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ピーター・オトゥールの「ヴィーナス」

 ピーター・オトゥール主演(アカデミー賞主演男優賞ノミネート)の映画「ヴィーナス」をDVDでやっと観ました。彼のファンとしては、動いている彼が見られただけで、映画の出来如何に関わらずOKなので、レヴューを書くのが難しいのですが・・・。

 脚本のクレイシは、谷崎潤一郎の「癇癪老人日記」に影響を受けてこの物語を構想したそうです。オープニング、海の映像のあと、同じ海を描いたと思われる油絵を見ながらコーヒーを飲む主人公、モーリス(ピーター)の、老人の孤独と哀愁の滲んだ顔。.(ぞくっとするほど今でも美しい!)場面が変わって、カフェで親友の老俳優仲間と薬の説明書を読みながら、次々と薬を飲むシーンの、ふたりのシニカルさとエスプリにあふれた会話が、薬と切り離せない老人の日常を表現しながらもイギリス的ユーモアにあふれていて、(この親友とのシーンが、若い娘(=ヴィーナス)とのシーンよりも好きだったくらい )よかった。

 インタビューで、オトゥールが、主人公は「好ましくないことに」、「友人の美しい姪の娘に惹かれ」、(主人公とその友人のことを、)「絶望的に病んでる2人の男 」と言っているように、主人公の職業が、年老いた俳優であることから、ピーターとこの物語の主人公を同一視したがるひとが多いと思うけれど、オトゥールは、この役を「演じている」のであって、彼はモーリスそのものではないのだ。
 さらに、インタビューを引用すると、

  「演じる役柄を役者として
  理解できない者を―
  主役に考えてはいけない 
  本当に適した役者が
  見えなくなる」
  という”演劇において古くから用いられている言葉”の引用(ジェシー役のキャスティングに関しての言葉)

  「明かりのついてない
  街灯のような主役を迎えた―
  撮影現場ほど
  恐ろしいものはない
  事実そんな現場も多い」

  などの言葉から、彼の演技哲学―演じる役柄を理解して、理知的に演技を組み立てていく―が垣間見える。でも、オトゥールの演技には、昔から理知的なだけではない、日本で言うところの”華がある”と言うのか、ヨーロッパの知性の翳りを帯びた色気が感じられて、それが比類なくいいのである。今回の映画で言うと、ジェシーに頼まれて、彼女がヘビの刺青を入れるためのお金を出してやるのだが(実はボーイフレンドとお揃いの刺青)、刺青を彫っているジェシーを見ている主人公を、外で見ているジェシーのボーイブレンドに気付き、彼が振り返るシーンとか、その若いボーイフレンドが気の毒なくらい、オトゥールの方が色っぽいのだ。ラスト近くで、ふたりが部屋に訪ねてきたときも、不遜な態度でモーリスを見ているその男を見つめるオトゥールは、カッコよすぎで、やはりそのボーイフレンドの駄目さ加減が余計に際立ってしまってました。

 モーリスの妻役のヴァネッサ・レッドグレーヴは、さすがの存在感でした。ジェシーに約束をすっぽかされて、傷心の彼が突然訪ねて来た時に、TVで若い頃のモーリスの出演している映画を見て、「ハンサムだったわね」というところは笑えました。(このシーンはそれだけでなく、その後のふたりのやりとりがなかなかいい、シーンでした。
 また、ラスト近くに、モーリスの「死亡記事」をカフェで読んでいるふたりの友人に、カフェの女が、「お友だちは?」と尋ねると、ふたりが、彼の若い頃の写真(オトゥール本人の写真)の掲載されている新聞記事を見せると、女が、「お友達はすごく魅力的(=ゴージャス)だったのね」と言うところも、オトゥールへの製作者の敬意が感じられた。 
 
 音楽では、ドヴォルザークの哀感あふれる 「スラヴ舞曲」が印象的に使われていました。あと、ベラスケスの有名な油絵、「鏡を見るヴィーナス」と、モーリスのしゃべるシェークスピア劇のセリフなども効果的に使われていて、さすが英国映画という感じでした。

 映画の、老人の性や若い女への執着という谷崎的なテーマは、正直あまり興味が無く、また主人公の「欲望を最優先する(それによって彼は過去に妻と子どもたちを捨てたのですが)生き方」にも共感はしないし、支持もしないのですが、それをオトゥールがどう演じるのか、それだけで観れてしまう私です。オトゥールの演技には、いわゆる”エロじじい”と言って片付けられない+αがあるのだ。それを、できれば彼の主演で、また観たい!

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「 文学はひとを救わない 」

 というタイトルを付けましたが、もちろん、「優れた文学にはひとを救済するちからがあります。」 でも、中途半端な文学(ドラマなども含む)は、ひとを救わないどころか、ある種のひとびとにとっては毒であったり、ひとびとをミスリードしてしまったりします。中途半端なリアリズムによって現実を描いたものの多くは、そういう現実を乗り越えようようとする勇気をひとびとに与えるよりも、リアリズムに留まることによって、ひとびとをその不完全な現実の肯定に留まらせます。それは一種のニヒリズム、退廃であると思います。「芸術」 において、価値があるのは 「リアルであること 」ではないのです。芸術の価値はもっと高次な次元のものです。
 
 「文学はひとを救わない」という感想を持たざるをえないような表現を目にすると、私の興味はそれらから離れる。そんななか、”渋谷の夫バラバラ殺人事件”のことを調べていて、家族カウンセラー中尾英司さんのブログに辿り着いて、氏の、「 渋谷夫殺害事件-法廷証言でたどる歌織被告の真実 」 という、懇切丁寧なレポートを読んで、ニュースやTVのワイドショーの解説などでは知ることのできない、あの事件の(歌織)被告の「 精神的真実 」 、―中尾氏によって

歌織被告は、あくまで『ここに至るまでの彼との生活をわかってほしかった』のである。
と表現されている( これは哀しい言葉です )―を知ることは、その相手をこの世から抹殺するほどひとを追い詰める凄まじいDVの現実と、その心理を知ることができます。そして、その蟻地獄にからめとられて身動きできなくなってしまった彼女が、決して特異な女性では無いこともわかります。興味のあるかたは、上のリンクからぜひ訪問してみてください。

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