« May 2008 | Main | August 2008 »

映画「西の魔女が死んだ」

 映画「西の魔女が死んだ」を観ました。中学生の主人公まいが、不登校になり、山の中で一人暮らしをしている「西の魔女」と呼ばれている英国人のお祖母ちゃんのもとにしばらく預けられることになります。(おばあちゃん役は、あのシャーリー・マクレーンの娘のサチ・パーカーさんです。)まいが「おばあちゃん大好き」と言うと、おばあちゃんは「I know」と答えます。だいすきなおばあちゃんのもとで、まいは「魔女修行」をすることになりますが、この物語の魔女は、別に箒に乗って飛んだりなどという特別なことをするわけではありません。夜は11時に寝て、朝は7時に起き、朝食をきちんと食べ、おばあちゃんに日常の細々とした仕事を教わる=生活するのです。その映画に映された、おばあちゃんとの日常のなんと素晴らしいこと!途中で、おばあちゃんに学校でのことを相談するシーンはありますが、まず、主人公は、そのおばあちゃんとの日常の生活=労働によって、癒されていくのです。たらいの中で足踏みして洗ったシーツをふたりで絞って、ラベンダーの上にぱっと広げて干すことの楽しそうなこと。ハーブを煮てつくる虫除けの薬。そして、おばあちゃんの作る料理のおいしそうなこと!おかあさんとまいが到着したした日にまいが畑から採って来たレタスで作ったサンドイッチ、裏山のワイルドベリーで作るジャム、そして、そのジャムをのせたトースト、お父さんが訪ねて来たときに出たキッシュ、「時々、夜急にお菓子を焼きたくなる」といって、おばあちゃんがまいの寝室まで持ってきたクッキー、郵便屋さんのバイクが故障したときに出された果実酒、いろいろなハーブティーなどなど。おばあちゃんは、まいにそれらの仕事を教えながら、まいのはなしを聞いてくれます。決して押し付けがましくなく。
 
 「女の子の付き合いって独特なの」

 「大変ですねえ」

 そして、日本の山の自然の豊かさ。おばあちゃんが「まいサンクチュアリ」と名付けた、山の中のまいのお気に入りの場所。そこでひとりで過ごす至福の時間。子どもにとって、そういう場所と時間がどれだけ大切か。そして、女性にとって、生きるとは、こういう日常の細々としたことをこなしながら生活することだということを改めて思い出させてくれる。女性は、そうやって昔から生きてきた、そしてこれからもそうやって生きていく。そこに女性の強さがあると思う。このおばあちゃんの境地までには至れなくてもである。

 おばあちゃんの訃報を聞いて、駆けつける車のなかで、母(娘)が「あのひとはほんとうの魔女だったの」とまいに言う、「魔女」とはそういう意味。

 映画では、生前のおばあちゃんとまいが、あることをめぐってわだかまりを抱えたまま別れて、和解できないままおばあちゃんが逝ってしまったことを、まいが悔やむシーンがありますが、それが感動のラストシーンに繋がりますので、是非映画でご覧になって下さい。

| | Comments (0) | TrackBack (2)

「 漱石の凄さ 」

 いまさらという感じもあるんですが、ドラマ「 鹿男あをによし 」の1話は、凄く面白かった。私にとって、ドラマ自体は尻すぼまりな感じになってしまったのですが、1話は面白かった。それは、どうしてだったのかを考えていたら、それは、1話は、漱石の「坊ちゃん」だったからだ、と思い当たり、やはり小説家、夏目漱石の偉大さを再認識した。でも、段々トーンダウンしてしまったのは、最大の危機に関する謎解き部分にいまひとつぴんとこなかったからだ。それなら本家坊ちゃんのような青年の成長物語の比重がもっと大きければもっとおもしろかったと思う。NHKあたりで、漱石原作のドラマとか、小説家や詩人の伝記ドラマとか昔はよく作られていて、それなりにおもしろかったけれど、またそういうのやってくれないかなと思う。

 私は、他人の理屈よりも自分の感覚を信じる。悪いけど。でも多くの人は、自分の好きなひと(あるいはテレビや新聞に出てるひとと言い換えてもいい)の言動であれば、無条件に信仰してしまう。自分で考えるのが面倒くさいから、「すきな人(テレビに出てる有名人)がこう言っていたからそれはそうなんです」というひとのなんと多いこと。いくら好きなひとの言葉でも変なものは変なのに。そこまで考えないか、と思わず思う。脳ミソがテレビだけでできているような・・。メディアリテラシーというか、そんな言葉を持ち出さなくても、ちょっと意識して他のメディアにも目を通して、テレビを見るとその変さ、そしてそれに出ているひとたちの言動の変さにはすぐに気付くはずなのに。 結局、大雑把な感想を言わせてもらえば、大人がいなくなってしまったと思う。もてはやされているのは子ども(思春期気分の大人も含む)ばかり。そして大人と呼ばれているひとたちも、(思春期の)子どもにばかり喝采を送っている。そんな世界。それはやっぱり異常なんですよ。思春期で止まったエセ大人にミスリードされた耳年増の子どもが増える。世の中なんてこんなもの、現実なんてこんなものと経験もしてないことを知ったつもりになる。それは、やはりとてもまずいことだと思う。

 昔も子どもむけのドラマはいっぱいあった。でも上質の大人向けのドラマもあった。それが、なんだかなぁ~。映画も自己満足っぽいものや、テレビ局の絡んだタレント頼りのものばかり。だから、それならっいっそ、漱石の小説をとか中也の伝記をとか思う。彼らの悩みは充分現代的だし、あの暗さを含んだ諧謔も、”いま”、ならもっと理解されるのではなどと思ったりする。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

