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追悼!ピーター・オトゥール ( 関連過去記事の紹介 )

 名優ピーター・オトゥールが亡くなってしまった。

 ショックです。

 もう少し生きていて欲しかったです。

 ↓過去記事

 名犬ラッシー

 「 チップス先生さようなら 」

 「 ラ・マンチャの男 」

 ピーター・オトゥールの「ヴィーナス」

 ロレンスの言葉

「アラビアのロレンス[完全版]」DVD

 「 アラビアのロレンス [完全版] 」

 世界一の美貌

  ご冥福をお祈りします。

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飯島愛とかテリー伊藤の解説ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2005-10-09 にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 日本代表、ラトビアとの親善試合は2-2で引き分け。松井の代表入りはあるかもということと、失点の原因と思われる守備のバランスの崩れについてきちんと反省してほしいといったところでしょうか。毎度書いてますが、稲本はどうなんでしょーね。親善試合だし、チームとして学習して次につなげてくれればという感じです。

 元々、サッカーの記事を専門に書こうと始めたブログなのに、あの解散選挙以来、サッカーどころではなくなってしまって、元々の(少数の)読者の方々に愛想を尽かされてしまったのではと危惧してはいるのですが、どうも呑気にサッカーのことを書く気がしないというところが今の正直な気持ちです。

 で、ひさしぶりにサッカーについて書こうと思って、思い出したのが、2002の日韓W杯のある試合のことなんですが、その試合というのはあの韓国ーイタリア戦ー韓国の決勝トーナメント初戦のあの試合のことですが、この試合については私のホームページの日記ページに「2002年のW杯で(オランダのサッカーつづき)」と題して書いたので、よかったらそちらの記事も見ていただければと思いますが、当時のあの試合に関する報道で、サッカーファンとして不満に思ったことを今更ながらですが書いてみたいと思います。そして、この件は、今のマスコミ報道全般にも通じる問題を孕んでいたと思うので。
 
上に挙げた記事にも書いたのですが、あの試合の肝は、トラパットーニ率いるイタリアの守備的サッカーと、ヒディング率いる韓国の超攻撃的オランダサッカーの対決の妙を楽しむことだったと思うし、試合展開や会場の雰囲気も合わせて、ヒディング采配によって追い詰められていくイタリアチームの様子と、そして韓国のゴールデンゴールによる逆転勝利というサッカーファンにとっては、これ以上のお膳立ては中々見られないだろうというほど面白い試合だったと思う。
 しかし、あの試合に対して、多くの日本人や一般マスコミの反応はどうだったかというと、日本が決勝トーナメント初戦でトルコに負けたことによる悔しさからか、あの試合の審判のジャッジの不透明さばかりをクローズアップしたものだった。そして、そういう意見の代弁者のような意見として取りあげられていたのが、飯島愛の発言(韓国チームの勝利は審判にワイロを贈ったためという発言)で、彼女の発言を勇気ある本音発言として持ち上げる意見も少なからず見かけたが、私の感想は「あーあ・・」だった。と言うか、腹立たしかった。飯島愛のような”にわかサポーター”とも言えない(にわかの人は、その時点でサッカーファンになったという点でまだ許せる)仕事で見ているだけのタレントの意見が、まるで穿った意見のように持ち上げられ彼女がよいしょされる状況に対する腹立たしさだった。彼女は、両チームの監督が誰であるか、両チームがどういう特色を持ち、韓国チームの安貞桓以外の選手などについて知っていたとはとても思えない。そんな彼女の意見に喝采を送る、その安直さがサッカーファンとしてとても腹立たしかった。そんな彼女の意見が日本でのあの試合の評価を代表する意見となってしまうという日本のサッカー評論の貧しさが情けなかった。そこには、サッカーというスポーツに対する愛は全くない。私はそこに、自分の意見の小利口さを競い、あるいはウケさえすればそれでよいという今のマスコミ人のどうしようもなさを感じる。そういう人にサッカーについて語ってほしくないと思う。いや、彼女が語ること自体は否定しないとしても、それがあの試合についての代表意見となるこの国の人の気持ちの余裕の無さを悲しく思う。劣等感の強い者ほど、自己の優越性保持のために他者を攻撃するという意味での劣等感を感じる。一番許せなかったのは、飯島愛からはサッカーへの愛情も日本代表チームへの愛情も全く感じられなかったという点である。それは退廃と言ってもいいと思う。そしてそういう次元でサッカーが語られることが許せなかったし、サッカーというスポーツが貶められるのが許せなかった。サッカーについて語るならば、せめて、専門性か愛情かのどちらかだけでも持っていてほしいと思う。
 そして、審判のミスジャッジについては、サッカー後進国だけでなく、ヨーロッパの強豪国に有利なミスジャッジもちゃんと取りあげて問題にしないとフェアではないと思う。私が見たなかでスペインやドイツなどの予選リーグの試合で、明らかに彼らに有利なミスジャッジがあったが、強豪国の場合は何故か問題に付されることもなく観客も流してしまうことが多いし、勿論彼らが自分達に有利なジャッジについて言及することはない。

 そして、専門性という点から考えると、飯島愛やテリー伊藤の意見を聞いて、彼らの発言に影響されて選挙に行った人というのも何だかなという感じである。上に書いたのと全く同じ理由で、ナイーブ過ぎると思う。そのことは、小林よしのりのマンガを読んで歴史がわかったつもりになっている疑うことを知らないナイーブな人たちも右に同じである。

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テレビの中の出来の悪い役割モデルたち(細木数子、明石屋さんま)ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2005-11-30 にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 子育てに関するふたつの記事を書いていて、ふと気付いたことを書いてみたい。
 
 前回の投稿の最後にも書いたのだが、「明石屋さんまは出来の悪い”役割モデル”である」、あるいは 「さんまの番組”から騒ぎ”は細木数子の番組に似ている」ということに気付いた。
 
 彼が、例の(もう恋がどうこうという歳ではないのであまり見たことは無いですが)「恋のから騒ぎ」やその他のトーク番組で、若い女の子や芸人たちに向かって恋愛薀蓄話や自分の女性観を語っている様子が、その不完全さにおいて、細木数子が彼女の番組で若い芸人たちや女の子たちに説教している図に重なって見えたのだ。
 私は、さんまが、現在において若い世代にどれだけの影響力があるのかは知らないが、若手芸人たちやテレビをよく見る層にはまだまだ絶大な支持を受けていると思うので、そんな彼が「俺は子どもを産んでお母さんになった女は駄目なんだなあ~」とか、若い女の子に(ご丁寧に”説教部屋”などと名前を付けて)説教を垂れているのを見ると勘弁してくれと思う。「このひとは何歳まで”恋がどうたらこうたら ”言い続けるつもりだろうか 」、と思う。そしてこんな”出来の悪い役割モデル”しかいない日本の若者たちを可愛そうに思う。私は、芸人さんまは決してきらいじゃないし、例の”説教部屋”も大人が見ることをとやかく言うつもりはない。彼の「サトウキビ畑」のドラマでの演技などは評価しているし、今時の若い芸人たちよりもずっと常識も教養もあると思う。彼の時おり見せる父親としての感想に共感したりもする。ただ、「彼の恋愛論だけはもううんざりなのである。」若い子たちには、「彼の女性観や恋愛論を真に受けても幸せにはなれないよ 」ということは声を大にして言っておきたいと思う。(皆がわかっていて、「反面教師」として聞いているなら、それはそれでよいのですが、番組の出演者たちを見ているとどうもマジに聞いているとしか思えないので)

 それにしても、「から騒ぎ」に出演している女の子たちには、どうもバブルの時代の尻尾がくっついているようなセンスの古さを感じてしまうんだが・・。その出演者のセンスの古さ加減が、さんまの恋愛論とほどよくマッチしているのかもしれないが・・・。

 今日の格言:  恋愛を語っているさんまは、”思春期気分のオトナ”でしかない

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大人とは・・ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2005-12-01 にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 教育関連の投稿の最初で紹介した本「未熟なオトナと不遜なコドモ」(ロバート・ブライ著/「クイズ番組に見る学力の低下・・」参照)には、現代の状況を読み解くのに示唆的な言葉が多く見られて私自身かなり勉強になったので、その中からまたいくつかの言葉を紹介したいと思う。


 皆さんは、「ジャックと豆の木」の物語を覚えているでしょうか。著者によると、この物語は、「父親に制約されない”怠惰で、軽率で、羽目をはずしがちな”十代の息子を持つ母親の話」であるということで、「巨人とは、書斎で人を刺し殺し、子どもを食らう者だ。」として「子ども部屋のコンピューターやテレビ」「子どもを一人きりで巨人の元へやっている」ことに他ならないとしています。 「二十歳から三十歳までの半大人はこうしたファイル(ポルノ)から子どもを守ろうとはしない」(同書70頁)「ジャックとは、父親のいない、そして最近では母親もいなくなりつつある社会に住むすべての男女をあらわしているのである。」(51頁)と。


 「保護されない子どもージャック」
 
 「子どものいる子ども」


 そして、思春期の少女たちも、「多くは必要な保護を受けていない」として、彼女達が「家庭の中でさえも親に大切にされていないと感じている。」とする少女の研究家の言葉を紹介している。(64頁)


 「思春期の若者たちが運営する社会」「子どもたちを軽視し」「半分大人の状態を評価」する。そこでは、「親は退行してこどものよう」であり、「子どもは見捨てられてしまう、早く大人になることを強いられる」のでこの本の表題である「未熟なオトナと不遜なコドモ」たちが多く見受けられるようになったのであると。
 
