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ファンタジーとしての虚構&「歌姫」三話の感想

 昭和30年代、土佐、方言、戦争による記憶喪失。ドラマ「歌姫」は一種のファンタジーだ。「歌姫」とはそういう設定でしか描けないものを描こうとするドラマである。今となってはアナクロに見えるギャグや極端過ぎるキャラクター設定などもそのためである。そこら辺で真面目な方はひっかかる。ギャグが寒い、鯖子が変過ぎる、等々。彼らにとって、ドラマとは現実を切り取って、それをエンターテインメントとして提示してくれるものなのだろう。例えば、いじめとか殺人とか不倫とか援交とか嫁姑問題とかの現代的テーマからどれかひとつ取り出して、それをちょっと刺激的に味付けし、現実ってこんなものだよって提示すれば、みんな拍手喝采。”人の不幸は密の味”的にこちらは何の痛みをも感じずにそれらの他人事の”不幸”を楽しむ。大事なのは”自分は何の痛みもなく”ってことで、その点ではせんべいをかじりながら自分の人生とは何の共通点もないであろう昼ドラを見ている主婦と同じである。自分とは何の接点もないのだから、描かれる不幸は極端で刺激的であればあるほどいいということになる。つまりヒロインがドロドロの不幸に突き落とされ、誰かが死んでくれれば一番盛り上がるってことだ。そして、そういう極端なシチュエーションばかりだと複雑で微妙な感情表現なんていう演技力はいらない。少々演技力に難のある俳優でも気にならない。型にはまった演技でよければ、ベテラン俳優の演技力も必要ない。だから、現実からテーマは取られているが、リアリティの無いドラマが出来上がる。だったら、これくらいの思い切った設定によって作者の描きたいことを見せてくれるほうがいい。長瀬智也の魅力的な芸も見られるし。


 と言うわけで、「歌姫」第三話ですけど、今回は二つもオチ(ゲルマンの拉致と、クロワッサンの松と、)があって、ドラマの定型(太郎の立ち回りや、憎々しく怖い敵役)を期待していた視聴者は2回もすかされたことになって、なかなか一筋縄ではいかないドラマである。三話にして明らかになったクロワッサンの松のキャラクターには、笑いが止まりませんでした。クールな敵役と思い込んでいましたが、佐藤隆太キャスティングの理由がやっとわかりました。

  松 「わしは、わしは、泣いたら強うなるがぜよ~! エ~ンエ~ン・・」

  勝男、浜子、泉、 太郎 「カッコ悪いぜよ~」

  (もう笑うしかないです!)

 はらはらどきどき次週に続くを期待していた真面目なひとには、御愁傷様ですが、私は見続けます。このドラマは、現在の多くのドラマが陥ってしまっているドラマの概念や公式に対して挑戦しているし、そのファンタジー性が好きだし、魅力的な主役長瀬=太郎の芸が見られるから。ユーモアを含んだ演技を作為的ではない芸にまで昇華して見せてくれる若手ってあんまりいないから。
 
 深刻ぶるのは、まだ余裕があるからだ。(他人事化した不幸を楽しむのではなく)ユーモアを持って現実を眺め返す物語(主人公)は、お先真っ暗な現実を生きていくための勇気を与えてくれる。

