんだ。こんな恐ろしいことがやれる唯一の方法は、そんなことしないと自分をだますことなのさ!」 と告白しています。 (このような正直さはハウルのほうの変化だったのですが) ソフィーという自分に自信が持てない(今風に言うと自己肯定感の低い)少女がその呪縛から逃れるために、少女が九十歳の老女になるという呪い(設定)が必要だったのです。そしてハウルはそんなソフィーを最初は迷惑がりながらも受け入れたのです。

 ところで、少女が老女になってしまうこの設定というのは、フェミニズムと聞いただけでアレルギー反応を起こしそうな日本の多くの男の子たちにとって、最も興味のない物語の設定ではないでしょうか。彼らにとってソフィーばあさんになったソフィーに好意を持つということは、たとえ魔法でその正体を知っていたとしても考えられないことのような気がします。映画を観ていないので断定はできないのですが、映画の評判がいまひとつだったのは、そのあたりの日本人のフェミニズム的女性観の欠如のせいなのではないかと思ったりします。

 老女と男の子の物語として思い出すのは、フィリッパ・ピアスの「トムは真夜中の庭で」ですが、主人公のトムは夜中になると現われる不思議な庭で、おじさんたちのアパートの管理人のバーソロミューおばあさんの、幼い子ども時代から結婚前までの女の子に出会って、いっしょに遊ぶのです。そして、最後に管理人バーソロミューおばあさんの中に、庭園で遊んだ女の子ハティを見いだしたトムは、おばあさんを愛情を持って抱きしめるのです。
 「トムは・・・・・・」の主人公トムは十歳くらいだったでしょうか。トムとバーソロミューおばあさんの間にあるのは異性をロマンスの対象として意識する前の人間愛と呼んでもいいような愛情のように思われます。それに較べて「ハウル」のソフィーは十八歳とお年頃なので、ハウルとソフィーの間にはロマンスが芽生えたのです。

 それにしても、日本の男の子たちの中に、少女がおばあさんになるという呪いの中に閉じこもらざるを得ないという女の子たちの状況への想像力でも直観力でもいいのですけどを持ち合わせているハウルのような青年が現われてくれれば、もう少し彼女達も生き易いでしょうにと元少女は思いつつこの項を終わることにします。

魔法使いハウルと火の悪魔
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ作 / 西村 醇子訳
徳間書店 (2001.10)
通常24時間以内に発送します。

 ※gooブログのほうの記事もよかったらのぞいてみてください。「ヨン様、韓流ドラマ考」と題して書いています。

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「チョコレート工場の秘密」

 ジョニー・デップ出演で話題になっている映画 「チャーリーとチョコレート工場」の原作、ロアルド・ダール作 「チョコレート工場の秘密」について書いてみたいと思う。私が読んだのは詩人の田村隆一さん訳の現在絶版になっている評論者より出版されたものです。お断りしておきますが、話題の映画の方は観ていません。

 読んだのは、大分以前なのですが、私がこの本に惹かれたのは、田村隆一さんの訳ということと、何を隠そう、私がチョコレートが大好きだからです。大人の今でもですが、子どもの頃の夢のひとつに「チョコレートを死ぬほど食べてみたい」というのがあったほど好きでした。だから、題名に惹かれて読みはじめたのですが。
 読み始めてまず感じたことは、この評論者版は表紙はカラフルで明るいイメージなのですが、さし絵が何となくというより、とても不気味なのです。子どもたちに寝る前に読み聞かせていたのですが、子どもたちも絵が怖いとのことで、最初のうちは、さし絵をあまり見ないようにして読んでいました。特に、チャーリーといっしょに暮らしている痩せこけた祖父母はまるで亡霊のようで、いくらなんでもこんなに描かなくてもという感じでした。そして、そんなさし絵に象徴されるように物語のほうも、子供向けファンタジーではあるのですが、何となくホラーチックで、チャーリーといっしょにチョコレート工場に招待された悪がきたちが(現代的に見れば、そこらへんに普通にいる子どもたちだと思うが)工場を見学中に奇天烈な(死語?)方法でひとりひとり消えていくのも、自業自得とは思っても、読み進めている間中どこか 「いいのだろうかこの話」と思う内容でした。ラストでは彼らも戻ってきたし、チャーリーの一家にも幸福が訪れてめでたしめでたしだったのですが、途中はかなり怖かったです。もし、私がこの話を子どもの頃読んだとしたら・・、食いしんぼの私は 「チャーリーはチョコレートをたらふく食べられていいな」という点だけで、このお話を好きになったと思いますが。
 