 「子どもたちは、あまりにも早く物事を知るようになるので、”大人”になりすぎて年長者を大人とみなすことができない子どもがますます増えている。」という土居健郎の著作「甘えの構造」からの言葉も紹介されている。そして、「大人のような子どもと、子どもっぽい大人の共通要素は甘え」であると。


 女性たちもまた、肉体的にも感情的にも若く、さらには未熟であれと社会に命じられている。

 「教養を身につける苦労を怠る者」は「代わりにナルシシズムに浸り、幻想を上演している多目的劇場への切符を手に入れる」(77頁~79頁)


 「イニシェーションを体験していない女性たちのナルシシズムはきょうだい主義社会を直接あおり、男性の思春期の延長とも共謀している。」(159頁~160頁)


 「充分な心の準備ができる前に性欲を刺激されてしまう」「早すぎる思春期を迎え、永遠に思春期のまま留まる。」(182頁)


 きょうだい主義社会は、父親を家庭から奪い、がらくた文化を無批判に受け入れ、若すぎるうちから薄っぺらな性体験を促し、礼儀を奪い去り、経済的な不安定さをもたらすことで、娘達の魂に重大なインパクトを与えてきた。(164頁)


 その人の癒しは蓄積してきた歴史に基づいたものでなければならないだろう。
 
 思春期の若者は、「同世代のことしか気にしない!自分の欲望が大切だし、それで集団が生き延びられないというなら、そもそも生き延びる価値はないんだ。」(76頁)
と感じている。

 
1965年頃、何世紀にもわたって、有効だった家庭のしつけが突如崩壊した。

 裕福な者も貧しい者も、基本的には同じ家族の解体を経験しているのだ。(64頁)
 
→保護されない子ども ジャック の出現


 エルヴィス―年長者に導く対象として見られたことがない息子のよう(115頁)


以上、かなりアトランダムに本の言葉を紹介してきましたが、最後に著者の考える大人についての定義の部分を紹介します。

 
大人とは、われわれがエディプスコンプレックス前の願望と呼んできた、快楽と慰めと興奮をすぐに手に入れたいという願望に支配されない人間
 
 世界は主に死者のものであり、われわれはほんのしばらく死者から世界を借りているにすぎないことを理解するのは大人の眼力である。
 
子どもの扱い方に多大な時間と労力を注ぎ込んでいる。世界を継続させていくのは子どもたちだからだ。

 本当の大人とは、思春期の若者の激しさに対抗するための、自分の世代と創造性にふさわしい激しさを失わずにいられる者だ。こうした激しさを失わないだけでなく、さらに激しさを増す時、大人は長老となると言えるだろう。


 世界へ出ていき「他人のために感情の宝石を集める」者だ。(アンサール)


     
 大人は本当に大人になるとはどういうことかを判断しなければならない。
 若者を大人の世界へ引っ張り入れることを求められている。大人が振り向いてこのラインまで歩いて行き、思春期の若者を引っ張り込まねなければ・・・・。(321頁~322頁)

 今日も、「思春期気分の大人」による「子どもたちへのひどい仕打ち」
と見られる犯罪のニュースが絶えません。でもそれらは、突然変異的に現われたものではなく、私たちが住んでいるこの社会と文化が生み出しているものなのだという意識を忘れてはならないと思います。そのことを考える時、著者が「がらくた文化」の「巨人」と呼ぶテレビやコンピューターあるいはゲームやアニメなどが子どもたちに与えている毒の部分に大人たちが無関心でいることの危険性を私たちがもっと自覚することの重要さを感じます。
 これに関連して、前の投稿(「テレビの中の出来の悪い役割モデル」)でも触れた”さんま”が前にテレビで「”古典”なんか生きていくのに必要ないから勉強する必要がない。」という(高校の古文の先生が聞いたら嘆くだろう)意味のことを発言していたのを覚えています。私もテレビの前で「それは違うよ」と呟いていましたが、皆さんはどう思われますか。どなたかが言っていましたが、「イギリス人はたとえその全文を読んでいなくても、少なくともシェークスピアの戯曲についての知識は持っていて如かるべきであると。」だから日本人にも身に付けるべき必須の教養はあるはずで、さんまの言うように生きていくだけなら、(金もうけをするだけなら)古文の知識など必要ではないかもしれないが、例えば、平家物語の前文の知識があるかどうか、芭蕉の俳句をいくつか知っているかどうかで、それらを全く知らない人とは人生観や哲学において全く違ってきてしまうと思うことを考えると、さんまの言っている事の誤りは簡単にわかることだろうと思う。そして、そういう発言こそは”きょうだい主義社会”の流している毒に無自覚な発言であるし、私たち自身がその中にどっぷり浸って育ってきた存在であるという自覚の元に、この社会を見直していく必要が、子どもたちのために必要だと思う。

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再び「ハウルの動く城」についてー過去記事の再掲載

↓※この記事は2006-07-23 にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 昨日の金曜ロードショーで「ハウルの動く城」を再び観た感想を少しだけ書いておきたいと思います。最初に観たときは原作のイメージが強すぎて、原作からかなり変更されていた映画に違和感があったのですが、今回改めて映画を観て、映画は映画として楽しむことができました。ただ、私の感想は、原作を読んだ者の感想なので、映画だけを観たひとの感想とは若干違うかもしれませんが。
 今回、最初に観たときには余り気がつかなかったハウルの表情や声の細かい変化に気づきました。ハウルのビジュアルは、少女マンガ的で、ぱっとみ女性作家による類型的な男性像と思われるかもしれませんが、彼の内面が良く現れている例えばヘアのカラーリングに失敗してかんしゃくを起こして引きこもってしまうところなどは、彼(現代人)のナルシシズムと幼児性がよく出ていておもしろい場面でしたし、そのあと、ソフィーとの生活を通して変わっていくなかでも、彼がソフィーに愛情を感じながらも彼女の頑固さに辟易するような表情を見せる場面もあって(辟易しながらも気長にそんなソフィーを見守るのが彼の大きさなのですが)、そんなところが、この映画のハウルに少女マンガの王子様にはない陰影を与えていると思いました。(ただ、そのあたりの描写に関してはやはり原作には負けると思うので、興味のある方は、原作を読んでみてください。)
 映画の公開の頃に読んだ評の中には、この作品のテーマについて、あまり理解せずにとんちんかんなことを書いているものが目につきましたが、”ソフィーが老婆になるという呪い”と、”ハウルの動く城”の持つ意味がわかればこの物語はわかるのではないでしょうかねっ。

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「散るぞ悲しき」ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2007-06-30 にgooブログに掲載したものの再投稿です。
 
 生協のピースライブラリーで見つけて、「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」(梯久美子・著/新潮社)を読んだ。読むのは大体夜中、寝る前だったのだが、読んでいる間は、その後眠れなくなって困った、そんな本だった。そして、読むのが止めれなくなるような本だった。
 内容は、映画「硫黄島からの手紙」で描かれている栗林忠道像を、その硫黄島での日々、戦闘そして最期を、そのまま詳しく描写した感じで、あの映画が、かなりリアルに、栗林忠道という人物を描いていたということがわかった。
 
 この本のタイトル「散るぞ悲しき」は、彼が最後の総攻撃前に、大本営に宛てた訣別電報の最後に添えられた辞世の歌3首のうちの1首、

 国の為重きつとめを果たし得で 矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき

 から来ています。当時、軍人(指揮官)として、戦闘行為を詠むに当たって、タブーとされていた”悲しき”という言葉―新聞発表では”口惜し”と改変されて発表された―が、どのような経緯で、どのような思い(意志)が籠められて発せられたのかを、軍人、家庭人としての栗林の性格や、島での地下陣地構築の日々、「生地獄」とも表現された、過酷で凄絶な戦闘の様子やその最期をていねいに描写していくことによって、描いている。もちろん、映画でも使われた手紙も数多く紹介されている。
 私が最も印象的だったのは、生前の栗林を知る者を訪ねて、軍の軍属(裁縫係)として、生前の栗林と親しく接し、彼のことを”うちの閣下”と呼ぶ85歳の貞岡氏に会った時のエピソードだ。当時「閣下のもとで死にたい」と願い、硫黄島に渡ろうとしたが、本人から「来てはならん」と怒鳴られ、その願いを果たせず、今でも栗林の最期の電報の電文の一言一句を忘れず、まるでお経を読むように朗誦するという貞岡氏は、栗林の死から33年後の昭和53年に慰霊巡拝団の一員として島に渡ったときに、案内の人が栗林が潜んでいた司令部壕を指すと、「閣下ぁー、貞岡が、ただいま参りましたーっ!」と呼びかけながら、その方向に駆け出したという件を読んだときは、われ知らず泣けた。
 映画でも使われた最後の出撃前の栗林の言葉、

日本国民が諸君の忠君愛国の精神に燃え、諸君の勲功をたたえ、諸君の霊に対し涙して黙祷を捧げる日が、いつか来るであろう。

 を、思い出した。

 貞岡氏の電文朗誦は、硫黄島の死者の霊に対する、私たちに代わっての、やはりお経なのだ。それは、そのような戦争があったことも、そこで亡くなった兵士たちのことも忘れて暮らしている私たちの戦後を照射している。私たちはそれらの死者を思い出し、涙することがあったのかと。(私は、栗林忠道のことを映画「硫黄島からの手紙」を観るまで知らなかった。)


 アッツでもタラワでも、サイパンでもグアムでもそうだった。その死を玉砕(=玉と砕ける)という美しい名で呼び、見通しの誤りと作戦の無謀を「美学」で覆い隠す欺瞞を、栗林は許せなかったのではないか。(同書220頁より)

 スミス中将が、その不気味なまでのしたたかさをウジ虫に例えた硫黄島の地下陣地。それは、名誉に逃げず、美学を生きず、最後まで現実の中に踏みとどまって戦った栗林の強烈な意志を確かに具現していた。(同書126頁より)

