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シニカルな冷笑芸はもう時代遅れなんじゃない?&砂丘にダイヤは無し!

 まぁ、このタイトルの言葉以外に言いたいことはないんですが、誰のことっかって言うと、ビートさんや松本某さんみたいに、自分は傷つかない安全な場所にいながら、他人を上から目線でせせら笑う( 冷笑する )あの芸風なんですよね。もういい加減止めて欲しい。

 ネトウヨにも通じる上から目線的冷笑、もううんざり、飽き飽き。自分たちの人生、人格その他の空虚さを埋めるために、ネットという穴倉の中で偽物の優越感に浸っている感じに、吐気と痛々しさを覚える。そこから出てきて、その偽物の優越感から解放されれば、もっと感じよくなるのにねと思う。

 穴倉の中で、孤独に。。お仕事ご苦労様っていうべき?それはそれで、この格差社会の一断面ってこと?

 TVのなかに真実は無いよ。昔は、砂丘のなかに一粒くらいきらっと光る石を見つけられたけど、いまはもうそんなものは無い。国会中継はやらずに、都合のいいところだけ編集して流す公共放送とやら。そこのたぬきのような会長の顔。。勘弁して欲しい。日本のトップとやらの広告会社のお抱えデザイナーとやらのエンブレムが裁判起こされたのも、自業自得とは思うが彼一人の問題ではなく、トップと言われる方々の総体的なレベルの低下なんじゃない。なぁなぁでやってる分にはばれなかったでしょうが日本人はだませても世界はだませない。。東京オリンピックどうでもいいけど、電通さん、どうかAKBだけはセレモニーに出さないでって思うばかり。世界中から笑われるから。過去にサミットみたいなのでもう笑われたっけ?よろこび組みたいとか言われて。よろこび組だよ。。どうします?そうならないとは言えないところが怖いいまの日本。

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鶴見俊輔さんを悼んで過去記事紹介

 先日、お亡くなりになった鶴見俊輔氏を悼み、また在りし日のその” 知の巨人ぶり ”に敬意を表して、氏と加藤周一氏の対談本についての過去記事を紹介します。

 「二○世紀から」(加藤周一 鶴見俊輔)

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高倉健さん関連記事紹介

 高倉健さんのご冥福をお祈りして、関連過去記事の紹介をさせて頂きます。

 まだまだお元気と思っていたので突然の訃報にショックを受けてますが。

最近のTVから プロフェッショナル仕事の流儀~映画界の伝説・高倉健スペシャル~ 
 
NHKスペシャル「高倉健が出会った中国」を見て(驕る必要もないし、卑屈になる必要もない)

 「単騎、千里を走る。」

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恐るべし!タラソワコーチ(芸術におけるワイルドなもの)ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2006-01-17にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 もうすぐトリノオリンピックということで、フィギュアスケートに関した記事を書くことにしました。(ヒマネタなんで気楽に読んでください。)
 