 ところで、観ていない映画のほうですが、監督が「シザーハンズ」(すみません、観てません)のティム・バートンと言うことで、(ティム・バートンと言えば、ティム・バートン作のホラー風クリスマス絵本「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」がありますが)何となく彼好みのエキセントリック風味のファンタジーかなという気はします。映画のほうは、子どもというより、ジョニー・デップファンを中心にかなり評判いいみたいですが、子どもたちの意見も聞いてみたい気もします。

追記:物語についてですが、表現方法は少々風変わりなのですが、作者が伝えたいメッセージは極々シンプルなものだと思います。子どもに向けたメッセージはシンプルでいいのではないかということを改めて考えました。大人の感性でねじくれたメッセージを子どもに送るべきではないと思うので。 

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E・Lカニグズバーグ「ジョコンダ婦人の肖像」

 題名の「ジョコンダ婦人の肖像」というのは「マドンナ・リザ・ジョコンダ」つまりあの「モナ・リザ」のことです。モナ・リザのモデルについては諸説ありますが、カニグズバーグは、フィレンツェの名もない商人ジョコンダ氏の二度目の妻としています。そして、この物語は、レオナルドがなぜ彼女の肖像を描いたのかという問いへの答えとなっています。

 物語では、ミラノでロドヴィコ・スフォルツァ公に仕えていた頃のレオナルドやミラノ公妃ベアトリチェ、彼女の姉でマントヴァ公妃イザベラ・デステなどのことが、レオナルドの札付きの召使だった(大うそつきでどろぼうだったと書かれてます)サライの目を通して描かれています。この物語はレオナルドがなぜそんなサライを死ぬまで手元に置いたのかという疑問に対するカニグズバーグの答えでもあります。本の表紙にはレオナルドによるサライと思われる美しい若者の横顔のデッサンが使われていますし、レオナルドとサライが同性愛関係にあったのではということはよく指摘されていることですが、カニグズバーグはレオナルドがサライを必要としたのはそれだけの理由ではないと、作中でミラノ公妃ベアトリチェにその理由を語らせています。つまり、「レオナルドは自分に欠けているものをサライから得るために彼を必要としたのだ」と。そして、それはすべて偉大な芸術に必要なものであると。カニグズバーグはそれを芸術における”ワイルド”な要素であると言っています。すべての偉大な芸術にはワイルドな要素があるのだと。
 このことを、ベアトリチェはサライに語っています。これが、ひとつの答えですが、もうひとつの答えのほうは、ミラノ公妃ベアトリチェにあると作者は言っています。カニグズバーグはベアトリチェのことを、そんなに器量はよくないが、愛嬌があって機知に富んでいて、とても周囲の者達に愛される魅力的な人物として描いています。それに比べて、姉のイザベラ・デステのほうは、器量はよかったが、虚栄心と自己愛が強い退屈な女性として描かれています。史実はどうだったかは、私にはわかりませんが、このイザベラの描かれ方は、物語としてはたいへんおもしろいのですが、ちょっと気の毒な気もします。というのも、イザベラの肖像と言われるレオナルドの手による有名なデッサンが残されていて、この物語でもそのデッサンのことが、レオナルドは何故そのデッサンに色をつけなかったのかという説明(つまり、イザベラにあまり魅力を感じなかったため)とともに出てくるのですが、そういう意地悪い見方で紹介されている当のデッサンを先入観なしに見てみると、これが中々味があってよいのです。レオナルドの繊細なタッチで描き込まれた手や横顔などは見応えがあるし、私には完成されたタブロー作品にも負けない興味深い趣のある作品に仕上がっていると思います。作中では、レオナルドはイザベラの中年にさしかかった徴候を容赦なく描いたと否定的に紹介されていますが、私には、レオナルドの他の作品に比べて、例えば、カニグズバーグによって、ジョコンダ婦人の中に好きだったベアトリチェの面影を見て、彼女の肖像を描いたと説明されている「モナ・リザ」(これが最初の問いの答えです)の神秘性、中性性に比べて、そこには、生身の女性が描かれている気がするのです。
 でも、この物語で語られているベアトリチェとイザベラを比べてどちらが魅力的かと問われれば、それはもちろんベアトリチェなんですが、それはそれとして、「イザベラ・デステの肖像」のデッサンの素晴らしさは、この物語の解釈とは関係なく存在するように思われます。