(※スミス中将=米海兵隊硫黄島上陸作戦の指揮官、ホーランド・M・スミス中将)

 しかし、その闘いは、栗林本人をして、「鬼神(きじん)を哭(なか)しむる」と表現させずにはおかないほどの戦いだったのだ。
 この本からは、栗林の”絶唱”としての電文に籠められたその闘いの哀切さとともに、その最期のときまで徹底した現実主義者(現実主義者としてアメリカとの開戦に反対していた)だった軍人栗林の姿が浮び上がって来る。硫黄島の地下陣地やその闘いぶりによって、敵将を感嘆させ、彼に対して畏敬の念を抱かせるほどの。そしてその現実主義者の彼が、留守宅のこまごまとした事までを気遣う手紙を書く、よき父親であり、夫であったことは、映画でも描かれていたとおりだった。

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最近のテレビから(「19歳の兵役拒否」 10/1 のNEWS23より)ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2007-10-03 にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 徴兵制のあるドイツでは兵役を拒否した場合(ドイツの基本法で「良心的兵役拒否」の権利が基本的人権の「良心の自由」として認められている)代替労役としての社会奉仕活動が義務付けられているそうで、19歳のドイツ人青年、ヤネク・ダン君は、以前に日本を訪れた時、最後に訪問した長崎の「岡まさはる記念長崎平和資料館」で、第二次世界大戦での(ドイツと共通する)日本のアジアに対する加害の歴史を初めて知ってショックを受け、もう一度資料館を訪れたいと思っていたことから、代替労務の場所に資料館を選んで11ケ月間働くことになったのだそうです。働き始めて、日本の若者が自国のアジアに対する加害の歴史をほとんど知らないことに驚いたそうです。ドイツではホロコーストなどの自国の過去の戦争犯罪についての歴史教育が徹底されて行われており、ほとんどのドイツ人は自国の過去の過ちについて知っている。そして、過去の過ちを国が公に謝罪することによって、近隣諸国との友好関係を築き、EUにも加盟している。
 彼は、EUになって、「国籍より人間性が重要だ」と思うようになったことも、兵役拒否の理由だとも言っていた。

  「私の国が何をした」かを知ること
  
  平和は戦争を語らないことではない

  そして、日本とドイツの戦後は対照的

  日本の戦後に偽善的なものを感じる

  日本は憲法9条を持ち、平和記念公園を作る

  でも徹底的な議論が欠けている、と。

 
 ドイツ人にしては小柄で、ヘアスタイルはドレッドヘアで、日本の友人とサッカーを楽しんだりもする彼は、今時のふつうの青年だが、資料館の休日には、長崎の戦争体験者の話を聴きに行ったりという活動を積極的にしている。日本の同世代の若者に、こんなに真摯に過去に向き合おうとしている青年がいるだろうか。自分達と同じような過去を持つ国から来た青年の真摯な言葉に耳を傾け、共感できる感性を多くのひとが持っていてほしいと切に思う。

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NHKスペシャル「 果てなき消耗戦 証言記録 レイテ決戦 」ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2008-08-16にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 8月15日(金)の10時30分から放送されたNHKスペシャル、「 果てなき消耗戦 証言記録 レイテ決戦 」について、簡単に書きます。

なでしこの中国戦の途中に放送されたこの番組を見て思ったのは、日本でも戦後60年以上経って、やっとあの戦争についての”現場=兵士”たちの証言を聞こうという動きが始まったと言うこと、である。これまで、戦争について語られて来たのは、広島、長崎、空襲など、残された者たちの戦争が主体で、兵士たち自身の証言については、文学者による小説を別にして、私たちは殆どそれを聞くこと無く、ずっとこの戦後を過ごして来た、意図的にそれを聞くことを避けて来たのではないかと言うほどに、と言えるのではないでしょうか。そして、このような番組について、この時季だけ反省してもと簡単に批判したり、これまでの私たちのように避けて通るひとも多いと思いますが、でも生還した兵士たちが高齢になった今、その証言を聞くことは、やはり意味があると私は思います。現場の当事者たちの証言を聞くことは、観念に傾きすぎる現代人の思考を検証するためには必要なことだからです。という意味で、私はNHKのこのような企画を評価します。

 この番組で最も印象に残ったのは、「現場の声に耳を貸さない大本営」というコメントで、この日本軍の体質は、現代の日本の組織に、今でもそのまま引き継がれてしまっている体質だなあと痛切に感じました。

 それと、去年辺りから見られるこのような動きには、あのイーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」の制作も影響を与えたのではないかと私は思います。

 
 『硫黄島からの手紙』は、冒頭から最後まで、まるで詩のように、日本兵の精神や隠された想いを打ち明けていく。(ピーター・トラバース / ローリングストーン / 「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」公式HPのレビューより)


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斜め読みの批判の批判ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2010-05-24 にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 前の記事で紹介した「古地図で巡る龍馬の旅」の講師、茨城大学準教授の磯田道史氏の龍馬評に「龍馬はリアリストですから」(第8回 放送で) というのがあったが、漫画家黒鉄ヒロシ著作「坂本龍馬」で、黒鉄氏は、「龍馬は過大評価され過ぎている」という最近の”疑問符”に対して、”龍薬”と題した項で、司馬さんの「竜馬がゆく」が戦後の日本人に与えた勇気と元気について語りながら、”龍馬さん”は抜群の効き目を持つ”薬”であるとして、その薬に対して、”歴史の研究”という”外科的手術”を施すことに抵抗があるし、推論でしかない疑問符は”野暮”だとし、”投げかれられた疑問符を打ち返すつもりはない。見逃してしまうしまうだけである。”と言い切っている。この黒鉄氏の発言は言いえて妙だと思うので、その項の最後の言葉を紹介してみよう。

 「新史料を斜めに読むことによって龍馬さんの位置を下げることにどれほどの意味があろうか。良薬を失ってしまうだけである。」(同書より)

 ネット上には、史料を斜めに読んだ”推論でしかない疑問符”みたいなものをさらに斜め読みしたような批判が氾濫している。”皆が評価しているものを批判している自分って凄いでしょ”と自分に酔っているようなそれらの批判にうんざりしている。

 最近は、ニュース番組とかもほとんど見てない。一応何があったかくらいは、ちらちらと見るが、キャスターのコメントなどは、ほとんど聞かない。それらもほとんどが”斜め読みの批判”みたいに、物事の本質には迫ってない、批判しているポーズに酔っている、充足しているものばかりに思えるからだ。

 最初に紹介した磯田氏の龍馬評のように、きちんとした根拠に拠った発言を聞きたいのだ。ものごとの多面性を無視して、全か無かで物事や人物を切り捨てるような批判が、意外にも一目置かれたりするのは何とかならないものかなあと思うこのごろ。

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加藤 周一の言葉ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2011-04-10 にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 福島の事故後の東電の会見を見ていて思い出した言葉があった。それは「二○世紀から」という加藤周一と鶴見俊輔の対談集の中の、( 11:科学技術の専門化と普通人の役割 )という章の中の加藤周一の言葉だ。少し引用してみます。

本当に優秀な技術者にとっていちばん大事なことはやっていることがおもしろいということなんです。
 だから「道徳的におかしい」「政治的愚行だ」と非難しても、科学技術とモラルの問題だけを論じ、技術者にとっての知的興味という問題を落とすと議論は空論になる。実際にやっている人は部分だけをやっていて、モラルのことはそんなに考えていない。技術者にそういうことを求めるのは無理なんです。 ( 加藤:同書233頁 )

 なぜ理科系の秀才がオウムに入るのかという問題も、戦争中は頭のいい技術者たちでさえいつかは神風が吹くと信じていたわけで、その問題と似ていると思う。技術者というのは二つの世界に住んでいて、緻密にものを考えるのは専門の実験室いるときで、一歩実験室の外に出ると大衆の一人に変わる。そのあいだにつながりはない。もちろん例外はあるでしょうが、全体の傾向としてはそれが技術者の一面なんです。( 加藤:同書239頁 )

 普通人の定義は難しいけれども、膨大な人数の普通人がいるという現実と、技術がこれほど発達した世界にとっては偉大な普通人が必要である、という二つの問題があると思う。ナチスに追われてアメリカに渡ったカール・フリードリヒは、デモクラシーの土台石の一つは普通人の哲学の尊重で、エリートだけではデモクラシーは成立しないと言っている。( 鶴見:同書234頁 )

「技術者にモラルを求めるのは無理」、「偉大な普通人が必要」 

 追記:

 結局は話題の選択の問題だと思う。テレビに何が映っているかというと、世の中にとって重大なことはほとんどない。・・・・全体として構造的に重大な問題はあまりない。そうすると世界は調和的だという印象が大衆の中に浸透していく。これがいちばん大きな問題です。 ( 加藤:同書301頁 )

 被災地の現実を忘れ去らないために、(自分達の不自由さを語れない芸能人たちの)ヴァラエティを見るのをやめよう。福島の悲劇の大きな原因のひとつに、みんなの無関心があったことは事実。9・11のテロが世界の無関心を告発した時のように。

 まだ世界は決して調和的ではない。あのくだらなさを増したように見えるバラエティが糊塗し、忘れようとしている現実を見よう。そこからしか再生は無い。そうすれば電力会社もスポンサーを降りるだろうよ。。

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「20センチュリー・ボーイ」と言えばT.REX ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2010-09-22 にgooブログに掲載したものの再投稿です。
 
