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「アカルサハ・・・」

 
 最近、ふっと思うこと。「絶望」とか「退廃」とかは、一種の余裕である。余裕のある状態だと。

 「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。」 (太宰治 「右大臣実朝」 より)

 と、太宰は勿体つけて言ったが、その恰好付けた言い方がちょっと違う気がする。

 「明るさは大人の処世術である。」

 それは、太宰の感想の貴族的なゆとりとは一線を画す。

 「明るさは、水鳥の水中の足である。」

 のようなぎりぎりの状態で続けられる努力に似ている。

 

 

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「 スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師 」

 実は、この映画を観てから大分時間が経っているのだが、なかなかレヴューが書けなかった、書こうかどうしようか迷っていた。そもそも、殺人鬼が主人公と言うことで、予想される映画の内容に観ようかどうしようか迷ったのだが、ジョニー・デップ主演と言う誘惑には勝てず観に行ったのだが、未だに正直戸惑っています。作り物の血が流れ出す、この物語の内容を暗示しているように不気味な映画の冒頭部分で、既に、ウッと少し目まいがしました。(冒頭からティム・バートンワールド炸裂です。)ストーリーは、社会的強者(=判事)の自分の妻への横恋慕による理不尽な暴力によって、全てを失って投獄された男の復習譚で、復讐心にとりつかれて狂気の連続殺人鬼と化した男と、自分へ振り向くことのないその男を愛して、その犯罪に加担してしまう女の悲劇の物語、と書いただけで陰鬱なことこの上ない話なのですが、主人公の復讐が達成されたからと言って、それで、すかっとするわけでもない。それは、容赦ない殺人場面と、その死体の行き着く先(死体の階下のパイ屋の地下の床への落下)までを、罪の無い人たちが殺される場面を含めて何回も見せられるからである。殺人や死体は暗示するだけでも充分怖さは伝わると思うのだが、監督は、毎回、殺人、血、死体の床への落下までを御丁寧に見せるのだ。それは、もうリアルに怖くて気持ち悪い。それは、どうしてだったのか、をずっと考えていた・・、それがティム・バートンだから、で説明されてしまう気もしますが、それを悪趣味だと切って捨てる気にもならなかったのです。だから、トッドが判事への復讐を果たしてもなお、全てを見せられた観客は、復讐と狂気が呼寄せた更なる暗い未来を予想して不安に駆られながら、悲劇の結末を待つことになるのです。だから、ラヴェット婦人の夢想する、トッド、自分、トビー三人の、海辺の静かな生活に見られるユーモラスさを楽しむ余裕など私には全く無かった。不気味な白塗りのふたりのメークによって演じられるそのメルヘンチックな夢の場面は正にバートン調なのだが、全く笑えなかった。暴力と復讐の虚しさと、それが呼寄せた更なる悲劇、破滅を描いて物語の幕を閉じるラストシーンは見事でした。だから、殺人シーンのショッキングさの強調とその繰り返しのインパクトが、舞台と違って強過ぎて、悲劇の印象が薄まってしまったのではないか、と言うのが、観終わっての印象でした。あの部分を、もっと控えめに演出してもよかったのではないかと。でも復讐の虚しさと暴力の怖さ、グロテスクさと、私たちの感情移入を一切拒否するような、殺人の狂気にはまり込んでしまった主人公のどうしようもなさ、は伝わってきたので、それを伝えるための演出だったのかとも思いました。勿論、トッドを演じる、ジョニー・デップの役作り、演技、存在感は申し分無いのですが、観る人を選ぶ作品ではあると思います。外部がいとも簡単に内部に侵入して来てしまうような守りの薄いひと、フィクションの暴力に引き摺られて自分の中の暴力性を誘発されてしまうようなひとは観ない方がいいと思う。
 
 この物語には色々な愛が登場するのですが、私が最も心惹かれたのは、少年トビーのラヴェットに寄せる愛でした。ラヴェットも彼に母性的な愛情を感じているのですが、最後の所で、(泣きながらでしたが)トッドへの愛を選んでしまう。少年の彼女に寄せる愛がとても純粋だっただけに、やり切れない選択でした。この愛は、ラストシーンの重要な鍵となるのですが。

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