 ※4月10日の拙記事「ダ・ヴィンチとミケランジェロ」よかったら参照してください。

※よかったら、gooブログのほうも訪問してみてください。

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読書の効用~みうらじゅんの言葉

 イラストレーターのみうらじゅんが、新聞の読書欄で松本清張の小説「ゼロの焦点」について書いている文章が心に残ったので、少し紹介してみたい。
 私は、みうら氏の本職のイラストや、時々のTV出演での人を喰ったようなコメント(どうでもいいことを真面目な顔をしてしゃべるという「トリビアの泉」的芸風)に特に興味も関心も無いのですが、彼が時々発する真面目な発言がおやっという感じで心に残ることがある。
 みうらじゅんは松本清張の「ゼロの焦点」を紹介しながら、自分自身について語っている。一人っ子で両親の愛情を一身に受けて育ち、大きな挫折や不幸な経験も無く今まで来たというような、彼が折に触れて語っている自己像である。だから、自分には他人の気持ちが分からない、特に弱者の気持ちが分からずに来たというコンプレックスのような心情があったと。だから自分の思う優しさにはうそがある。そのことを問われるのが怖くて、その話題を避けてきたと。ここまでは、現代の多くの若者にも共通する心情だと思う。いや、心の隅にでもこういう自覚を持っている人は、それだけでも現代ではかなり誠実な人と言えるかもしれない。そんなことは思いもよらず、他人の身になってものを考えることには思いもよらず、他人とどうかかわるかについてばかり考えているというのが多数派になってしまっているのが現実なのかもしれないが。そして、他人の気持ちがわかる人間になりたいと思った彼は、松本清張の小説をむさぼり読むことによって、他者(弱者)の視点を学んだのだと。この彼の姿勢は、私にはかなり誠実な態度に思える。そんなことには思いもよらず、他人とどうかかわるかについてばかりに心をくだいている人が圧倒的多数を占めている現代において。

 他にも、みうらじゅんの発言で、「仏像が好き」なところなどの点で注目したりしているのですが、初めにも書いたように、彼のTV出演での発言等には、養老孟司氏がベストセラー「バカの壁」の”知識と常識は違う”の項で紹介していたピーター・バラカン氏の言葉、「日本人は、”常識”を”雑学”のことだと思っている」をいつも思い出してしまう。それは「トリビアの泉」のような番組を見ても感じることですが。知的探究心があるだけましだと思うべきなのか・・。私は、積極的にはこれらの番組は見てないです。おたくの限界っていうか、どうでもいいことによくそんなに真剣になれるねっていうか、あまりにも状況から切り離された彼らのパフォーマンスのイノセンスぶりが悲しいというか、結局、表現するものを何も持たずに表現している人の無意味さ、時間とエネルギーの無駄遣い・・・。ああ、「読書の効用」 というようなことを書くつもりがだいぶ脱線してしまいましたので、今日はこの辺で。
 