夏休みに、映画「20世紀少年」3部作が、TV放映されてからだいぶ経ちますが、中学生の次男が一番熱心に観てましたが、私も一緒に観ていて、この映画、一番楽しめるのは、”えんどうけんぢ(じ)”と聞けば「カレーライス」、を連想する私のような世代ではないのかとも思った。この映画が封切られた頃、私にとっては、「20センチュリー・ボーイ」と言えば、映画ではなくて、T.REXなのに!と反発を感じて、この映画にも関心がなかったのですが。

 私にとっては、「20センチュリー・ボーイ」と言えばT.REXだし、「ノルウェイの森」と言えばビートルズなのです。原作者は私と同世代だと思いますが、T.REXは、現在でもCMでよく曲が使われたりするので、音楽関係者などのコアなファンがいるバンドだったとは思いますが、日本において彼等は、一般には、ビートルズの解散後、グラムロックの旗手として華々しく出たと思ったら、あっと言う間にメジャーシーンから消えてしまった”一発屋 ”という印象でして、私は日本での人気が無くなってからもレコードを買い続け、”T・レクスタシー”と言われた独特のサウンドと、マーク・ボランの”爬虫類ボイス”と呼ばれた独特の声や、女性コーラス(グロリア・ジョーンズ)の醸し出す魔術的陶酔的雰囲気にはまっていましたが、ロックファンとしては少数派で、その後、同じグラムロックのデビッド・ボウイへと関心が移り、ボウイがアメリカへ行ってダンスミュージックなどをやり始めてグラムが下火になってからは、ロックはパンクへと移行していって、自分もパンクを聞き始めたけれど、パンクブームも続かなくて、(ノ~フュ~チャ~!でしたからね)、その後、T.REXほどに、はまったバンドはなかったですね。
 
 でも、T.REXは、最初こそ、ば~んと入って来たけれど、その後は、自分の周囲ではT.REXファンは、本当にマイナーな存在でしたけどね。こんな、何十年もして映画のタイトルになるほどの思い入れを持った日本人が当時いたとは、まったく思えないほどに。そして、T.REXの「20センチュリー・ボーイ」が、青少年向けの映画の主題歌としては、果たしてどうなのか、とは思いますが。曲はまったく古びてないのが素晴らしいけれど、歌詞は”退廃のにおい”も少なからず醸しているので。「20世紀少年」のお噺だからでしょうですけどね。まあでも、私にとっては、映画より音楽でしたね。これからも。

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噓臭くない真摯さ

↓※この記事は2009-05-03 にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 清志郎の訃報を聞いて、彼の音楽やその活動について、なにか評論めいたことなんてなにも書きたくないし、そんなものを聞きたくも、読みたくもない。そんなものを読んだりするくらいなら、内田裕也のように意味不明な言葉を口ばしって、ごまかすほうがマシだ。泉谷の「オレとしては忌野清志郎が亡くなったコトは受け入れません」というコメントが一番ぴったりくるよ!強いて評論家めいた言辞を弄するなら、彼とともに「嘘臭くない真摯さ、正直さ」が失われてしまった気分。RCは都立高校の同級生達による”東京ローカルバンド”だった。「日本の芸能界なんてしょぼいからね」と言っていた彼の言葉のように、そんな(しょぼい)芸能界で生きていかざるをえない自分の立ち位置を、醒めて客観視していたことが、彼の音楽だけでなく、俳優としての演技など、すべての活動から窺われる。彼の「真摯さ、正直さ」が嘘臭くないのは、その自己も含めた周囲を見つめる醒めた視点があるからだ。そしてその視点は、あの時代の都立高校の風土の中から醸成されたものだった思う。私は、そんな彼のファンだった。
 そして私もこう言いたい。
 「忌野清志郎が亡くなったコトは受け入れません」と。

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突然に (つれづれ日記)ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2008-05-29にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 頭の中に突然にストーンズの「Paint It Black」(1966)が鳴り出した。あの、チャーりー・ワッツの乾いたドラムのタンタンタンというリズムが鳴り出して、あの呪文のようなバックコーラスが響き始めたのだ。別に今の私がとても過激な気分かというと、そうでは全然ないのですが・・。
 
 それと同時に、昔の映画のことやある女優のことなどを想い出した。
 (この項つづく。)

追記:ストーンズっていうと、ビートルズを引き合いに出して、「やっぱりストーンズだよね」とか言うひとが多いのですが、ミックが少し年長のジョンのことを兄のように敬愛していたことは、確かだと思う。(プライベートでジョン一家と一緒に映っているミックの写真や、ジョンについてのコメントを見たことがある。)そういえば、この間、ラジオでビートルズの「ノルウェーの森」(1965)がかかっていた。この2曲に共通するのは楽器シタールが使われていること。ビートルズはジョージ、ストーンズはブライアン・ジョーンズが弾いている。

 さて、上に書いた想い出した映画というのは、ジャン=ポール・ベルモンド主演の仏映画「リオの男」(1963)である。(懐かしいと思う人は少ないでしょうが、)なぜ、想い出したのかはわからないのだが、これにベルモンドの相手役で出ていた、カトリーヌ・ドヌーヴの実姉の、フランソワーズ・ドルレアックという女優さんのことを想い出したのだ。なぜか・・。ドヌーヴが近寄り難いような美人だったのに比べて、ドルレアックのほうは、キュートというかコケティッシュというのか、もっと親しみやすい美人で、ドヌーヴよりもフランス的な香のする女優さんでした。そして、モンキーパンチの「ルパンⅢ世」は、このベルモンドの「リオの男」に原型がある、つまり「リオの男」は「ルパン」の実写版のような映画だと思っていただければ正解です。面白くって、粋な(―粋なというところは現在の映画からは失われてしまいましたが、)アクションコメディー映画の原型でしたね。そして、ドルレアックという女優さんの可愛らしさ!(彼女が事故で夭折されたのは残念でした。)彼女のスタイルのよさと60年代ファッションも、この映画の楽しみのひとつですね。

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”オズオズの魔法使い”状態はどうかなー過去記事の再掲載

↓※この記事は2008-04-12にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 ちょっと前に、元フォークルセダーズの一員で精神科医、大学教授でもあるきたやまおさむ氏が、ひさびさにフォークコンサートのプロデュースをしたというニュースの中で、きたやま氏が「感情を犠牲にして現実に過剰適応している現代人の心の分裂状態」と現代人の精神状況のことを表現されていましたが、私も、若い人、特に若い女性にほど、その傾向が強いと常々思っています。つまり女性の方が、現実適応力が高いので、過剰適応になりやすいと思う。男性の場合は、女性ほど現実適応力が無いので、あまり極端に現実に適応してしまうことは、女性に比べると少ないと思う。ある程度の現実適応力は生きていくのに必要なスキルなのだが、何事も過剰になってしまうと、逆に自分を苦しめることになる。男の子の場合は、現実に過剰適応した母親の影響を受けるという形になるのかもしれない。若い子たちの、携帯メールの返信は5分以内というルールなんてのもそのひとつだと思うし、それを破るとイジメられたり、シカトされたりするわけだから、恐ろしいし、私は、そのような心性を横並びの「オズオズの魔法使いの心性」と呼んでいる。規則やマニュアルへの絶対服従という縛りを自分たちに科して、息苦しさと生きにくさを増幅させたこころは、他人や弱いものをいじめることによって、そのこころのバランスを保とうとする、オズオズとした心性のことだ。過剰適応は、アレルギーのように、そのひとを苦しめ出すのだ。だから、とりあえず横並びを少し止めてみませんか、と私は思う。

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最近のテレビから (NHKスペシャル「日本国憲法誕生」など)-過去記事の再掲載

↓※この記事は2007-04-30にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 昨夜、放送されたNHKスペシャル「日本国憲法誕生」は、センセーショナルなところや派手な演出などはない淡々としたNHKらしい作りの番組だったが、当時GHQで憲法草案に関わったひとたちへの取材などを中心にした丁寧な番組作りには好感が持てた。天皇をめぐるGHQ、日本、連合国の攻防や、女性関連の条文をめぐるやりとりでは、新たにわかったこともあった。特に女性の権利をめぐる条文を、日本側が「(日本の国民、歴史、文化に合わないので)削るように」と申し入れたところでは、その時「眠気が吹飛んだ」と回想していたベアテさん同様、私も口あんぐりとしてしまいました。そして削られなくてよかったと、ほんとうに思う。このエピソードからもわかるように、憲法改正に関するGHQの方針は総じて素晴らしいものだったということをあらためて思います。日本政府の改正案の日本文のあいまいさを指摘して、”主権が国民にある(主権在民)ということを明記すべき”と迫ったGHQケーディス民生局次長のエピソードも感動的だった。―日本側は天皇制との関連で相手の申し入れを飲んだのだが―こういう細部(本心から民主化されてない日本人の本質)を知るにつけ、あの憲法は変えてはならないと強く思います。その他、中学校までを義務教育とする運動の中心となった愛知県の守山青年学校校長黒田毅氏の言葉、「戦時中のあさましい所業、戦後の醜悪な世相は、なにが原因しているでしょう。それは過去の教育が特権階級、有産階級などのめぐまれた少数のものに対する教育にのみ力を注いだ罪です。」という言葉もこころを打つ。(義務教育が完全に無償化されているかどうかは、フランスなどと比べれば疑問ですが。)それと、シビリアンコントロールという点で思うのは、現在の日本で憲法遵守、平和主義の姿勢を守っているのは、(もし、憲法が改正されれば”自分達には関係ないさ―戦場に行くのは自衛隊員だから”と、イケイケになりそうな)シビリアンの方がたではなく、隊員の命がかかっている自衛隊の方がたではないかということである。イラクへの自衛隊の派遣を見てもあきらかなように、日本のシビリアンの無責任さが、私が憲法改正に反対する理由のひとつです。マスコミも含めて、アメリカでさえ反省しているのに、思考停止の政府におもねるように、あの戦争は間違っていたという声が一向に聞こえてこない世界の声に無関心な日本社会、マスコミの自己満足な閉鎖性も気になりますし。

