Posts categorized "日記・コラム・つぶやき"

「硫黄島からの手紙」TV放送&ブログの検索ワードを見てのつぶやき

 「硫黄島からの手紙」がTV放送されました。カットされている部分があったのは残念でしたが、残酷なシーンがあるため、TVでの放送は無理なのかなと思っていましたので、良かったと思います。改めて、イーストウッド監督の作風に敬意を表したいと思います。それと同時に、日本人の描く戦争映画が、この映画のレベルにまで全く達していないことに、落胆させられますが、私たちは、この映画によって、やっと、六十年以上も忘れ去っていた、硫黄島の戦いと、そこで命を落とした日本兵の気持ちに、心を向けさせられたのです。この映画が、これまで、受けた傷の深さのためか、きちんと検証されてこなかった、戦場の真実と、実際に戦った兵士の証言に私たちの目を向けさせるきっかけになったと思います。
 それと改めて西郷役の二宮和也の演技力を再認識しました。清水の遺体が発見されて、西郷が遺体に清水の千人針をそっと置いて泣くシーンで、西郷が、遺体のほうを見つめながら画面をすーっと横切るんですが、その時の彼の表情が素晴らしい!


 それと、ブログの検索ワードに、夏休みの宿題の読書感想文関連らしい、本カテゴリーの検索が数件入っているのに気が付きましたが、参考にしていただくのはかまわないのですが、どうか、コピー&ペーストだけはやめてくださいね。以前、偶然に、自分がまったく投稿していないある掲示板で、自分が書いた文章の一部を見つけたときには、なんだかなあ~と思いましたので。

 
 ※参考記事 「硫黄島からの手紙 」

 ※参考記事 男はどうして戦争映画がすきなのだろう(「硫黄島からの手紙」を観て感じたこと)

 ※参考記事 「父親たちの星条旗」より

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ツリー&キャンドル&手作りケーキ

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Happy New Year !ですが、去年のクリスマスの写真をアップしておきます。ろうそくの灯りっていいですね。右後ろは、オーナメントを飾りすぎて、満艦飾になってしまった小さなツリーです。

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「 漱石の凄さ 」

 いまさらという感じもあるんですが、ドラマ「 鹿男あをによし 」の1話は、凄く面白かった。私にとって、ドラマ自体は尻すぼまりな感じになってしまったのですが、1話は面白かった。それは、どうしてだったのかを考えていたら、それは、1話は、漱石の「坊ちゃん」だったからだ、と思い当たり、やはり小説家、夏目漱石の偉大さを再認識した。でも、段々トーンダウンしてしまったのは、最大の危機に関する謎解き部分にいまひとつぴんとこなかったからだ。それなら本家坊ちゃんのような青年の成長物語の比重がもっと大きければもっとおもしろかったと思う。NHKあたりで、漱石原作のドラマとか、小説家や詩人の伝記ドラマとか昔はよく作られていて、それなりにおもしろかったけれど、またそういうのやってくれないかなと思う。

 私は、他人の理屈よりも自分の感覚を信じる。悪いけど。でも多くの人は、自分の好きなひと(あるいはテレビや新聞に出てるひとと言い換えてもいい)の言動であれば、無条件に信仰してしまう。自分で考えるのが面倒くさいから、「すきな人(テレビに出てる有名人)がこう言っていたからそれはそうなんです」というひとのなんと多いこと。いくら好きなひとの言葉でも変なものは変なのに。そこまで考えないか、と思わず思う。脳ミソがテレビだけでできているような・・。メディアリテラシーというか、そんな言葉を持ち出さなくても、ちょっと意識して他のメディアにも目を通して、テレビを見るとその変さ、そしてそれに出ているひとたちの言動の変さにはすぐに気付くはずなのに。 結局、大雑把な感想を言わせてもらえば、大人がいなくなってしまったと思う。もてはやされているのは子ども(思春期気分の大人も含む)ばかり。そして大人と呼ばれているひとたちも、(思春期の)子どもにばかり喝采を送っている。そんな世界。それはやっぱり異常なんですよ。思春期で止まったエセ大人にミスリードされた耳年増の子どもが増える。世の中なんてこんなもの、現実なんてこんなものと経験もしてないことを知ったつもりになる。それは、やはりとてもまずいことだと思う。