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長瀬君の演技&「歌姫」ニ話の感想

 ドラマ「歌姫」での長瀬君の演技を観て感じたことを少し書いてみたいと思う。
 彼の前回主演ドラマ「マイボス」は、子どもたちが好きだったので時々見ていた。その時と比べても演技力は上がっているというか、マイボスの時は少し演技がよくあるパターンの型にはまってしまう時があって、(今回より荒唐無稽な役だったのもあるが)気になったのだが、今回はまったく気にならずに、太郎になりきっている。今のところ安心して観られます。
 1話のレビューで、ドラマ「歌姫」は、「三丁目の夕日」や「フラガール」よりも上と言ったのは、主演の長瀬君の演技によるところも多い。そして私がそれらの映画がいまひとつなのは、「三丁目」の堤真一、吉岡秀隆や「フラガール」の豊川悦司の演技がだめなのです。吉岡君、あんなにヘタだっけと思ったり、トヨエツ、炭鉱労働者の雰囲気がしないし、しゃべると声が高くてだめだな~とか、そして特にだめなのが堤真一の演技で、彼がどんなにはじけた演技をしようとこちらは引くばかりなのだ。(どうしてこんな悪いパターンになっちゃたんだろうこのひと。)この三人と長瀬智也の演技の違いはなんだろう。長瀬智也の演技は、こちらに「 このひとひょっとしてこんなひと 」と思わせるくらい作為(演技)を感じさせないのだ。そこが素晴らしい。前々回の記事で書いたアラン・ドロンの言っていた「役を演じるタイプ」と「役を生きるタイプ」と言うことなのかも知れない。このふたつのタイプを比べて、一般に演技派と言われるのは、前者なのだが、どうも彼らはまだ、そう名乗るほどの実力まではついてないので、大袈裟さや作為のキツさの目立つ演技になってしまうのだろう。そんな演技と比べても、作為を感じさせない長瀬君の演技が上に思える。
 そんな長瀬君演じる 「歌姫」の四万十太郎は、いい男です。

 
 ちょっとだけニ話のことに触れると、芥川が歌っていたのは、「アカシアの雨がやむとき」(歌/西田佐知子=現関口宏夫人)という昭和歌謡の名曲ですが、その選曲の渋さは個人的に受けました。先週は鈴の「青い山脈」でしたね。太郎の「監獄ロック」は、戦争で記憶を失ったという設定との辻褄がどうなんだろうという点がひっかかりました。鯖子の短歌+と神宮寺君の太鼓は受けました。(その直前のお約束の力道山ネタも。)鯖子のボケに対する高田純次=勝男のツッコミの間とかタイミングが絶妙です。風吹さんよく笑わないで演技できるなあと感心してます。茶の間のシーンとかバーが出て来るところとか、往年の人気ドラマ「寺内貫太郎一家」を彷彿とさせるところもあります。(主要なキャスティングとかはこっちのほうがこなれていると思います。)というわけで私は充分楽しんでいますが、そういう細部を楽しめないひとや、ドラマとはこうあるべきというのが強いひとはだめなのかしらね。わざとらしいと言われているギャグも、太郎自身と、鈴や、太郎を取り巻く人々の予感している、切ない未来への助走だと考えれば納得がいくので私は気にならないです。たろたろりんりんりんもね。
 兎に角、私は、あのオリオン座のオープンセットだけでも百点を上げたいくらいですので!

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ドラマ 「歌姫 」 (追記あり)

 TBSで金曜10時に放送されている長瀬君主演のドラマ「 歌姫 」に初回からはまりました!最近流行の昭和30年代レトロものなのですが、「三丁目」や「フラガール」よりも、キャラクターの設定や、物語の骨格がしっかりしていて、よい出来だと思います。ロケ地やセットなどもそれぞれ細部までにスタッフのこだわりが感じられて、画面からよい感じの懐かしい雰囲気が漂ってきます。その点でも上に挙げたふたつの映画より上です。そして、何よりもキャスティング!太郎役の長瀬君もこのひとしかいないというくらいピッタリですし、(ここに来て演技力が上がってます。)オリオン座の夫婦役の高田純次、風吹ジュンの演技は、それぞれやっぱり最高 (高田純次の軽さと風吹ジュンのかわいらしさ )だし、ヒロイン鈴役の相武紗季ちゃんも、これまでで一番生き生きしてますし、メリー役の遠山景織子、神宮寺君(のちのジェームス)役の大倉忠義君(関ジャニ∞)もよい味を出してます。そして、鯖子(!)役の斉藤由貴には、アイドル時代の彼女を知っているひとは目が点になるでしょう。(鯖子と神宮寺君のからみは笑えます。)そして、このドラマの掘り出しもの(!)は芥川ただし役の秋山竜次ではないでしょうか。私はあまりバラエティとか見ないので、知らなかったのですが、コメディアンなのだそうですね。のど自慢大会のシーンがあって(次回、彼が歌うシーンがあります!)歌がうまいみたいなのでキャスティングされたのでしょうか。次回の彼の歌声が楽しみです。そして歌だけでなく、演技もなかなかなのです。敵役なのですが、小指を立てながら、得も言われぬ(キモオカシイ)雰囲気をかもし出していて必見です。初回の彼の演技には本当にびっくりしました。土佐弁はみんな無難にこなしていますが、特に、相武、大倉、秋山の三人がいい感じなのは、西日本出身だからでしょうか。
 初回で好きだったシーンはいっぱいありますが、出演者が順番に紹介されていくタイトルバックは、「 歌姫 」という文字のレトロさも含めていいです。(ちなみに主題歌は作/長渕剛、歌/TOKIOです。そう言えば1話のラストでクラプトンが自然な感じでかかってましたね。)それと現代から過去への場面転換の仕方がとても映画的でGOODでした。
 東京セレソンデラックスという劇団の舞台が原作で、脚本も同劇団をひきいている脚本家のサタケミキオ氏だそうです。
 キーとなってくるのは失われている太郎の記憶という戦争の影なのですが、それはおいおいと言うことで、細部を楽しみながら見れるところが(演技や小道具、セット、ロケ地などの細部全体によって作られる時代の空気感!)気に入ってます。