 最近、女子選手の活躍もあってフィギュアスケートのファンは更に増えていると思いますが、かくいう私もマニアというほどではないのですがかなりのフィギュア好きなので、トリノオリンピックを楽しみにしているのですが、(いつもはお目当ての選手がいたりするのですが、今回は特にいませんが、女子シングルの三人の活躍は楽しみにしています。)
 私がこれまでに見た名選手を思い出してみると、(歳がわかってしまうけれど)やはりいちばんかわいかった札幌のジャネット・リン、高くて美しいジャンプと品のある美しいスケーティングの男子シングルのロビン・カズンズ、男子と女子のシングルのゴールドメダリスト、ペトレンコとバイウルのウクライナのふたりなど数々の名選手が思い浮かびますが、中でも、私が好きだったのはアイスダンスで、アイスダンスといえば、サラエボのトービル&ディーン組の「ボレロ」が有名ですが、私が一番思い入れがあったのはカルガリーオリンピックのアイスダンスで金メダルを獲った、ベステミアノア&ブーキン組です。(カルガリーのエキシビションでのアンコールに応えたダンスメドレーの演技も印象に残っています。)その彼らのコーチが、あの荒川静香さんのコーチだったことで(最近、彼女が同コーチの元を離れたことがニュースになりましたが)日本での知名度がアップしたタチアナ・タラソワコーチでした。勿論、彼女の名前を知ったのは最近のことで、当時は、あの、選手が採点を待つ”キッス&クライ”のコーナーで毛皮のコートを着て座っている彼女の迫力に圧倒されていただけでしたが、最近、ネットで彼女のことを調べて、”私が好きだった選手やペアの殆どを彼女がコーチしていた”ということを知って驚きました。すごいステップで確かオリンピックで三連覇したペアのロドニナさん(確か途中でパートナーが変わったと思う)、アイスダンスのモイセーワ&ミネンコフ(モイセーワが美女で評判だった)、そして前述のベステミアノア&ブーキン、前回ソルトレークの男子シングル「仮面の男」で金を獲ったアレクセイ・ヤグディンとフィギュア界の名選手、金メダリストばかりなのです。ヤグディンの「仮面の男」のプログラムは覚えておられる方も多いと思いますが、それを見てもわかるように、その振り付け、ステップ、選曲など、プログラムのすべてがとても洗練されていて完璧で欠点が無いことに驚かされます。顔の表情まで逐一振り付けられるということを聞いて、さもありなんとそのコーチングの厳しさ、完璧主義が想像されるのですが、今やその名声に違わない実績を残されて、知るひとぞ知るというより、日本でも有名になってしまった名コーチなのです。だから、予備知識なしに見ていても、彼女のコーチした選手やペアはわかってしまうのですが、そのカルガリーのアイスダンスのTVの解説で今も思い出すことがあるのです。解説は確か五十嵐文男氏だったと思いますが、彼は当時、このふたり(ベステミアノア&ブーキン)のプログラムがあまり好みではなかったらしく、解説で「好きじゃない」、「よくなかった」などと連発して、彼が押していた二位のロシアの別のペアを盛んに持ち上げていたのです。解説者が「好きじゃない」などという何か素人の個人的な感情みたいなことを言うことに当時かなりの違和感を感じましたが、やはりメディアに出て来るひとの意見はすべて正しいと思っているひとが多いのか、「(一位のふたりの演技は)よくなかった、と解説者も言っていた」という意見が多くって、私が、エキシビションのふたりの演技を熱心に見ていると「○○さんは、好みが濃いから・・」などどとからかわれたことを思い出します。このオリンピックのフィギュアで日本のマスコミが例によって集中的に報道していたのは、女子シングルの伊藤みどりと、ブルック・シールズに似ていると言われて人気のあった、あのカタリーナ・ビット(「カルメン」のプログラムで女子シングルで金を獲った)でしたが、オリンピックでエキシビションの最後に出てきたのは、ベステミアノア&ブーキンのアイスダンスのふたりで、会場は熱狂的な三回のアンコールを送ってふたりの演技をたたえたのですが、このとき私は、しぶしぶ彼らの実力を認めていた解説の五十嵐氏に対して、してやったりと思わずにはいられませんでした。
 この件については、もうひとつエピソードを付け加えると、皆さんご存知のシンクロの小谷実可子さんが、まだ現役だったころのインタヴューで、(彼女が次のオリンピックのプログラムに「カルメン」を選曲していたことが話題になっていた頃のことです)インタヴュアーに「カタリーナ・ビットのカルメンを参考にされますか?」と問われて、彼女は「私はビットよりもアイスダンスのベステミアノアのカルメンのほうがすごいと思う」と答えていて、最後にインタヴュアーは彼女に対して「変わってますね」などと言って「よく変わっていると言われます」と彼女は答えていましたが、私は、それを読んで、わが意を得たりと、とてもうれしかったのを覚えています。インタヴュアーは、自分の予想した答えが返ってこなくて当惑したのでしょうが・・。
 
 私は、”世界標準”という言葉をそのまま素直に受け入れられない、あるいは、その言葉に反発を覚えてしまうことも多々ありますが、でも、特に芸術の世界において、自分が理解できない、自分が未知のものに対して”拒絶してしまう”あるいは”勉強不足の解説者や評論家の権威によって、それらを判断してしまう”ことは、とても損なことだと思うのです。単純に言ってしまうと、彼らだって正しいわけではないので、もっと疑おう、まず自分の目でみてみようということだと思うのです。