 ※コメント、ご意見等お待ちしています。
  掲示板の方にもちょこちょこ書いてますので、よかったらのぞいてみてください。簡単な料理とかも紹介してます。

 

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ダン・ブラウン「天使と悪魔」

 「ダ・ヴィンチ・コード」が大ヒットしたアメリカの作家ダン・ブラウンのロバート・ラングドンシリーズ第一作「天使と悪魔」(上・下)を読んだ。(「ダ・ヴィンチ・コード」はシリーズ第二作。 )主人公は「ダ・ヴィンチ・・」を読んだひとならご存知ハーバード大学の宗教象徴学教授ロバート・ラングドンである。
 ※以下、これから、読もうと思っている人は、注意してください。
 今回も彼は、ある殺人現場に残されていた古い紋章が意味する”イルミナティ”―十七世紀にあのガリレオが創設した科学者たちの秘密結社―について最も詳しい専門家として、スイスのセルン(欧州原子核研究機構)に飛ぶ。殺されたのは、セルンの科学者で、カトリックの司祭レオナルド・ヴェトラ。そして、恐ろしい事に、彼の研究室からは、先頃初めて生成された”反物質”―未来のエネルギー源と言われ、威力は核燃料の千倍と言われるが、非常に不安定な物質―のサンプルが安全装置からはずされて、持ち去られていた。そのサンプルを二十四時間以内に研究室にもどさないと、容器のバッテリーが切れて、ひとつの都市を吹き飛ばすほどの大爆発が起こってしまう。果たして、容器のバッテリーが切れるまで、あとどのくらい時間があるのか。そして、この犯行は、消滅してしまったと言われているイルミナティによるものなのか、そして、容器は今どこにあるのか。そこへ、セルンの所長コーラー宛てに、ヴァチカンの警備を担当しているスイス衛兵隊隊長のオリヴェッティから電話がかかる。どうやら、反物質はヴァチカンの何処かにあるらしい。ラングドンとレオナルドの娘でセルンの科学者でもあるヴィットリアは、事件の解決と反物質の容器を取り戻すためにヴァチカンに飛ぶ。爆発までのタイムリミットは6時間。

 上下巻合わせて七百ページ近い大作だが、物語の最初から最後までに経過する時間はわずか一日足らず。その間、例によってラングドンは知力と体力を総動員してヴァチカンとローマ市内を動き回り、モンスターのような暗殺者と文字通り死闘を繰り広げ、いつも最後まで諦めずに考える知の人=教授の執念によって、ぎりぎりのところでサバイバルしていく。そういうところは、アメリカ的ハリウッド映画的であると思うが、私たちは、ラングドンの宗教芸術についての知識が物語を転がしていくエンジンのような役割を果たしていることによって、飽きずにページを進めていくことができる。私たちは、ラングドンといっしょに、この永遠の都に残されたガリレオやイルミナティの痕跡を求めてヴァチカンの記録保管庫やローマの有名な教会、広場を彼の薀蓄に耳を傾けながらさまようことになる。そのことが、この物語を読む一番の楽しみと言えると思う。そしてそのために、今回選ばれた芸術家はバロック彫刻家ベルニーニである。

 ベルニーニと聞いて、私が思い浮かべるのは、彼の有名な作品「アポロとダフネ」(ボルゲーゼ美術館)やこの作品にも登場する「聖テレサの法悦」などのような、木の葉や洋服の襞を大理石で如何に本物のように彫るかに全精力をつぎ込んだような作品であるが、どうしてもその作品に”あざとさ”を感じて余り好きになれないのであるが、この「天使と悪魔」を読んで、改めてローマはベルニーニの作品だらけだということに気付かされた。私は、バロック美術は余り好きになれない。しかし、カトリックの布教に於いて、ベルニーニはたぶん他のどの彫刻家よりも貢献したのだろう。宗教芸術の俗化、大衆化という手法によって。広場の噴水に設置された彫刻は緻密な表現が抑えられているせいかそんなに気にならないのですが、(ナヴォナ広場やバルベリーニ広場等)、上に挙げたような教会のなかに設置された大理石での緻密な表現と俗っぽい感情を表現することに気を取られたような作品は、やはり私の興味の対象外なのに変わりはないのだが・・、そのことは、この物語の面白さに水をさしてはいない。