 初回の視聴率はよくなかったみたいですが、(私は視聴率で観るドラマは決めないので)この秋イチ押しドラマです。

 追記:挿入曲、クラプトンの「Change The World」の使用は、クラプトン本人が「歌姫」のシナリオに目を通して共感、実現したそうです。↓

  ※参照「歌姫」公式サイト音楽情報

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スマスマのアラン・ドロン

 ビストロスマップ(10/8放送)にアラン・ドロンが出演するのというので見た。(実家の母にも知らせておいた。)フランスの俳優の中では特にアラン・ドロンのファンというわけではなかったのだが、(どっちかと言うとベルモンド派でした)代表作は大体知っているし、予告編で観た映像が、「思ったより若々しく今も美しかったので」見ることにした。代表作の映像 「太陽がいっぱい」 「冒険者たち」 「レッド・サン」の映像が流れた時、「どきどきする」と言って、俳優には2種類のタイプがある。「役を演じるタイプ」と「役を生きるタイプ」。前者としてリノ・バンチュラやジャン・ギャバンを挙げ、私は後者だと言っていた。フランス語でなんと言ったのかはわからないのですが、前者のことは”コメディアン”と訳されていましたが、私は演技派タイプの俳優のことかなと思いました。確かに、彼は演技派というより、自分の内面にあるものを役を通して表現しているタイプかなとも思いました。(少し、翻訳とかのせいでわかりにくい表現でしたが。)「太陽がいっぱい」のトム・リプリー役なんかは、観ていて切なくなるほどドロン自身と重なってしまう。
 
 そして、ドロンのオーダーは前菜のフェットチーネ、ブイヤベース、チョコレートスフレだったが、このブイヤベースというオーダーもドロンらしいなと思いました。ドロンは、ブイヤベースらしいブイヤベースしか認めず、(「これはフェットチーネじゃないスパゲッティだ」)、「これは味はいいがブイヤベースではない」、(木 村の出したマヨネーズも)「それはいらない」(吾郎の出したリゾットも)「それはイタリア料理だ。私はオーダーしてない」と、スマスマ的アレンジをまったく認めないフランス人的頑固さで出される料理を否定していくのが「いかにもフランス人だなあ~」っておもしろかった。そして、ブイヤベースっていう、もともとマルセーユの漁師料理だったオーダーと、その料理へのこだわりも、彼らしいかなと思いました。「若さの秘訣は女性」ってのはまあいいとして、三船敏郎のことを尊敬していて、生前、交流もあったことなども披露していました。

 まだまだ衰えてないお爺さんドロンはそれはそれでいいのですが、私の好みはやっぱりピーター・オトゥールですので・・・。新作「ヴィーナス」観たいなあ。

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「バットマンビギンズ」&「フラガール」

 二日続けてテレビのロードショーを観た。「バットマンビギンズ」と「フラガール」。で、その感想を少しだけ。

 「バットマンビギンズ」はヒーローものだけれど、主演のクリスチャン・ベールがよく、脇役のキャスティングも豪華で、(マイケル・ケインやゲイリー・オールドマンが出ていたせいか全体になんとなくイギリステイストな映画でした)、なかなかの掘り出し物映画でした。(悪役で出て来た渡辺謙がすぐ死んでしまうのと、その軍団が忍者風とか武士風とかの日本風テイストなのはちょっとひっかかりましたが。)このキャスティングで続編があるそうです。