 私が、フィギュアスケートのおもしろさに目をひらかされたのは、ベステミアノアたちよりもさらに以前のアイスダンスのペア、モイセーワ&ミネンコフだったと思います。彼らが、NHK杯で、あの「タブー」の曲に合わせて踊ったときには、子どもごころに度肝を抜かれたのを覚えています。彼らの演技は、大人っぽくて色っぽいのですが、いやらしくはなかったのです。そこが、研ぎ澄まされた芸術表現と、ただのエログロナンセンスとの差だと思いますし、日本人には、むずかしい世界(エスコートやレディファーストの感覚が自然に出てくるような環境がないとあの感じは出せないだろうし、日本人だと、せいぜいホスト的になってしまいそうだと思う)ですね、ペアとかアイスダンスというのは。

 期待されているトリノの代表の4人にはがんばってほしいと思います。前回もでしたが、今回もアイスダンスに特にひいきのペアがいないので、私はゆったり見ようと思ってます。シングルのフリーのプログラムはなかなかむずかしくて、女子は特に、ひとりであの時間を飽きさせずに持たせる完璧なフリーのプログラムというのには、まだお目にかかってないと思う。(アルベールビルのバイウルの「黒鳥」はよかったけれど、あれはショートプログラムだったし)男子シングルの前回のヤグディンのフリーはかなり完璧なものだったと思うけれど、やっぱり私にとってのNO1はスケーティングがきれいで、ジャンプもうまく、表現力もあったロビン・カズンズですけどね。

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「 漱石の凄さ 」

 いまさらという感じもあるんですが、ドラマ「 鹿男あをによし 」の1話は、凄く面白かった。私にとって、ドラマ自体は尻すぼまりな感じになってしまったのですが、1話は面白かった。それは、どうしてだったのかを考えていたら、それは、1話は、漱石の「坊ちゃん」だったからだ、と思い当たり、やはり小説家、夏目漱石の偉大さを再認識した。でも、段々トーンダウンしてしまったのは、最大の危機に関する謎解き部分にいまひとつぴんとこなかったからだ。それなら本家坊ちゃんのような青年の成長物語の比重がもっと大きければもっとおもしろかったと思う。NHKあたりで、漱石原作のドラマとか、小説家や詩人の伝記ドラマとか昔はよく作られていて、それなりにおもしろかったけれど、またそういうのやってくれないかなと思う。

 私は、他人の理屈よりも自分の感覚を信じる。悪いけど。でも多くの人は、自分の好きなひと(あるいはテレビや新聞に出てるひとと言い換えてもいい)の言動であれば、無条件に信仰してしまう。自分で考えるのが面倒くさいから、「すきな人(テレビに出てる有名人)がこう言っていたからそれはそうなんです」というひとのなんと多いこと。いくら好きなひとの言葉でも変なものは変なのに。そこまで考えないか、と思わず思う。脳ミソがテレビだけでできているような・・。メディアリテラシーというか、そんな言葉を持ち出さなくても、ちょっと意識して他のメディアにも目を通して、テレビを見るとその変さ、そしてそれに出ているひとたちの言動の変さにはすぐに気付くはずなのに。 結局、大雑把な感想を言わせてもらえば、大人がいなくなってしまったと思う。もてはやされているのは子ども(思春期気分の大人も含む)ばかり。そして大人と呼ばれているひとたちも、(思春期の)子どもにばかり喝采を送っている。そんな世界。それはやっぱり異常なんですよ。思春期で止まったエセ大人にミスリードされた耳年増の子どもが増える。世の中なんてこんなもの、現実なんてこんなものと経験もしてないことを知ったつもりになる。それは、やはりとてもまずいことだと思う。

 昔も子どもむけのドラマはいっぱいあった。でも上質の大人向けのドラマもあった。それが、なんだかなぁ~。映画も自己満足っぽいものや、テレビ局の絡んだタレント頼りのものばかり。だから、それならっいっそ、漱石の小説をとか中也の伝記をとか思う。彼らの悩みは充分現代的だし、あの暗さを含んだ諧謔も、”いま”、ならもっと理解されるのではなどと思ったりする。