 キーワードは、イルミナティ、ガリレオ、ベルニーニ、天使、反物質、スイス衛兵隊、コンクラーベ・・・
 これらを頼りにヴァチカンの記録保管庫やローマ市内の教会や広場をラングドンの薀蓄に耳を傾けながらさ迷っているうちに、七百ページをあっと言う間に読み終わることができます。もし、これからローマやヴァチカンを訪れる予定のある方は、是非、この物語に出てくる教会や広場を巡る「天使と悪魔」ツアーに出かけられて、物語に出てくるベルニーニの彫刻を捜してみることをお勧めします。そういう意味で、「天使と悪魔」はバロック美術のローマのちょっとマニアックなガイドブックと言えるかもしれない。そして、ヴァチカンでは、スイス衛兵の着ているミケランジェロデザインのクラシックな制服をチェックすることもお忘れなく。

 ※コメント、書き込み(掲示板「あざみ広場」)等お待ちしています。
 ※関連記事はこちら、「ダ・ヴィンチ・コード」読了!、 「ダ・ヴィンチとミケランジェロ」 
 
 

天使と悪魔 上
越前 敏弥 / Brown Dan
角川書店 (2003.10)
通常24時間以内に発送します。

 
天使と悪魔 下
越前 敏弥 / Brown Dan
角川書店 (2003.10)
通常24時間以内に発送します。

 

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「二○世紀から」(加藤周一 鶴見俊輔)

 年末ということで、来し方行く末に思いを馳せて、少し固めの本ですが、前回の「復刊ドットコム」の記事にも出てきた本、「二○世紀から」を紹介します。
 本当にすごい本です!この本は、月刊雑誌「潮」誌上での(1999年1月号~2000年2月号)、加藤周一、鶴見俊輔という”知の巨人”ともいえる二人の対談を本にしたものです。二十世紀の百年を回顧して語られる二人の言葉は、歴史のみならず、文化、科学、思想、哲学、宗教などに対する該博な知識と柔軟な思考に裏付けられた言葉です。テーマは、戦争、社会主義、帝国主義、ファシズム、消費社会と南北格差、大衆文化、科学技術、宗教、ジャーナリズムなどですが、この本は、2001年9月5日に初版が発行されていますが、7 消費社会が生んだ南北格差の項では、あの、9・11のテロがおきるかもしれない中東の現状が語られています。
 
鶴見 中東はいま石油でもっているわけですが、石油は無限にあるわけではなく、石油がなくなったときは中東は大変なことになる。・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・、長い射程で考えると、中東にあるのは絶望的な未来です。やがてそこからアメリカに対する憎悪が噴出し、それをイスラム教が正義づけるかもしれない。南北格差というのは人類にとって恐ろしい問題をはらんでいることに気づくべきです。(「二○世紀から」155頁)

 また、14 ジャーナリストは何を表現したかの項で、加藤氏は、マスメディアの問題として、まず、さまざまな圧力や部数、視聴率がニュースやエンターテイメントの内容に強い影響を与えているというを点をあげた後、