 昔も子どもむけのドラマはいっぱいあった。でも上質の大人向けのドラマもあった。それが、なんだかなぁ~。映画も自己満足っぽいものや、テレビ局の絡んだタレント頼りのものばかり。だから、それならっいっそ、漱石の小説をとか中也の伝記をとか思う。彼らの悩みは充分現代的だし、あの暗さを含んだ諧謔も、”いま”、ならもっと理解されるのではなどと思ったりする。

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「 文学はひとを救わない 」

 というタイトルを付けましたが、もちろん、「優れた文学にはひとを救済するちからがあります。」 でも、中途半端な文学(ドラマなども含む)は、ひとを救わないどころか、ある種のひとびとにとっては毒であったり、ひとびとをミスリードしてしまったりします。中途半端なリアリズムによって現実を描いたものの多くは、そういう現実を乗り越えようようとする勇気をひとびとに与えるよりも、リアリズムに留まることによって、ひとびとをその不完全な現実の肯定に留まらせます。それは一種のニヒリズム、退廃であると思います。「芸術」 において、価値があるのは 「リアルであること 」ではないのです。芸術の価値はもっと高次な次元のものです。
 
 「文学はひとを救わない」という感想を持たざるをえないような表現を目にすると、私の興味はそれらから離れる。そんななか、”渋谷の夫バラバラ殺人事件”のことを調べていて、家族カウンセラー中尾英司さんのブログに辿り着いて、氏の、「 渋谷夫殺害事件-法廷証言でたどる歌織被告の真実 」 という、懇切丁寧なレポートを読んで、ニュースやTVのワイドショーの解説などでは知ることのできない、あの事件の(歌織)被告の「 精神的真実 」 、―中尾氏によって

歌織被告は、あくまで『ここに至るまでの彼との生活をわかってほしかった』のである。
と表現されている( これは哀しい言葉です )―を知ることは、その相手をこの世から抹殺するほどひとを追い詰める凄まじいDVの現実と、その心理を知ることができます。そして、その蟻地獄にからめとられて身動きできなくなってしまった彼女が、決して特異な女性では無いこともわかります。興味のあるかたは、上のリンクからぜひ訪問してみてください。

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「アカルサハ・・・」

 
 最近、ふっと思うこと。「絶望」とか「退廃」とかは、一種の余裕である。余裕のある状態だと。

 「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。」 (太宰治 「右大臣実朝」 より)

 と、太宰は勿体つけて言ったが、その恰好付けた言い方がちょっと違う気がする。

 「明るさは大人の処世術である。」

 それは、太宰の感想の貴族的なゆとりとは一線を画す。

 「明るさは、水鳥の水中の足である。」

 のようなぎりぎりの状態で続けられる努力に似ている。

 

 

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あけましておめでとうございます

 あけましておめでとうございます。

 今回は紅白を観ました。と言っても、TOKIOの出演部分の前後ですけど。いやあ「青春」ヨカッタですね!長瀬君の髪もまだ短めで、最後のあいさつは何言ってんのか聞き取れませんでしたが、よかったです。鶴瓶師匠、サタケさんのお知り合いで、「歌姫」観ていたんですね。あの、あまり The 芸能人してない司会ともども、私の中で好感度アップしました。年始の特番とかCMとかで、長瀬君をいっぱい見ることができて、「あーっ、太郎ちゃんだ!」と喜んでいました。そういうところを見ても、業界内での評価は高かったのではと思います。あのドラマの他の出演者の皆さんにも幸運が訪れるといいな。

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新年のごあいさつ

 あけましておめでとうございます。
 新年も、もう5日になりました。でもなかなか書きたいテーマが見つからないので、ひとまず新年のごあいさつをしておきます。
 みなさん、今年もよろしくお願いします。