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Kバレエの「海賊」

 まず最初に、私はバレエについての専門的な知識はほとんどなく、熊川哲也のダンスを観たいというだけで観ているファンなので、これから書こうとしていることは、バレエについての専門的なレヴューではまったくないことをお断りしておきます。
 
 Kバレエカンパニーの「海賊」(熊川抜き)公演を観てきました。よくも悪くも、”熊川ありき”のKバレエですので、前回「白鳥」を観た時のように、熊川哲也にだけ注目してしまい、他の人のダンスの印象が薄くなってしまうというようなことはなくて、Kバレエのそれぞれのメンバーの踊りを前よりじっくり観ることはできました。熊川哲也に代わってアリの代役を踊った橋本直樹さんについては、ジャンプや回転などのテクニックは、確かなものを持っているダンサーだと思いましたが、感情表現の点―アリ役では、メドーラに憧れながらも、主人のコンラッドへの忠誠心や身分の違いから、叶わぬその想いをこころの中に秘めるというような―では、まだあまりこちらまではその感情が伝わってこなかったかなと思いました。そういう点では、熊川君のアリを観たかったなあと思います。橋本=アリは、もともとのアリの設定―コンラッドという主人に仕えているという感じはよく出ていたと思いますが、Kバレエの「海賊」は、熊川=アリを中心に作られているので、「海賊」はストーリーにそんなに魅力があるわけではないので、熊川哲也という中心が欠けるとやはり物足りない気がします。そんな中、私が一番気に入ったのは、2幕1場(洞窟)での、”鉄砲の踊り”と名付けられている海賊たちの踊りです。この男性舞踊が、観ていて楽しくなるようなダンスで、「海賊」らしさが一番出ていた部分だったのではないかと思いました。あとは、舞台美術・衣裳は堪能しました。最初の、航海図のような幕の向こうに並んで立っている海賊たちの姿が透けて見える演出や、海賊船の登場シーンは、船やバックの色や照明がはっとするくらいきれいでしたし、衣裳も、いつもながら繊細できれいでした。「白鳥」の時も思いましたけれど、女性のミディ丈のドレスが私はチュチュよりも好きだなと思います。あの舞台美術、衣裳、熊川演出を観るだけでも価値はあると思いますが、やはり本人の思い入れのあった熊川=アリを観れなかったのは残念でしたし、アリ役のあのジャンプや回転やひねりが膝にとってはかなりの負担で、怪我につながったのでは、なんて思ったりもしました。公演前のインタビューによると、これからやってみたい構想がいっぱいあるみたいですので、きっと元気にカムバックしてくれると思いますが、長く彼の踊り続ける姿を観たいと思っているファンとしては、自身のダンサー生命のことも考えて、演目や振り付けを考える時期なのでは、と思ったりしました。ジャンプの熊川だけでなく、類まれな表現力の方にも、もっと皆が注目してほしいなと思います。

 最後の最後のカーテンコールに監督、熊川哲也が出て来たときの、観客の割れんばかりの拍手と、待ちかねたというようなスタンディングオベーションに、皆の想いが表れていたと思います。出てきてお辞儀をするだけで観客を引きつけるあの力は天性のものだと思います。

 

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デュシャンの「大ガラス」のこと(寂しい現代人の自画像)~ふと思い出して