加藤 もうひとつは、「中立・客観的・公正」というけれども、沈黙もまた意見の表明で、「中立」の意見というのはないんです。また、「客観的に事実を報道する」といっても、「事実」は無数にあるわけで、事実を選ぶには何らかの基準がなければならない。その基準は、結局、価値観で、したがって、客観的なニュース報道というものも原理的にはない。多くの新聞やテレビが言っている「中立・客観的・公正」というのは、よくいえば幻想で、悪くいえばウソです。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 それから、アメリカではウォーターゲート事件のようにジャーナリストが自分で調べるけれども、日本のジャーナリストは主として記者クラブでしょう。警察の発表をそのまま報道するから、ニュースソースが政府に偏っているという弱点があると思う。(同書291頁)

加藤 結局は話題の選択の問題だと思う。テレビに何が映っているかというと、世の中にとって重大なことはほとんどない。飛行機が落ちたということで大ニュースになったりするけれども、全体としては構造的に重大な問題はあまりない。そうすると世界は調和的だという印象が大衆の中に浸透していく。これがいちばん大きな問題です。(301頁)

鶴見 それが武谷三男が言う「新しい闇」なんです。オーウェルは一介の巡査として植民地・ビルマにいたし、志願してスペイン市民戦争に参加しているから、現実の政治には必ず妥協が必要だということを知っていた。どういう妥協か、彼にとってはそれが問題で、それが彼の文学批評の基準だった。だから字面だけのラジカルは否定する。オーウェルが二十世紀の偉大なライターであり、偉大な政治思想を代表しているというのは、敵の中にもいいものは見ているからで、そういうものが日本では少ない。
加藤 イギリス人は「どちらが正しいか」ではなく、「どちらがより正しいか」、あるいは「より悪いか」という比較級で、最上級は使わない。それでいて、「どちらでもいい」とはいわず、場合によってはいいと思うほうに命懸けで取り組む。そこが偉い。(302頁)


 9・11のテロが起きた時、私は寝ているところを、いきなり殴られて起こされたような気がした。あの後、ニュースや新聞、特集番組などを片っ端から見たり、イスラム教についての本を読んだりした。そして、自分は世界について何も知らなかったんだということを思い知らされた。世界の現実についての無知と無関心は、大きな怒りとなって、自分達にはねかえってくるということ、そして、私達が、少しでもこの現実を知ることによって、世界が変わる可能性が出てくると思う。この本は、二十世紀を振り返ることによって、私達に二十一世紀を生きていくための的確なヒントを与えてくれます。私は、特に、政治とジャーナリズムをどう読むかという点で参考になりました。

上に、かなり長々と引用したのは、この本が現在、絶版となっているからです。この本は、私にとって、二十一世紀を生きるための炬火のような本です。興味を持たれた方は、下記より復刊リクエスト(前記事「復刊ドットコム」参照)に投票してください。読むだけの、価値のある本だと思います。
 
  「二○世紀から」復刊リクエスト投票ページへ

追:それと、絵本作家、長谷川集平さんの絶版になっている「とんぼとり」という絵本の復刊リクエストにも投票しています。そちらの投票ページへのリンクも張っておきますので、ご賛同いただける方は、投票してください。(長谷川集平さんの絵本については、また、項を改めて書きたいと思ってます。それとマイホームページ「あざみ野荘でつかまえて」に掲示板あざみ広場を設置しましたので、皆さん恐れずに、書き込んでください。簡単な近況報告を掲載しています。)

 「とんぼとり」復刊リクエスト投票ページへ

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「ゲド戦記」

12月のはじめに、「ゲド戦記」の翻訳者、清水真砂子さんの、「アースシーを旅して」と題された講演を聴きに出かけた。講演では、「ゲド戦記」に出遭ったときのことや、翻訳で苦労した点、作者のル=グウィン夫妻のこと、また清水さんご夫妻の日常のやりとり、そして、フェミニズムの人々やアカデミズムへの批判、(断っておくが、彼女は反フェミニストではない!第四巻から第五巻の説明のところで、ル=グウィンのフェミニズム思想について語られながら、ご自身の考えを述べられていた。そこで、フェミニズムの”人々”の問題点を述べられていたのだ。)そして、最後に、
 「(「ゲド戦記」に出てくる)竜とは何か?」という問に対して、清水さんの考えとして、「ひょっとしたら、子供って竜かもしれない。」と、おっしゃられたのが、印象的だった。(「ゲド戦記」に出てくる竜は、多くの西欧の物語の破壊や悪の象徴のドラゴンとは違う存在として、描かれている。)
 