 去年から今年にかけて、フィギュアの番組が結構あったので、gooブログに、フィギュアスケートについてちょっとだけ書いてますので、よかったら訪問してみてください。

 みなさんにとって2007年がよい年でありますように。
 
 そして、こころ震わされるような芸術との出会いが今年もありますように。

 

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あいのりに見る現代恋愛事情

 皆さん、「あいのり」って番組を見たことありますか。若い人は殆ど知っていて、年輩の人はあんまり見ないというイメージがありますが、バラエティは余り見ない私ですが、この番組だけは殆ど見ています。小6の長男と一緒に見ることもあって、「ヒデはどうするんだろう・・」とか言いながら見ています。
 
 この番組が始まった当初は、正直、一回見てつまらなかったので、その後ずーっと見てなかったのですが、ある日消費税か何かのニュースを見ていて余りに腹が立ったので、チャンネルを替えたらやっていたのがこの番組だった。ひさしぶりに何となーく見ていたのですが、番組や出演者の雰囲気ががらっと変わっていて面白くなっていて、それ以来ずっと、最近の若者の恋愛事情をウォッチングさせてもらってます。
 私がこの番組を新たに見始めたのは2年位前のことだったと思う。何かバブルの浮ついた雰囲気が残っているような番組スタート時と較べて、出演者の皆が必死と言ってもいいくらい真剣に相手を捜している雰囲気が番組から伝わって来ました。”恋愛”ではなく”結婚”の相手を捜しに来たとはっきり言っている人もいたし、彼らのその必死さが却って清々しいなと思いました。番組でカップルが誕生した時は、彼らの幸せの正のエネルギーを分けてもらえるようでうれしくなります。恋愛にこんなに真剣になれる彼らを素直にいいなと思えるし、最近の若者もなかなか捨てたものでは無いと思うことしきりです。いーやその真剣さにおいて、昔より誠実な若者が増えているのかもしれないと思ったりもします。でも、彼らが、どちらかと言えば日本より貧しい国を旅することが多い「あいのり」の旅で、日本での狭く限定された自分の殻を破って、旅を通して成長していることが何より大きいし、若者にとっての旅の重要性を思うし、若者が自分の殻を破ることができる環境が日本の中にいては中々得られないということも感じます。そういう自分の殻を破る旅が偶然にしろ、この番組の中にあって、自分の殻を破って誰かに告白する姿は、例え振られたとしても何がしかの感動を周囲に与えるのだと思います。環境は大事ですよね。
 何か説教臭くなりましたね。この辺で止めましょうか。

 でも、最近番組を見ていて思うことは、これは駄目かもしれないっていう告白の場合、女性→男性の場合はOKのことが多くて、男性→女性の場合はNOのことが多い気がするのですが・・。女性のほうが、その辺シビアって言うか、自分の好みに忠実で余り気が変わらないのに較べて、男の人は、女性から告白されると、他に好きな人がいない場合断れないことが多いなと思います。最近の展開では、そうとばかりも言えない結果が出ていますが。取りあえず次回(ミカリンとスーザンの結末)も楽しみです。

 ※掲示板のほうにもちょこっと書いてますので、よかったらのぞいてみてください。

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黒澤、小津映画の中の品のある日本人の顔

 私は、特に黒澤映画のファンと言う訳でもなく、小津映画のファンと言う訳でもなく、両者の作品ともTVで放送されたのを何作か見たことがあるばかりであるということは断っておきますが、今でも日本映画を代表する映画監督としてこの二人の名前をあげる人が多い状況は変わっていないと思います。日本映画といえばまず、”黒澤”、”小津”という状況は海外の方でも根強く残っていて、日本の新人監督達にとっては、巨匠として尊敬の対象であると共に、いつまでもそういう状況があるということで彼らが目の上のたんこぶ的に目障りな存在でもあるのかもしれないと思う。