 ”昔々”で始めなければならないくらい前に、マルセル・デュシャンに入れ込んでいた時期がありまして、”ユリイカ”や”美術手帳”や”芸術新潮”などのダダイズムやシュールレアリスムの特集記事を読んでは、難解な言葉の羅列に何が書いてあるかさっぱりわからない、と嘆息しつつ、ブルトンはダサいけどデュシャンはカッコいい、というくらいの次元に私のデュシャンへの興味はあったと思います。
 有名な”泉”やモナリザのレプリカに髭をつけた洒落のような作品は、そのユーモアにまあ笑えたりもするのですが、私が今回ふと思い出したのは、デュシャンの代表作とも言われている、「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(通称「大ガラス」 1915~1923年) という作品です。この作品については、様々な解釈、解説がなされてきましたが、私が、今回思い出したのは、ガラスに描かれた機械の設計図のようなその作品本体ではなくて、現代社会と現代人の状況を予言していたような、奇妙な題のほうです。デュシャンの意図はわからないし、そのことについて忖度するほどの時間も興味も今の私にはないのですが、この不気味な現代の状況の予言のような題名は、彼の生きていた当時のヨーロッパやアメリカと今の日本の状況が似通っているのか、現実が芸術に追いついたと言うのか(悪い意味で)、まさに現代日本で起きていることだ。巷に独身者たちの生産性のない性のための妄想が商品化されてあふれているこの状況を予言していたような題だと思う。そして、遺作ではさらに独身者たちの不毛でからまわりしている変態的なエロティシズムが作品となって私たちを挑発している。は~~っと書いていても何かうんざりしてくる。デュシャンのこれらの作品は、デュシャンが時代の状況を冷静に観察して作品化したものなのか、そのような独身者のひとりとしての自己表現だったのかはわからないが、天才というものは時代を先取りするということは言えると思う。なにものをも生み出さないエロティシズムの不毛さ寂しさは私を憂鬱にしかさせないが。

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ペイントギャラリー~Happy New Year~

inu


     「犬の絵」       by kai

「 皆さま、今年もよろしくお願いします。 」

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E・Lカニグズバーグ「ジョコンダ婦人の肖像」

 題名の「ジョコンダ婦人の肖像」というのは「マドンナ・リザ・ジョコンダ」つまりあの「モナ・リザ」のことです。モナ・リザのモデルについては諸説ありますが、カニグズバーグは、フィレンツェの名もない商人ジョコンダ氏の二度目の妻としています。そして、この物語は、レオナルドがなぜ彼女の肖像を描いたのかという問いへの答えとなっています。

 物語では、ミラノでロドヴィコ・スフォルツァ公に仕えていた頃のレオナルドやミラノ公妃ベアトリチェ、彼女の姉でマントヴァ公妃イザベラ・デステなどのことが、レオナルドの札付きの召使だった(大うそつきでどろぼうだったと書かれてます)サライの目を通して描かれています。この物語はレオナルドがなぜそんなサライを死ぬまで手元に置いたのかという疑問に対するカニグズバーグの答えでもあります。本の表紙にはレオナルドによるサライと思われる美しい若者の横顔のデッサンが使われていますし、レオナルドとサライが同性愛関係にあったのではということはよく指摘されていることですが、カニグズバーグはレオナルドがサライを必要としたのはそれだけの理由ではないと、作中でミラノ公妃ベアトリチェにその理由を語らせています。つまり、「レオナルドは自分に欠けているものをサライから得るために彼を必要としたのだ」と。そして、それはすべて偉大な芸術に必要なものであると。カニグズバーグはそれを芸術における”ワイルド”な要素であると言っています。すべての偉大な芸術にはワイルドな要素があるのだと。
 このことを、ベアトリチェはサライに語っています。これが、ひとつの答えですが、もうひとつの答えのほうは、ミラノ公妃ベアトリチェにあると作者は言っています。カニグズバーグはベアトリチェのことを、そんなに器量はよくないが、愛嬌があって機知に富んでいて、とても周囲の者達に愛される魅力的な人物として描いています。それに比べて、姉のイザベラ・デステのほうは、器量はよかったが、虚栄心と自己愛が強い退屈な女性として描かれています。史実はどうだったかは、私にはわかりませんが、このイザベラの描かれ方は、物語としてはたいへんおもしろいのですが、ちょっと気の毒な気もします。というのも、イザベラの肖像と言われるレオナルドの手による有名なデッサンが残されていて、この物語でもそのデッサンのことが、レオナルドは何故そのデッサンに色をつけなかったのかという説明(つまり、イザベラにあまり魅力を感じなかったため)とともに出てくるのですが、そういう意地悪い見方で紹介されている当のデッサンを先入観なしに見てみると、これが中々味があってよいのです。レオナルドの繊細なタッチで描き込まれた手や横顔などは見応えがあるし、私には完成されたタブロー作品にも負けない興味深い趣のある作品に仕上がっていると思います。作中では、レオナルドはイザベラの中年にさしかかった徴候を容赦なく描いたと否定的に紹介されていますが、私には、レオナルドの他の作品に比べて、例えば、カニグズバーグによって、ジョコンダ婦人の中に好きだったベアトリチェの面影を見て、彼女の肖像を描いたと説明されている「モナ・リザ」(これが最初の問いの答えです)の神秘性、中性性に比べて、そこには、生身の女性が描かれている気がするのです。
 でも、この物語で語られているベアトリチェとイザベラを比べてどちらが魅力的かと問われれば、それはもちろんベアトリチェなんですが、それはそれとして、「イザベラ・デステの肖像」のデッサンの素晴らしさは、この物語の解釈とは関係なく存在するように思われます。