 それと、都知事またまた暴言ってのがありましたけど、「野垂れ死に」って・・・・、自宅のリビングでテレビ見ながら発言するのならどうぞって言葉ですけど、知事としてオフィシャルな場で発言するのはどうかと思います。私は、そういう煽り発言は、やはり好きではないし、社会への影響を考えると、ああいう一連の無神経な発言は絶対にしてはならないことだと思う。それが批判もされずに垂れ流されている状況は退廃以外の何ものでもないと思う。

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男の子、女の子ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2006-04-24にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 本題に入る前に、現代人の(特に女性の)外見についての完璧主義について少し書いておこうと思う。これは、私が以前にこのブログで紹介した本「未熟なオトナと不遜なコドモ」(ロバート・ブライ著)「女性の身体はスリムで若くなければならないという強迫観念」と表現されていますが、私たちは、そして殆どの少女たちが、この強迫観念にしばられて、膨大なエネルギーを外見に、そして、痩せることに集中しているのです。そのバカバカしさ・・・。以前に紹介した箇所と重複するかもしれませんが、同書からもう少し引用してみます。「教養を身につける苦労を怠る者、代わりにナルシシズムに浸り」「女性たちもまた、肉体的にも感情的にも若く、さらには未熟であれと社会に命じられている。」「イニシエーションを体験していない女性たちのナルシシズムはきょうだい主義社会を直接あおり、男性の思春期の延長とも共謀している。」

 さらに、”美意識”についての清水真砂子氏の意見も引用しておきたいと思う。
 
 ”美意識”とは私たちにあいまいさを許し、しばしば人を傲慢にさせる。
 
 美意識とは「自分が美だと考えるものが、人間の本性の底にある真実や善と結びつくはずだという観念」といってよい。

 そして、「強い」もの、「りりしい」もの、「美しい」ものに惹かれる人間の性に留意して、たえず相対化し、惹かれそうになる自分に待ったをかけると。
 そして、権力機構の中枢は、意外に、美意識をくすぐる、いき、スマートな性質を持っていたりするとも。
      (「子どもの本の現在」現在を見すえて―上野瞭論より 清水真砂子著)

 私も、美意識にしばられ過ぎている女性達の例にもれず、美形を観賞することにはやぶさかでないのだが、「美しいものが善や真実と結びつく」という思い込みからは自由でいたいと思う。もちろん、「みにくいものが善である」という思い込みもまた真実ではないのだが。

 さて、本題に入りたいと思いますが、最近また、思春期の男女間の痛ましい事件のニュースが報道されましたが、こういう事件が報道されると、現在男の子を育てている親としては、男の子がまっとうに育つことの困難さや、男の子に対する否定的な見方や彼らの置かれている状況の難しさを思ったりするのですが、ここでは、少し話しを異性間のトラブルにしぼって話してみたいと思う。ここでも、(これもまた以前にこのブログで紹介しましたが)少年の特徴をわかりやすく解説してくれる著書「男の子って、どうしてこうなの?」(スティーヴ・ビダルフ著)から引用したいと思う。
 ところで、現在参観日とかで学校へ行って気付くことは、(特に小学校高学年で顕著なのですが)一般的にやる気があって成績がよく元気なのは女の子で、男の子は―積極的な子は粗野で攻撃的な方法の自己表現に走るのでアナーキズム化し、消極的な子は自分をうまく表現できないために、とても自信がなくやる気もなさそうで逃避的な様子で精細がない―といった二極化の様相を示しており、どちらにしても、この時期の男の子は女の子に比べてやっかいもの的で否定的なイメージで捉えられているのではないだろうか。そしてそういうイメージに拍車をかけているのが最近の少年事件で、それらによってまた少年に対する否定的なイメージが社会的に形成されている。どちらのタイプにしても、この時期の少年達は劣等感を抱きやすい条件が揃っている。そして、そのことに対する充分な周囲の理解と援助が無い場合、その劣等感は、容易に周囲(女の子)に対する攻撃的言動となって現われる。多くの少年事件は、少年たちのこの心理で説明できるものだと思う。そしてそれに拍車をかけているのが、少女達の未熟な皮肉っぽさで、必要以上に辛らつで残酷な彼女達の言動によって、少年たちは更に傷つき怒りをため込むようになる。

 実際には、少年たちの知らない少女たちもまた、しばしば自信のなさや居心地の悪さを感じている。彼女たちも少年たちと話し、愛情を分かちあいたいと思っているのだ。もし少年たちがもう少し社交術に長けているか、大胆であれば、男の子と女の子のあいだに、もっと肯定的な関係が生まれるだろう。ところが、少女たちはおたがいにささやきあい、少年たちをあざけっている。少年たちは少女たちを困らせ、おとなしい子たちは少し離れたところに立ったまま、くよくよ考えてばかりいる。
 「陰湿な」心の性質(「もし少女と対等につきあえないのなら、彼女たちを操るしかない」という心持)がしばしば芽生えるのはこの段階においてである。ヌード雑誌やソフト・ポルノのようなミュージック・ビデオによっては救われない。「見て、でもさわっちゃだめ」というメッセージは規模の大きないじめにすぎない。それは強い性的な充電をひきおこし、発散されないままに心のなかで怒りに変わっていく。現実の少女と話すチャンスがあまり持てないと、少年たちは女性を操作したり支配したりすることを夢想しやすくなる。彼らの女性にたいする態度や、人間としての女性とつきあう能力は劣化するいっぽうだ。
                  (「男の子って、どうしてこうなの?」170頁~171頁より)

 わが子の経験で言えば、それは、下の子がまだ小学校の低学年の頃のことなのですが、ある女の子に「おはよう」とあいさつしたら、その女の子は、いっしょにいた女の子とひそひそとささやき合っただけで(何と言ったかは知りませんがたぶん息子の事を半分ばかにしたような言動だったと思います)あいさつはなかったようです。それを聞いて、私は「(彼女の)その態度はおかしいね」と彼に言いましたが、彼にとっては、「自分は女の子には相手にされないのだ」というトラウマのような経験だったかもしれないと思います。こういう経験が積もり積もっていくと、傷つきやすい子のなかには、女の子に対する憎しみの感情をため込んで、ニュースで報道されるような残酷な行動に走ってしまうという不幸な事件が起こってしまうのではないでしょうか。
 そういう痛ましい事件を起こさないためにも、社会や女の子の男の子に対する理解や助言が求められているのではないでしょうか。そしてそれは、今の多くのTVメディアなどには見いだされないものだと思います。
 どうか、少年たちに理解とよりよい助言を。

 最悪なのは思春期の子どもたちを放っておくことである。(同書より)

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「魔術師のおい」読了(追記あり・ナルニア関連記事の紹介あり)ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2006-04-15 にgooブログに掲載したものの再投稿です。

黄金の門より入れ、さなくばはいることなかれ。
わが木の実はひとのためにとれ、さなくばひかえよ。
木の実をぬすむもの、つい地をこえるものは、
心の欲はみたすとも、つきぬ絶望も見出さん。
    
     「ナルニア国ものがたり6/魔術師のおい」(C・Sルイス作 瀬田貞二訳)より

 「ナルニア」の6巻目「魔術師のおい」を読了した。上に引用したのは、この物語の主人公の子どもたちディゴリーとポリーがアスランに命ぜられて、リンゴをとりに行った、とおい緑の谷間にある果樹園の門のとびらに書かれていた文句です。この巻では、ナルニアがアスランによって、どのようにしてつくられたか、またそのできたばかりのナルニアに子どもたちのせいで悪がまぎれこんでしまう様子が語られています。ディゴリーとポリーはそのつぐないのためにリンゴをとりに行くことになるのです。また、「1/ライオンと魔女」に出て来る”衣装だんす”の秘密や、ルーシィが初めてナルニアに行った時に見つけたあの”外灯”のなりたちも語られていますので、興味のある方は読んでみてください。
 
 映画「ナルニア国ものがたり ライオンと魔女」の感想をいくつか読みましたが、何か本質と関係ない(美形が出てこないとか、「指輪物語」と比べて物足りないとかの)ピントのずれたものが多かったです。皆、何を観てるんだかねえ。極端に”美”にこだわることについてはいずれまた書きたい(前記事に書いた女性の主に外見に関する完全主義とも関連していると思うので良かったら見てください)と思ってますが、この「ナルニア」の中では、悪が美の顔を持っていることが多いということだけは言っておきます。
 それと「指輪物語」と比べて物足りない、お子様向けだという意見ですが、よい児童文学は大人が読んでも読み応えがあります。エドマンドがターキッシュ・デライトというお菓子を食べて悪に引き込まれるところの表現などは本当にうまいと思います。映画が物足りなかったひとは是非原作を読んでほしいですね。原作を読んでも物足りないと思ったひとは、暴力あふれるメディアに慣らされて、強い刺激やショッキングな描写でしか満足できない自分の感性の鈍化を疑ってみてください。


 私は人間をとりまいているさまざまの固定観念、限界、束縛などを解き放とうとするときに生じる摩擦音のようなものとして、ファンタジーを考えてみたい。
       「子どもの本の現在」清水真砂子著(62頁)より