 この文章では、そういう日本映画の現状について考察すると言うようなことを書きたい訳ではなくて、この両者の映画が何故にこれほどまでにインターナショナルな人気を得ることができたかということを、あるひとつの視点からだけ考察(そんなオーバーなものではないですが)してみました。
 
 それは、彼らが起用したお気に入りの俳優の顔に、具体的にあげると、黒澤映画の三船敏郎、小津映画の原節子や笠智衆の顔に、現代のと言うより、戦後の高度成長期以降の日本人からは失われてしまった品を感じると言うことである。
 例えば、映画「用心棒」の三船敏郎には、周囲を圧するような圧倒的な威厳と品がある。そして、人間に備わったそういう品があるとしか言いようのない特質というものは、世界中の誰が見ても理解でき、共感される特質なのだと思う。同じことは、映画「東京物語」の原節子や笠智衆にも言えると思う。人はそういう人間の持っている品という特質を普遍的な価値あるものとして直感的に感じ取って評価するのではないだろうか。だから、黒澤、小津両監督とも、彼らを見出し、起用した時点で映画の成功は7割方約束されたようなものだったと言う気がします。
 だから、そういう品を失ってしまった我々現代の日本人によって映画を撮らざるを得ない現代の映画監督が世界で評価されるような作品を作るためには、作品の質のみで勝負するしかないというより困難な状況はあるという気はします。残念ながら。

サッカー専門ブログ掲示板の方ものぞいてみてください。

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~判官びいきの心性~

 NHKの大河ドラマで取り上げられたりして注目を集めている”義経”に因んだ”判官びいき”という言葉があるが、自分の心性のなかに根強く判官びいきの心性があるのに気付く。どういう時に一番感じるかというと、やっぱりスポーツ観戦の時で、スポーツの試合などで、どちらのチーム、あるいは選手もひいきではない時は、大体負けているほうを応援している。何となくそうしている自分に気付く。一方的なゲームがおもしろくないという気持ちもある。ヨーロッパなどにもそういう心性はあるだろうか。ありそうな気がするが、アメリカには無さそうだ。日本でも若いひとはどうだろうか。若い世代のほうが世相の影響を受けやすいので、”強者の論理”で動いているひとが多いような気もする。”勝ち組”、”負け組”などという言葉で分類して、(私はその本読んでませんし、今後も読まないと思いますが、)自分が勝ち組だと安心し、自分は負け組だと確認したとしても、自虐を装うふりをして優越感に浸ってるような感じを受ける。どちらにしても、判官びいきとは遠い感性だと思う。
 ところで、また古い話で申し訳ないけれど、アテネオリンピックで私が一番心に残ったのは”井上康生選手の敗戦”なんですよね。凡人としては、強い選手が垣間見せる弱さというものにどうも弱くて、順風満帆で隙を見せない選手よりも、時々コケてしまう選手のほうが好きなんですよねえ。例えば、PKを失敗してしまうベッカムとか、ヴィクトリアに頭のあがらないベッカムとかいう風に。

 それにしても、「平家物語」の前文(祇園精舎ので始まるあれです)は素晴らしいと思う。あの前文だけでも、日本の政治家のひとびとに読んでもらいたいと思う。平家の運命に思いを馳せれば、自分達の身の処し方ももう少し潔くなるんではないだろうか。

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 ※新たにサッカー記事専門のブログを始めました。気楽に書いてますので、興味のある方はどうぞ。下記より。
  「あざみ野荘つれづれgooブログ」といいます。

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バレンタインデー

 チョコ、チョコとうるさいんである。
 我が家の息子ふたり(小5と小2)のことなんですが、毎年この時期になるとぼやいている。テレビ等のメディアに洗脳され過ぎと思うけれど。

 弟 「○○君は5個ももらったけど、ぼくは1個(母から)やった。」
 母 「ははは・・・・・・。」
 
 小学校でも、人気の一極集中はあるみたいで、人気がある子(チョコをたくさんもらう子)というのは、どことなく落ち着いた雰囲気のする子(つまり小学校時代は女の子のほうが成長が早いので、そういう中で女の子に選ばれる子というのは、”自分達と同じレベル”にあると思われる子が選ばれていると思う。)ということになると、なかなか限られてきて、無難なところで、かっこいい男の担任の先生といったところに落ち着くんじゃないだろうか。兄のクラスでも、
 