 ※4月10日の拙記事「ダ・ヴィンチとミケランジェロ」よかったら参照してください。

※よかったら、gooブログのほうも訪問してみてください。

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熊川哲也さんのこと

 先日、念願だった熊川哲也さん率いるKバレエ カンパニーの舞台(『白鳥の湖』)を観ることができた。元々、ダンス全般観るのは好きなのですが、地方に住んでいると中々こういう本格的な古典全幕バレエを観る機会は無いので、そんなにいい席は取れなかったのですが、堪能させてもらいました。舞台美術や衣裳も素晴らしくて、芸術監督熊川哲也の鋭く繊細な美意識が細部にまで感じられました。勿論、熊川さんのダンスはスペシャルでした。カーテンコールでは、観客殆ど総立ちのスタンディングオベーションに何度も何度も答えている姿が印象的でした。観客のその反応は、お世辞や形式的なものではなく心からの感動の表現として自然に出てきたものでした。
 
 私が熊川哲也の名前を初めて知ったのは、彼がゴールド・メダルを受賞した’89ローザンヌ国際バレエ・コンクールがNHKの教育テレビで放映されたのを偶然見た時です。私がその番組を観ていたのは、その番組の解説をしていた、名前は忘れましたが、たぶんその世界では有名なフランス人の女性の解説者の毒舌ぶりがおもしろかったためで、さすがフランス人とある意味感心しながら、彼女の解説を聞きたくて、その長い番組を最後まで観てしまったのです。コンクールを観たことのある方ならご存知と思いますが、コンクールはクラシックの部門と創作ダンスの部門に分かれていて、クラシックの部門は、そこそこ彼女に誉められるひともいたのですが、創作ダンスの部門では、それこそ彼女の毒舌が冴えわたって、「これはひどいですね」 「全然だめですね」 「創作ダンスというものが全然わかっていませんね」 などというコメントが続いて、殆どのひとがばっさばっさと切られていったのですが、その彼女が、最後に熊川さんが登場する前に、「皆さん、彼のダンスを観てください。創作ダンスとはこういうものです。」みたいなことを言ったのです。私は彼女のそのコメントにびっくりして、そして熊川さんの創作ダンスを見て、ーピエロの扮装でのダンスでしたが―その大胆かつ豊かな表現力に感動したのです。たぶん、その時17歳くらいだったと思います。フィギュアスケートの伊藤みどりなどを見てもテクニックはあっても表現力はいまひとつというのが日本人のイメージだったので、その時の彼のダンスには本当にびっくりしました。今でも時々、そのコンクールの様子がビデオで紹介されたりするんですが、大体クラシックダンスのほうが使われていて、私が感動した創作ダンスのほうは観る機会が無いのが残念なんですが、今でもその時の鮮烈なイメージが頭の中に残っています。こんな日本人が出て来たんだという感慨とともに。その後の、活躍ぶりは、皆さんもご存知のとおりですが、偶然とは言え、あのコンクールで熊川哲也というバレエ界のスターが誕生した瞬間を目撃したことは、私の中で、密かに自慢すべきこととなっています。同じ時代に生きていてよかったと思うような芸術家のひとりです。そして、あの日本人離れした表現力がどうやって身に付いたのかその秘密を知りたい気がします。

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