追記:ローリング・ストーンズの来日ツアーも終わったのかな?何かでインタヴューをやっていたのを見た記憶があるが、今さら、「アーイキャーンゲッノォーサァーティースファークショオーン」なんて聞く気もないが、今回ではなくて、ちょっと以前にニュース23で草野さんがインタビューしていた時のキースのインタビューはすごかった。例によって酔っ払っていたと思うが(いつもしている髑髏の指輪の意味についても説明していたと思う)、「若者に何かメッセージを」と言われてカメラに向かって言ったひと言 「生きのびろ!」 は、言ったひとがキースだけに強烈なインパクトがあった。
 「”どうやったら生きのびられるか”ということを子どもたちに伝えるのが子どもの本のいのちである」と上述の清水真砂子さんが「幸福の書き方」という著書で言っておられますが(彼女は、「今時、幸福なんて、口にするのも恥ずかしい」と前置きされて語られていることは断っておきますが)、私も、それを知りたくて子どもの本を読んでいます。

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「千と千尋」を見返してみたー過去記事の再掲載


↓※この記事は2006-05-05にgooブログに掲載したものの再投稿です。

  前記事を書いた後で、自分が印象に残っているシーンを確認したくて映画「千と千尋の神隠し」を見返してみた。

 まず、千尋がハクに言われて、釜爺に会いに行くために、ボイラー室に通じる長い階段の上に立って下を見降ろして逡巡しているシーン。子どもの未知の世界へ一歩を踏み出すことへの不安な気持ち、たいへんさが、あの長い階段によってよく表現されていたと思う。

 次に、千尋を”偉い”と思ったところをふたつあげておきたいと思う。
 まず、”オクサレさま(実は川の神様)”を”大湯”へ案内して、リンに言われて、番台へ薬湯の札を取りに行ったあと、カオナシがさらにどっさりの札を千尋に差し出した時の千尋、

 「そんなにいらない。」
 
 「だめよ!ひとつでいいの。」

  と言って、余分にくれようとするカオナシを、たしなめながら毅然と断ったところ。これは、大人だといらないとわかっていても、面倒くさいからもらっておこうか、などと言ってしまいそう。

 そして、もうひとつ、みんなが金を欲しがってカオナシにむらがっている時、ひとり千尋だけが、彼女に金をさしだすカオナシに、「 いらない、ほしくない ! 」と言うところ。このふたつの場面は、千尋が持っている本能的な賢さ、聡明さを感じさせる。そして、両親が”神様の食べ物”を無頓着に食べて豚になってしまう場面でも、千尋はひとり直感的にあたりの異変に気づいて、食べ物に手をつけようとしない、という場面も、そういう彼女(子ども)の持つ聡明さ(直感の鋭さ)を感じさせた。そんな彼女の態度は、豚になった両親(大人たち)の鈍感さと好対照を見せていた。

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ハリーと千尋~前思春期の子どもたちー過去記事の再掲載

↓※この記事は2006-05-01にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 以前に「ハリーと千尋世代の子どもたち」(山中康裕著/朝日出版社)という”前思春期世代”の子どもたちを、「ハリー・ポッターと賢者の石」と「千と千尋の神隠し」というこの世代の子どもたちが主人公の、映画(原作)を引用しながら解説した本を興味深く読んだ。(著者の山中氏は京都大学教授)
 千尋が十歳、ハリーが十一歳という設定―この一歳の差は少女のほうが発育が少し早いからで、少年の十一歳と少女の十歳はほとんど同じ時期―思春期より前の前思春期という年代なのだそうです。
 そして、人間の発育史の中で著者が最も注目していた時期が、このふたつの映画に描かれている前思春期という時期だったのだそうです。そして、臨床医でもある著者が臨床の現場で出会ったちょうどその年齢の少年少女たちのことを、「哲学的、宗教的、実存的などという、そんなような形容詞を使ってしか表現できないくらい深い世界」「人間が到達しうる最高点に通底してしまう」「あるいはてっぺんに触れてしまう」、と表現しています。
 思春期、あるいは青年期というのは、人間が性の発達を受け入れて、子どもを産み、育て、動物としての機能を働かせる時期のための準備期間であり、「性もあり、精神もあり、悪もあり、善もありという形で対極する全部を治めた人間になるため」にある。そしてそのために、その時期には、「その他すべての精神機構が擾乱する」のだと。
 そして、前思春期のというのは、それを通る前のとても”純粋”な時期で、”清らか”ではあるが、「ある意味では透徹した冷たさとか、透徹した怖さがあり」、この時期のそのような性質に起因すると見られる(ここでは挙げませんが有名な)少年事件もあるのだそうです。

 高速道路を200キロでぶっ飛ばしている状態のイメージ―前思春期(同書54頁より)

 と表現されるように、ある意味でとても危険な時期でもある。だから”向こう側に行ってしまって帰ってこられなくならないための歯止め”が必要になる。それは、それ以前に「守り」があったかどうかなのだそうで、この「守りがある」とはどういうことかというと、それは、「小さいころの両親の守り」であったり、「社会的な守りがしっかり内化している」ことなどを意味しているのだそうですが、「結局、簡単に他者が侵入しなくて、しっかりと自分を持っているという意味」で、それに対して「守りが薄い」とどうなるかというと、「幽霊なり、暗闇なり、恐怖のイメージなり、不可思議なものの侵入を受けて、不安で不安でしょうがなく」なるのだそうです。(「守りが薄い」状態というのはある世代以降のひとにはかなり多く見かける特徴かもしれない。)
 では、そのような危機と隣り合わせている子どもたちとどう係わっていけばよいか?という問いに著者は、「子どもが目を光らせたものこそを大事にして」ちょっと引いて「見守る」ことのたいせつさをあげています。「見ていないから」子どもたちの危機にも気付かないんだと。本当に「見守る」ということはとても大変なことなのだと。

 一日のうちにわずか三十分でもいいから子どものほうに主体を置いた時間が持てるかどうかが問われているのです。(同書69頁より)

 前思春期とは、女の子は十歳から十二歳まで、男の子だと十一歳から十三歳までの一年か二年のほんの一瞬なのだけれど、「人間が最も輝く時期」でもあるので、「その時の子どもの目の輝きを、一生保てるようにしたら、生き生きとしたすばらしい社会ができる」のだとも述べられています。

 (私も、著者が出会ったこの時期の少年少女たちのような感受性が豊かな子どもではなかったのですが、この時代のことを思い出しても、「私の黄金時代だったなあ」と思ったりします。この時代の自分が一番輝いて生き生きしていたような気がしています。そのあとに来た思春期がかなり苦しい時期だったということもあると思いますが。)

 「千と千尋」に出て来る”ハク”という美少年について、ハクが何故”神様”という位置を取っているかについて、著者は、「それは恋以前だからなんです。すばらしい象徴的な男性として表現されるもので、生身の恋の対象としての男性じゃない」と説明されています。そして、千尋があの”異界”で気づいたハクへの愛は、「まだ恋愛対象としての愛じゃないのだけれど、ハクという、人間そのものへの愛と、自然そのものへの愛、ごく自然な愛情であって、大きな意味の「愛」」だと。千尋は、大きな「愛」に気づくとともに、「生きてる」ことのすばらしさに気づき、「生きて働くことのすばらしさ」に気づいて、こちらの世界に帰ってきたのだと。(千尋のハクへの愛は、ピアスの「トムは真夜中の庭で」の、トムがハティに抱いた愛に似ていると思いました。)
 だから、多くの作家たちが、異性への愛に移行する前の、こういう純粋で大きな「愛」を描くのに、この前思春期という時期を選んでいるのでしょう。
 そして、このふたつの作品とも、「全ての人が持っている内界に光を当てて、内界ときちっと向き合うと、あなたももういっぺん現実世界で生き直す力を見いだすことができますよ、と語っている」と。

 ”十歳”を描くことは即、人生を描くこと、そういえるのではないか。(「子どもの本のまなざし」清水真砂子著より)


 なお、この本(「ハリーと千尋世代の子どもたち」)では、「カオナシ」のこともくわしく語られていますし、”内界”と触れる他の方法として、内界に一番近いものとしての自然と触れ合うことの大切さなどが語られていますので、興味のあるかたは、読んでみてください。

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NEWS23のナベツネインタビューつづきほかー過去記事の再掲載


↓※この記事は2006-01-27にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 前回も、ちょこっと書いたNEWS23のナベツネインタビューの二回目から、氏の発言を少し紹介しようと思う。(1/24放送)

 「総理大臣が非常に無定見な歴史認識を持っている」

 「東条はヒットラーと同じ(体制を作ったのは近衛だが)」

 「靖国反対=左翼という考え方は間違い」

 「小泉総理は歴史認識を説いて言う事を聞くような人ではない(以前、氏の忠告にも係わらず8月13日に参拝したことについての感想)」

 「(首相の靖国参拝によって)世界中から日本が孤立することはバカげている」

 「国立追悼施設の建設を急げ」(福田、山崎、加藤氏などの名前を挙げて)

 「危機のときは、いっしょにならないといけない(右とか左とか言っている場合ではない)」
 
 その日の「多事争論」で、筑紫氏は、今の日本の状況を、

 「感情的ナショナリズムを政治が主動している」

 と述べられていました。

 追記:1/26付けの天木直人氏のホームページ、メディアを創るの「中国から眺めた日本外交」で天木氏は、「今中国は間違いなく世界の政治、経済の中心にあるようだ。」そして、国会での首相の靖国参拝問題についての発言の稚拙さを指摘して、「日本の首相一人が国内向けの発言ばかりを繰り返し、一人満足している。日本は世界から急速に取り残されつつあると思わずにはいられなかった。寂しい限りである。」と結んでいます。渡辺氏と小泉首相と、どちらの言っていることが正論であるかは明らかですし、現マスコミが、最近のいくつかの失態にも係わらず、小泉政権に対して甘いのは何故なんでしょうね、と思うこの頃。BSE問題ひとつとってもアメリカべったりの政策の危険性は明らかだというのに。