映画 「ナルニア国物語第2章  カスピアン王子の角笛 」

 映画 「 ナルニア国物語/第2章 カスピアン王子の角笛 」を観た。(そのあとで、原作をもう一度、読みたくなったので岩波少年文庫の「ナルニア国ものがたり」全7巻を買って、「カスピアン王子のつのぶえ」を再読しました。
 原作と映画では、若干違う点がありますが、映画は、まずまずの出来だったと思います。というか一般には、映画版は第1章「ライオンと魔女」よりも好評みたいなのですが、私は、映画 「ライオンと魔女」もなかなかよかったと思うので、「角笛」のほうが特によくなったとは思わないのですが。というか、「ナルニア」全7巻のなかで、「角笛」は、第1章の新鮮さや第3章「朝びらき丸東の海へ」、第4章「銀のいす」の物語のおもしろさに比べると少し物足りない章とも言える。ペベンシー家のピーターとエドマンドとスーザンとルーシィの四人のきょうだいが、ふたたびナルニアを訪れる(呼ばれる)ことと、カスピアン王子の登場と、(彼は、次の3章でも活躍し、4章にも関連する)、彼が、変わり果てた現在のナルニアをよみがえらせるためにナルニアの新しい王になるまでの物語なので、彼の登場にも関わらず、1章の繰り返し(ピーターたちが白い魔女を倒して、ナルニアの王と女王になる)のような物語なので、3章や4章のような、主人公たちの、「わくわくして読み進める冒険物語」というわけではないのだ。カスピアンの生い立ちや現在の境遇や、彼が師と仰ぐコルネリウス博士より渡された「(スーザンの)魔法の角笛」を吹いて、再びナルニアに呼寄せられた、ピーターたちが、廃墟となったかっての城跡で、(こちらの世界では一年しか時間が経っていないのに)ナルニアでは数百年の時間が経っていることに気付くところや、彼らがカスピアン軍に合流するための道中で、今回もルーシィが最初にアスランに気付くが、他のものには彼が見えないために、信じてもらえないことなどが、また繰り返され、それはそれでとてもおもしろいのですが。映画は、1章が原作に忠実に描いて、一部での評判がよくなかったためか、カスピアン軍とミラース軍の戦闘場面が多くなっており、―そのためアスランの登場が原作よりも遅い―ナルニア軍に合流したピーターが、アスラン塚の陣地で敵を迎え撃とうというカスピアンに対して、こちらからミラースの城に攻め込む作戦を主張し、結局ピーターの作戦が実行されるのですが、圧倒的な勢力差に少なからぬ犠牲と損害を蒙り、退路を絶たれそうになって、ほうほうの体で退却するのですが、原作には、この闘いはありません。それにカスピアンとスーザンのちょっとしたロマンスも付け加えられていて、(ほんとうにちょっとしたもので、イケメンの王子のキャスティングを生かすためだったのか私には、このエピソードはいらないような感じでしたが。)この辺りは好みなのでしょうけど。

 「ナルニア国ものがたり」のおもしろさは、子どもたちがナルニアに「往って、還って来るものがたり」という点にある。彼らが、どのようにしてナルニアに往き―1話の「箪笥の向こう側にナルニアがひろがっている」というイメージの素晴らしさ!―どのようにして還って来るのか、(そのためには、自分たちに向こう側で課せられる役割ー今回はナルニア伝説の王と女王として、カスピアン王子が現在の王ミラースを倒して、ナルニアの真の王になるのを助ける―を充分に果たしてからでないと、こちら側に還れないのですが)、その仕かけのおもしろさにあります。そして、彼らが、決して特別ではないふつうの子どもたちだということが重要なのです。彼らがふつうの子どもたちだからこそ、私たちは、彼らと、彼らの活躍に感情移入できる。この主人公たちの設定と、「往きて還りしものがたり」という点は、ジブリの「千と千尋」なども同様です。そこにこそ、ファンタジーの醍醐味がある。そして、平凡な彼らが、ナルニアに往くと、ものすごく生き生きとして、力強くなり、こちら側では思いもよらないような冒険や活躍をすることになる。(千尋もそうでしたよね。)彼らは、ナルニアでは伝説の王と女王としてそして、こちら側に還ってきた彼らは、向こうでの冒険や経験によって往く前に比べると逞しく変化しているのです。そして、向こう側(ナルニア)に往けるのは、ある年齢までで、今回、ピーターとスーザンは、アスランから、ふたりは年をとりすぎたからもうこちら側(ナルニア)にはこられない、と告げられます。
 
 今回は、(前章でスーザンが、こちら側に還ってくる前にナルニアで落として無くしたのち、カスピアンの手に渡った、)「魔法の角笛」によって、四人が、ふたたびナルニアに呼び戻され、ナルニアでの長い時間の経過と、自分たちの治世時とは変わり果てたナルニアの現在に気付くところ、ピーターとミラースの一騎打ちの勝負がクライマックスでしょうか。(ピーターは、前回主張した作戦の失敗を償うように、一の王としてよく頑張りました。)
 
 物語の基本にキリスト教の世界観がありますが、その知識がなくても、「ナルニア」を理解することはできるし、物語を楽しむこともできます。そこが素晴らしい。そして、次映画化されるのはどの章なのか、カスピアンが活躍するのだとしらた3章「朝びらき丸東の海へ」ですが、この章は、さらにファンタジー色の強い冒険(航海)物語ですので、さらにおもしろい作品になると思います。

 ※過去の関連記事
  つれづれ日記(最近観た映画のことなどを少しだけ)

 「魔術師のおい」読了(追記あり・ナルニア関連記事の紹介あり)

 「ナルニア国ものがたり」読了

 「さいごの戦い」に感じた違和感

 

| | Comments (0) | TrackBack (1)

« May 2008 | Main | August 2008 »