 「ゲド戦記」の素晴らしさについては、児童文学、ファンタジーの傑作として、多くの人が語られているので、今更、多くは語らないことにするが、この「ゲド戦記」全五巻+外伝を子供だけのものにしておくのはもったいない、もっと、多くの大人たちに読んでもらいたい、ということは言いたい。物語の思想の深さ、という点からだけでなく、読み物としても非常におもしろい。読み出したら次どうなるのか知りたくて止まらなくなる。
 
 余談として、付け加えさせてもらえば、”ゲド”は、私の中で”理想の男性No1”の位置にある。
 私が特に気に入っているのは、第二巻「こわれた腕環」のなかで迷宮の中に閉じ込められたゲドが、巫女として、本当の名前をとりあげられて暮らしているテナーにはじめて出会うところ。ゲドは、そのとき、アルハと呼ばれている彼女の本当の名前を呼ぶ。「気をつけてな、テナー。」と。そのときの彼は、閉じ込められて死ぬかもしれない状況なのに、鷹揚さと余裕を感じさせる。
 そして、第四巻と第五巻の、清水さん曰く、「定年退職した男」として描かれているゲドに、大人の男の忍耐強さや落ち着きを感じて、好ましい気持ちになる。(勿論、第一巻から三巻の大魔法使い、英雄として描かれているゲドも、”かっこいい”のであるが。)

ゲド戦記 全6冊
L.グウィン 作・清水 真砂子 訳


 

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「ダ・ヴィンチ・コード」読了!

 世界的なベストセラー小説「ダ・ヴィンチ・コード」をやっと読了しました!
 物語は、ハーヴァード大学の宗教象徴学の教授ロバート・ラングドンと、フランス司法警察暗号解読官のソフィー・ヌヴーが、ソフィーの祖父で、ルーヴル美術館館長のジャック・ソニエールが殺されたときに残したダイイングメッセージを解読しながら展開していくのだが、暗号として使われているのが、あの有名なダ・ヴィンチの<モナ・リザ>や<岩窟の聖母>などルーヴルの至宝ともいえる作品だ。そして、「フィボナッチ数列」という有名な数列(1-1-2-3-5-8-13-21ーそれぞれの項の値が、先行するふたつの項の和に等しいという性質の数列)が謎解きに使われたりもする。また、「シオン修道会」ーダ・ヴィンチやニュートン、ヴィクトル・ユゴー、ジャン・コクトーなどが総長だったとされるヨーロッパの秘密結社ー、「聖杯伝説」などというキーワードが出てくるのだが、この辺りはキリスト教の歴史に疎いわれわれ日本人には聞き慣れない言葉であるが、そんな、キリスト教史や美術史、宗教象徴学なんてものを知らなくても充分楽しめる物語だと思う。登場人物の職業や社会的地位や宗教的立場などによる性格や言葉使いの違いがとてもよく描かれていて、謎解きとおなじくらいおもしろかった。特に、フランス司法警察中央局警部のベズ・ファーシュとイギリス人の宗教史学者リー・ティービングの造形はフランス人とイギリス人のあるタイプの人間の典型をみるようで傑作だった。警察の包囲網を突破してリー・ティーピング邸から脱出する件などは、まるで「007」ばりの展開だったし。
 
 薀蓄好きのひと、理数系のひと、美術ファン、そして、勿論ミステりーファンにも必見の小説といえると思う。
 
 ※読むときには、ダ・ヴィンチの画集を用意しておくことをおすすめします!

ダ・ヴィンチ・コード 上
ダン・ブラウン著・越前敏弥訳

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