さらに追記:若い人を中心に(某有名女性占い師を筆頭に)空前の占いブームですが、最近起きたあの奇怪な一夫多妻事件は、占いを妄信することの愚かさ危険性がグロテスクな形で露呈した事件ではなかったでしょうか。私たちはTV(評論家、占い師、似非カリスマたち)を通して集団催眠にかけられているのではないと断言できるでしょうか。 


 ついでに、昨日(1/26)の同番組の「シリーズ 変 ホリエ的を問う」での立花隆氏の言葉を少しだけ紹介しておきます。

 「国家の機能には、異常なことが起きたらストップをかける機能があるものだが、それが機能してなかった」
 
 「検察は毎日、ちょこっとリークする」

 「本当のことは裁判にならないとわからない」

 「安易に検察の情報操作を信じるのは問題である」 

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パペットアニメ 「 ミトン 」ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2006-01-13にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 ずっと以前に、教育TVで放送されて話題になっていたのを見逃してから、ずっと観たいと思っていたロシアのパペットアニメ「 ミトン 」>(ロマン・カチャーノフ監督)のDVDをツタヤで借りてきて、やっと観ることができた。時々、訪問している絵本紹介のブログでも以前紹介されていて、ずっと気になっていましたが、やっと観ることができました。

 DVDには、表題作の「ミトン」の他に、「ママ」、「レター」の三作が収録されていますが、一作がそれぞれ10分程度の長さで、三作全部観ても30分です。それぞれをざっと紹介すると(どれもシンプルなストーリーなのでネタバレしてもかまわないと思うのですが、以下注意してください)、「ミトン」は、犬を飼うことを母親に反対された少女が、赤い手袋(ミトン)を小犬に見立てて遊んでいると、ミトンが毛糸でできた赤いかわいい小犬になって・・、というお話。「ママ」は、坊やがうたた寝をしている間に、買い物に出かけた若いママの留守中に、男の子が遭遇する、(引き起こす)様々な危険が描かれます。そして「レター」は、仕事で不在の父親の留守を守る親子(母親と息子)の、夫の手紙を待ちわびて沈んでいる母親への息子の優しい気持ちが、さりげないファンタジィーによって描かれています。
 表題作の「ミトン」については、多くの方が書かれているので、私は「ママ」という作品について書いてみたいと思います。この作品には、”ほんとうに身につまされました”。観ながら、何度も「危ないっ!」と叫んだことか。留守中に強盗まで入って、強盗が残していったピストルで坊やがボールを撃ったり、お父さんの髭剃り用のカミソリで髭を剃ろうとしたりとかの、子どもに起こるありとあらゆる危ないことが描かれるのですが、ママがやっと帰宅してみると、坊やはもとのとおりソファーで寝ていて、ほっと安堵したママの頬には、ぽろっと一粒の涙が・・、果たしてママの留守中の出来事は、現実に起こったことなのか、それとも、子どもを心配するママの想像なのかはわかりませんが、ソファーの傍らには、粉々になったボールがありますので、現実だったと解釈したほうがいいのかもしれませんが、そんなことは、このお話を観るのにはどうでもよいことに思われます。私たちは、このお話から、子どもの無事とその成長を祈るように見守る親の気持ちを読みとって、それに共感すればいいだけなのだと思います。

 「ミトン」は67年の作品で、「レター」が70年、「ママ」が72年の作品ですが、「ミトン」よりあとに作られた二作には、社会の状況が影を落としているように思われます。「レター」は父親が不在の家庭ですし、「ママ」には当時のロシア(旧ソ連)の買い物事情(によって、ママは買い物にすごく手間取ります)が描かれています。「ミトン」と比べて、当時の社会の状況の影響を受けた哀愁が、あとの作品からは感じられました。

 これらの作品は、全部観ても30分なので、忙しいお母さん方にもおすすめです。別に、奇抜な表現や、派手な映像や、気の効いた皮肉がなくても、私たちは感動できるのだということに気付けると思うので大人にもぜひ観てもらいたい作品です。

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つれづれ日記(最近観た映画のことなどを少しだけ)ー過去記事の再掲載

 ↓※この記事は2006-04-06にgooブログに掲載したものの再投稿です。  

 最近、子どもたちに「お母さんの又の名はウィリー・ウォンカと言います」と言って、デップ=ウォンカ氏の口調(私が観たのは吹き替え版なので)を真似したりして遊んだりしている私です。
 ティム・バートン&ジョニー・デップコンビによる映画「チャーりーとチョコレート工場」(※拙記事参照)は、”私のツボにはまってしまいました。”ティム・バートンの悪のり風の作風と芸達者なデップの演技が原作にぴったりマッチして(好き嫌いはあると思いますが)おすすめの映画です。

 先日、映画「ナルニア国物語 第1章ライオンと魔女」を観てきました。「ナルニア」については、今、全7巻をぼちぼち読んでいるところで(今4の「銀のいす」まで読んだところです)それから感想を、と思っているのですが、なかなか読めないので、少しだけ映画の感想を書いておきます。映画もなかなかよい出来だったと思います。ふつう原作を読んでから観るとがっかりすることが多いのですが、そんなこともなく楽しめました。ほぼ原作に忠実に映画化されているのと、ふんだんにお金がかけられた贅沢な映像を楽しめました。しっかりした原作だから映画もまずまずよくできたと言うことかとも思いました。お金がかけられたよさということもあると思います。主役の4人の子どもたちもそれぞれの特徴がよく捉えられたキャスティングでよかったと思います。
 
 ところで、我が家の長男は、白い魔女の女優さん(ティルダ・スウィントン)のことを「美しかった」と言っていましたが、母は「美と善は同居しないから気をつけようね」などとまあ当たり前の意見を言っていました。彼は、「チャーりーとチョコレート工場」に出て来る”わがままお嬢様”、ベルーカ・ソルトのことを「性格は悪いが顔は美人」などとも言っていたので、「あんたねえー、実生活でもそういう人いたでしょ。(ちょっとは学習したら)」と同じようなことを繰り返した母でした。(

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つれづれ日記(完全主義の滑稽さ)-過去記事の再掲載

↓※この記事は2006-04-11 にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 学校の新年度が始まって、(我が家にはピカピカの中学一年生もいるので)入学式やら諸々の書類提出やら家庭訪問やらで、4月もばたばたとあわただしく気忙しく過ぎていきます。

 そんななかで、最近感じていることを少しだけ書いてみたいと思ってます。私のブログを読んで下さってるかたはご存知だと思うのですが、我が家の子どもは二人とも男の子なので、母親にはわからないその習性にうんざりしながら、可愛く思ったりして過ごしているわけですが、何が言いたいかと言うと、彼らも発展途上中ではありますが、れっきとした一個の他者ですから、(彼らのアホな行動に”そんなばかな”と思いつつ)強権発動は極力控えて付き合っているわけです。(この点を本人たちに聞いたら大いに異論はあると思いますが。)で、日ごろ私が何となく感じているのは、子どもとの関わりにおいて、子どもが自分にとって異性であってよかったかなという点で、私から見て、それはちょっとと思うような行動があっても、彼らが男の子であるということから来るワンクッションが、私の反応にあると思うのです。ぶっちゃけて言うと”男の子だから仕方ないか・・”と諦めつつ、ダマシダマシの子育てをしている感じがあって、時々”もうすぐ堪忍袋の緒が切れる!”とか”仏の顔も三度まで”と宣言してぷっつんしていますが、女の子がいないので、この点、同性の子どもの場合だとどうなのかと想像するだけなのですが、きっと、向こうが母親に自己同一化してきたりすると、親子共々、色んな反応とかが完全主義になってしまうようなことがあると思うのです。私は、昔から、女の子のそういう極端さ、極端に清潔さを求めるとか、極端に美を求めるとか、痩せてなければならないとかなどの、極端に「こうであらねばならない」と考えて、かた苦しくなってしまうという点が苦手で、色んな点である程度アバウトな男の子を見ているとほっとしたりするのですが、最近は、そんな男の子たちも、母親たちの完全主義の影響を受けて自らをかた苦しくしている傾向もあると思うのですがどうでしょうか。
 極端な完全主義の滑稽さは、あの有名なゴージャス姉妹に感じる滑稽感が最もわかりやすい例ではないでしょうか。(彼女達は大真面目にやっているのだろうが、あの巨大すぎる胸ひとつとっても”ムネハオオキクナケレバナラナイ”という美意識に対する完全主義的な帰結として見たら大笑いだ。)まあ、あれほど分かりやすい例でなくても、周囲の空気を固苦しくさせている(そして客観的に見れば滑稽な)女性たちの完全主義には気をつけようと、自省の気持ちを込めて思います。
 
 「なにごともほどほどでいいではないですか」、と。

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NHKスペシャル「高倉健が出会った中国」を見て(驕る必要もないし、卑屈になる必要もない)ー過去記事の再掲載

 ↓※この記事は2005-11-21にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 高倉健さん出演のNHKスペシャル「高倉健が出会った中国」(11月19日 PM9:00)を見た。
 
 番組の冒頭で、健さんの「・・・毎日の撮影の生活の中で、あまりにも感動が多いので時々バランスが取れなくなる」とのコメントが紹介されているように、チャン・イーモウ監督が切望して実現した映画「単騎、千里を走る。」の撮影の様子や映画のストーリーの紹介をしながら、健さんと映画に出演した中国の人々との撮影を通しての心のふれあいが紹介されていました。(プロの役者は健さんのみで、中国人の出演者はすべて現地の普通の人々です。)番組では主に、健さんのガイド役の(実生活でも現地で観光ガイドをしている)中国人青年チュウ・リン(役名も同じ)との交流や、仮面劇の役者役のリ・カミン(役名も同じ)の息子を思って泣く演技に心を打たれる健さんの様子などが、彼(リ・カミン)が実生活で抱えている問題などを交えながら紹介されていました。
 チャン・イーモウ監督は、三国志の逸話をベースにしたというこの映画で、「まごころ、思いやり、絆の大切さを訴えたい」と説明していました。中国経済の急速な発展によって失われていく、まごころや思いやりの大切さを映画を見た人々の心の中に永遠に残したいと。

