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映画「バッテリー」のTV放送を観て

 映画「バッテリー」がTV放送されたのを観て感じたことを少しだけ書きます。

 映画の放送そのものは、カットされているシーンやエピソードがかなりあって、なんか細かなニュアンスが失われていて、がっかりしたのですが、やはり、NHKが制作、放送したドラマよりも映画のほうが数段いいです。それは、まず、主人公たちの野球が”本格的”だという点に尽きます。そして、あの年齢の少年のきらきらしたピュアさも映画のバッテリーのほうが、よく表現されていたと思う。

 それはさておき、「バッテリー」には、強力な母性=巧の母親が登場します。そして、その母との関係が巧の屈折の主な原因でもあるのですが、「バッテリー」にはその母性とのバランスを取るように、巧の祖父という、ゆったりと大きな父性が登場します。( 釜爺=ゲド=菅原文太。 )この祖父の飄々とした存在が、父親の弱い父性を補い、強力な母親との関係で切れそうになる巧のセイフティーネットとなっているのです。巧の母について、あの母親はなんだ、という感想をよく見かけますが、病弱な子どもを持つ母親がああなってしまうのは、私にはよくわかります。巧にとっては、それは母性の負の側面そのものなのですが、彼は、それにおしつぶされるほど柔な子ではないのですが、それでも内面に屈託を抱え込まざるを得ない。だからこそ、祖父の存在が重要なのです。

 ※参考記事

 映画「バッテリー」

 少年がいる (映画「バッテリー」より)

 映画「 バッテリー 」の母子関係から考えたこと、あるいは「空気を読め」について

 

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「 崖の上のポニョ 」~足りないのはなにか~

 ジブリで駿作で大ヒットということで、”天邪鬼”なわたしとしては、「まっ、別に書かなくても 」と思ったりもするのですが、「崖の上のポニョ」。「 ポーニョ ポーニョ ポニョ さかなの子 」という例の主題歌が頭の中でぐるぐる鳴っていたり、映画を観たあと、いろんな感想が浮かんではいたので、少しだけつれづれなるままに書いてみます。

 まず、最初に感じたのは、随分”母性的”な物語だなということで、それは2年前に公開された息子宮崎吾朗監督の「ゲド戦記」という、「ポニョ」に比べたら、世間的にいまひとつの評価だった作品、そして「父と子の物語」で、父性を感じさせた作品と比べても、「神経症と不安の時代に立ち向かう」「母と子の物語」と紹介されているように、「崖の上のポニョ」の”母性”は際立っている。そして、その逞しくて強力な母性に対して、父性の影が決定的に薄いのである。ポニョの父親の「フジモト」然り、宗介の父親の耕一然り。「フジモト」は、「アトム」の天馬博士のような神経質なルックスで表現されているし、宗介の父、耕一の、「船員で家にいない」という設定からして、この映画の父性の薄さを象徴しているではないか。最初、母のリサが、「耕一が帰ってくる」と言った時は、てっきり、宗介の兄のことか?と思ってしまった。(映画では、耕一は、結局、陸に上がりませんでした!)ポニョの父フジモトと母グランマンマーレも、ほとんどいっしょに暮らしているわけではないみたいだし、(彼女は母なる海=海なる母の象徴という偉大な存在らしいから仕方ないにしても)、映画の主要な登場人物で、途中ちょこっと出てくる手漕ぎボートの若い夫婦くらいしか、両親がそろって暮らしている夫婦は出て来ないのだ。「ひまわりの家」の老人たちも、女性ばかりだったし。宗介の5才という年齢は、まだまだ父親より母親との関わりが大きい年齢と言うことかもしれないが、でも母性と父性のバランスという点から考えて、この映画の”母性の過剰さ、強力さ”と、”父性の影の薄さ”は、やはり気になる。ポニョを過保護に閉じ込めようとするフジモトと言い、船上から自分の息子の賢さに感心する耕一と言い、父親というより、まるで”母の息子”のような彼ら。あれでいいのだろうか。リサと宗介の日常の描写は、保育園への送り迎えなど、子育てをしながら働いている女性の日常がよく描かれていると思う。だが、リサが、耕一が帰って来れないと知って、むくれて、夕食の支度を放り出して、外食にしようと言い出すところなど、可愛い反応なんですけど、仕事優先で、家庭を母子家庭化してきた、これまでの日本の家庭そのまんまだし、一方、子どもたちの面倒を見ているフジモトは、ポニョのことを閉じ込めて、自分の思い通りにしようとする、別の意味で問題のある父親に見える。
 それに比べて、監督によって理想化された母親達。リサとグランマンマーレ。それで幸せなら別にいいのかもとも思うけれど、帰って来ない父親への不満を、可愛く表現して見せて、まあまあいいじゃないかというのは、男性の責任回避のごまかしの表現にも思える。亭主元気でなんとかとか言うから、そのほうが幸せなのかもしれないけれど、それと対になったリサの理想化された描かれ方が気になる。可愛く描かれていたリサの不満が、ある日爆発したりしないのか、と理想的でない母親は考えてしまうのです。

 この映画を観て、一番に思い浮かべたのが、「ゲド戦記」で、あの映画は未だに世間的には失敗作ということになってしまっているみたいなのですが、あの映画は欠点はあったけれど、(それも原作ファンを敵に廻すという致命的な欠点でしたが)、残念と言うか惜しい映画で、その可能性をふくろ叩きのように全否定すると言うことは、日本の表現における”父性的なものの表現の萌芽”を摘み取ってしまった気がしているからだ。あの映画は原作ファンの怒りを買ってしまったので、仕方がない面もあると思うのですが。そして、息子の作品に対する答えが、母性賛歌のような、この作品だとしたら、・・・。
 私は、「神経症と不安の時代に立ち向かう」には、母性だけでなく、父性の力も必要だと思っているので、「もっと父性的な表現」をと思ってしまうのです。母性賛歌だけでは乗り切れないところに私たちは来てしまっていると思うし、不足しているのは父性だから。「母性賛歌、賛美」だけでは足りないと。

 ※関連記事

 映画「ゲド戦記」

 思いつくままに(映画「ゲド戦記」追記)

 THE ART OF TALES from EARTHSEA

 ゲドのいる入り江

 クロード・ロラン風の雲

 

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