 母 「クラスで一番もてるの誰?」
 兄 「先生。休み時間になると、女子が(先生を)取り囲んでいる。」
 
 とのこと。

 で、そんな担任の先生がクラスの男子に対して、

 「バレンタインデーでチョコをもらえなかったぐらいで、自分の人生うらんだりしないように。」 

 という、適確なアドバイスをしてくれたようだ。(年長の同性ならではのアドバイスだなあと感心しました。)
 女の子にとっては、お祭りっぽいイベントなんでしょうが、(チョコをもらえない)多くの男子にとっては、悩ましい一日なんでしょうね。


 ※マイホームページ「あざみ野荘でつかまえて」の日記ページに新記事「北朝鮮戦雑感」アップしました。のぞいてみてください。
 掲示板「あざみ広場」もよろしく。

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お笑いにみる学力の低下

 一応、教育というカテゴリーに設定していますが、そんな大上段な内容ではないので、気楽に読んでみてください。
 日本のお笑い界を代表する三人と言えば、ビートたけし、タモリ、明石家さんま。(異論のあるひともいると思うけれど、とりあえず、この三人にさせてもらいます。)三人の中で、一番若いのが、明石家さんまで昭和30年生まれ。で、何が言いたいかというと、私は「お笑いに必要なものは、常識だ」と常日頃思っているので、三人ともそういう点から見ると、安心して見ていられる。(この場合、あくまで、彼らは「常識がある」と言っているので、「常識的である」と言っているのではない。)つまり、固い言い方をすると、笑いというのは、大衆のもので、大衆に受けるためには、大衆の深層心理に通じていなければならない、ということで、それには、「常識がある」ということが、必須条件だからだ。柔らかく言えば、頭がよくなければ、(成績がいいということではなく)、お笑いをやってはいけないということになる。(あくまで、”プロ”の話です。)そういう点から、この三人を見ると、三人ともクリアーしていると思う。(勿論、それぞれの全てを肯定している訳ではないし、特に、その女性観に関しては、勘弁して欲しいと思うけれど、それは、今回のテーマではないので。)で、彼ら以降、彼らを、脅かすような新人があらわれたかというと、あらわれていない。若者の圧倒的支持を得ている、いろんなコンビにしても、「常識」というより、「非常識」を売り物にしている。「知っていながら知らない振りをしている」のではなく、元々、「知らない」ことを、売り物にしている。だから、身辺雑記や、芸能界のあれこれについて、しゃべるしかネタがない。どうして、こういうことになってしまったのだろうか。それは、学校だけでなく、社会全体の教育力が低下したためだと思う。つまり、どこかに「知の断層」があるように思われる。「知らない」ということが恥ではない社会というべきか。 因みに、三人のなかで、一番、常識人であると思うのは、ビートたけし。彼の場合、常識人である自分への照れから、お笑いというかくれ蓑をまとっているという感じだ。そして、時々、我慢できなくなって 、ぼそっと鋭い言葉を吐いてしまう。(彼に関しては、別の機会に取り上げてみたい。功罪あると思うので。)ビートたけしが、今まで残って来たのは、どんなに、非常識を演じようと、その後ろに、常識人の彼が見えるからで、他のふたりにもそれは言えることだと思う。だから、社会の教育力の低下で、常識の無さを売り物にする芸人は増える一方だが、当分、彼らを脅かすような芸人は出て来ないと思う。


※マイホームページ日記ページに新記事(中田英寿~MY FAVORITE FOOTBALLER~)アップしました!

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ようこそ、あざみ野荘へ!

 はじめまして!このブログは、あざみ野荘の住人keiko が、日々の出来事やニュース、本の書評、映画評などをつれづれなるままに綴っていくブログです。
 ★サッカーについてのコラムも掲載予定!

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