 この、番組を見て改めて感じたのは、中国での健さんの人気と知名度の高さです。健さんのことを「私のアイドル」というイーモウ監督ばかりでなく、撮影に使われた山岳地帯の石鼓村という村のみやげもの屋の女性が、健さんの顔を見て、「あれっ どこかでお会いしたような・・」と言って健さんの映画を子どもの時に見たと言って喜んだり、ダムの底に沈んでしまうというその村の村長が「この村がダムに沈んでも、数百年後にこの映画を見たひとはきっと気づいてくれるはずです。石鼓村はそこにたしかにあったのだ。そして、あの高倉健さんも石鼓村に来たのだと思い出してほしいのです」と彼の名前を挙げて自分達の村のことを讃えたのです。最初の方に出てくる雲南省の古都麗江の中年の夫婦が、健さんのことを「私たちの世代のアイドル」と言って、健さんの映画が「当時の中国人に強烈な印象を与えた」と語っていたことや、イーモウ監督が「高倉健は、かっこいいという言葉の代名詞だった」とも語っているのを見ると、健さん演じる主人公の何がそれほどまでに中国のひとびとの心を揺さぶったのかに興味を覚えます。それは、高倉健さん演じる主人公によって体現されている日本的な感性の何かに彼らが共鳴して感動を覚えているからこその反応だと思います。
 番組中で私が印象的だった映画撮影中のひとつのエピソードに、イーモウ監督や映画のスタッフたちが、「(中国人ではない)健さん演じる日本人の主人公ならどういった行動を取るか」ということについて熱心にミーティングをしている場面があります。最終的に日本人らしい行動や考え方を現すのに最もいいだろうという意見が採用されて、その場面が新しく撮影されることになりました。

 そして番組の最後では、ガイド役の青年の「今後大切なのは、お互いの長所を認め合う事です。自分達の短所を反省することも必要だと思う。そうすれば、中国と日本はもっと近づけるのではないかと信じている」という言葉が紹介されています。

 イーモウ監督は前作「ラヴァーズ」では金城武を起用しています。この映画が成功しているかどうかは別にして、私がこの映画で感じたのは、彼は金城武が体現している純粋に中国的でも台湾的でも日本的でもない不思議な魅力を使って映画を取りたかったという感じを受けました。そして監督の日本的なものへの関心を感じていました。

 そして、先に紹介したチュウ・リンの冷静で落ち着いたコメントは、人間と人間の生のふれあいの中から生まれた誠実で知的なコメントだと思いました。そして、それを引き出したのは、健さんの優しさと誠実さにあふれた慎み深い人間性、現代の私たちからは失われつつある日本人のよさだと思います。中国での健さんの愛され方を見ていると、彼らは健さん演じる主人公に、人間の理想像のひとつの型を見ているのではないかとさえ思われます。

 
 ところで、この映画の撮影が行われた、雲南省の古都麗江の瓦屋根の連なる美しい町並みや、石鼓村の古い町並みの風情のある趣などを映した映像はとても美しく、その点でも映画への興味をそそられました。ずっと以前に見た中国映画「芙蓉鎮」(文革に翻弄される女主人公を描いた傑作)の中で、主人公と反革命分子のレッテルを貼られた秦という男が、罰として課せられている早朝の町の清掃をしている場面の、朝靄に煙る町の石畳の坂道の映像がとても美しかったのを思い出しました。(映画を見たことのない方のために少しだけ付け加えると、この映画を紹介するのに一番有名なセリフは、秦が主人公に言う「生きぬけ。ブタになっても生きぬけ。生きぬけ。牛馬になっても生きぬけ」です。文革の熾烈さを感じさせる言葉でしたし、文革の現実を知るには恰好の教材となるかもしれないような映画だと思います。)
 
 
 話を元に戻しますが、この番組で紹介された中国のひとびとと健さんの交流を見ていると、「驕る必要もないし、卑屈になる必要もない」という感想が浮かびました。

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「今のマスコミがあかんのや」 後藤田正晴-過去記事の再掲載

↓※この記事は2005-09-22にgooブログに掲載したものの再投稿です。

 歴代の自民党内閣で官房長官や副総理などの要職を歴任した、元自民党の大物議員後藤田正晴氏が19日に肺炎で亡くなられたそうだ。
 
 自民党の中枢部にいた氏の全てを知っているわけではないが、その発言に耳を傾けたいと思わせる数少ない政治家だった。その人の思考、哲学は、声の出し方やしゃべり方にも表れると思うが、その点からも、落ち着いた諭すようなしゃべり方が本人の誠実さ、聡明さを感じさせた。今の日本の政治家は、残念ながら、しゃべればしゃべるほど、胡散臭く、誠実でないと感じる人が多いのは、志、哲学の点で氏に遠く及ばない人ばかりなのであろうという気がする。
 91歳と御高齢であったので仕方の無いことだとは思うが、衆議院での自民党の大勝、民主党の党首に改憲派の前原氏就任という、何か浮ついて一方的な改憲論議の流れの中での、後藤田氏の死去がとても残念でなりません。「小泉君は戦争を知らない。まったく知識がない」と自衛隊のイラク派遣を強行した小泉首相を批判した氏の正論を、自分達は現実主義者だと思っている彼らは全く無視しています。そのことは、氏にとって日本の戦後60年の平和外交の努力を振り出しに戻す動きとして到底容認できない腹立たしいものだったと思います。もし、一対一の討論であれば、今いる改憲論者の誰一人として、彼の言葉に反論できる者はいないと思う。そして、そういう人が自民党の中枢部にいたということがとても意味のあることだったと思う。

 今年の6月8日のTBSのニュース23での後藤田氏の小泉外交批判の発言をまとめたものを、以前、私のBBSの方に掲載したのですが、その文章を下記にコピーして貼り付けておきます。

  6月8日のTBSの「ニュース23」で元自民党の大物議員、後藤田正晴氏が小泉総理の外交を、靖国問題を取り上げて、ばっさり批判していた。氏は、「外交には戦略的判断が必要であるが、今の日本の外交は行き当たりばったりである」とし、先の、靖国参拝問題についての、河野衆議院議員の小泉総理への申し入れについての阿倍氏の批判、(「外交権は行政の長にある云々・・」)は、「阿倍氏の批判は議会制民主主義の観点から見てもおかしい」とし、また、町村外務大臣の同問題に対する発言も、「言葉遣いや言葉が不適格で思慮に欠ける、もっと言動に注意するべき」と苦言を呈していた。そして、「昭和53年にA級戦犯を祀った靖国神社に参拝するのはおかしい」、「私としては分祀をしてもらいたい」、「小泉総理は、総裁選挙時の公約と言う背景があるのだろうが、個人の信条と内閣総理大臣の言動は区別してもらわないと困る」、彼らの言動は「日本は東京裁判を受け入れることでサンフランシスコ平和条約を締結したという歴史を忘れているが、そのことを忘れてはいけない」とし、最近の日本人の傾向として、「情緒的反応ばかりで、何かことが起きる→マスコミが騒ぐ→それに対して付和雷同し、”ちょっと待て”という感じが無くなっている」と述べられていた。こういう「先輩の正論」はきちんと聞くべきだと思うのですがね。

 ご冥福をお祈りします。


追記:それにしても、昨日の国会初日の各テレビ局のニュースはどれもこれも本当に「何ですか?あれは?」というばかばかしいものばかりだった。各局とも相変わらずお決まりのように話題の新人議員を追っかけていて、特に自民党最年少議員の杉村某氏をまるでスターのように延々と取り上げていたのには全く辟易してあきれた。最も、彼が注目されることは自民党にしたら痛し痒しだと思う。かなりの党のイメージダウンにつながりかねないので。まあ、他の新人議員の方々の顔ぶれを見て、国民の改革への民意が反映されたと喜んだ人はさすがにあまりいないだろうから、今回の選挙のばかばかしさが露呈したという意味ではよかったのかもしれないが。

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上を向いて歩こう~日本人の希望の歌 その真実~ ( NHK総合 )ー過去記事の再掲載

↓※この記事は2011-07-19にgooブログに掲載したものの再投稿です。

NHK総合で、7月18日(月) 午後10:00から放送された「 上を向いて歩こう~日本人の希望の歌 その真実~ 」を観た。永六輔の詞と中村八大の曲の素晴らしさは言うまでもないが、今回、番組で紹介された坂本九の歌唱の映像を見て、その素晴らしさを改めて感じた。彼の人生とか人格とかの全てがにじみ出た声と歌。(あの独特の歌唱は中村八大の指示だったことも紹介されていた。)番組では、海外プロモーションのため、フランスのテレビ番組に出演した時の映像と歌唱が紹介されていたが、歌だけでなく、本人のかもし出す雰囲気も、フランスに対する礼節をわきまえたコメントともども好ましかった。明るく親しみやすいスター性。その彼が、永六輔の安保闘争の経験による、「涙がこぼれないように上をむいて歩こう」という「悲しみ」が込められた曲を歌う。(永六輔は12歳の少年の姿にインスピレーションを得て、この詞を書いたそうだ。)この曲が、当時の日本人の希望の歌であり、全米でも1位になったのはわかるわかるという、秀逸なドキュメンタリーでした。

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