 そして、邦画「フラガール」ですけど、評判の良い映画でしたが、私はいまひとつピンと来なかったです。残念ながら。観る前に思っていた、たぶんこんな感じっていう、全てがその予想通りでしたし、「リトルダンサー」と比べられたりしてますが、あれほどの新鮮さはなかったし、エピソードはかなり盛り込まれてて、みんな予想通りの演技をしているけど、なんか盛り上がらない、冗長で散漫な印象でした。富士純子はあの役のイメージとちょっと違う感じがしたし、トヨエツもねえ、なんかいまひとつ演技がピリッとしなかった。(「リトルダンサー」のお父さんはもっと強烈な印象でしたし、映画「名犬ラッシー」での炭鉱の話も、もっと切実な感じが出ていてぴりっとしていたが)そんなわけで、予想通りの演出とキャスティングとかに少し疑問の残る映画でした。ダンスものとしては、「シャル・ウィ・ダンス?」の面白さには遠く及ばないのは、俳優の技量(キャスティング)と演出のせいかなあ。「フラガール」は狙いすぎて(ステロタイプになってしまっていて)つまらない感じがしました。

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映画「 バッテリー 」の母子関係から考えたこと、あるいは「空気を読め」について

 映画「バッテリー」を観てから、ずっと書きたいと思っていたテーマでしたが、なかなか考えをまとめることができずに時間が経ってしまいました。あの映画に見られる巧と母親との関係に、母性の過剰な日本の社会の特徴がよく出ていたと思うからです。すぐに熱を出して入院するような身体の弱い巧の弟、青波にとっては、母の細やかな気遣いや気配りは、彼が生きていく上で必要なものでしたが、母の、野球をすることができない弟への気遣いから来る巧の野球への反発、冷たい態度は、明らかに母性の過剰から来る母性の行き過ぎと、そのことによる母子の葛藤の典型のようでした。少年が少年を生きている、自己の存在を証明するように野球に打ち込んでいるそのことが、何故あのように母親から敬遠されるのか、それは少年には受け入れ難い不条理なことで、映画では、それが彼の屈託と屈折の原因だったと思う。そして、本人もそれが、弟青波のためだとは、わかっていても受け入れられないほどに、その母の彼に対する要求や拒否が過剰(行き過ぎ)なのだ。その様子を見て、多くのお母さん方は、思い当たる節があると思う。例えば、下の子が生まれたばかりの頃、下の子のために、上の子にとっては理不尽なほどの要求や、叱り方をしてしまったことなどを思い出す。それがわかっていながら、上の子に要求してしまう。「お兄ちゃんでしょ! 」と言ってしまう。自分が長女だったので、「お兄ちゃんでしょ 」はなるべく言わないように気をつけてはいたけれど、そういう意味の叱り方をしてしまったことがある。母性の、弱いものを守り、庇護し、囲い込む性質が陥りやすい陥穽だと思う。映画では、強力な母性から主人公を救うというか、それとの間でバランスを取っていたのが、父親と祖父で、このふたり、特に祖父の体現している父性が巧にとってはバランスを取るために重要なものだったと思う。そして巧自身がしっかりとした自己のある子なので(そのことがどうも余計に母親の癇に障っていたらしいのだが)、強力な母性に潰されることはないのですが、何せ、河合隼雄氏言うところの”母性社会日本”ですから、日本の社会における母性原理の強さ、母性の強力さに飲み込まれてしまう子どもや、そのことによる社会のバランスの悪さによって苦しんでいる子ども達や若者達(場の「空気を読む」ことに全精力を使っているようなある意味ビクビクした心性の若者達=「場の論理」の維持を至上の行動原理としている人たち)も、母性原理の忠実なしもべと言える。「場の論理」の維持が至上の行動原理となった集団がどうなるかは、過去の歴史上の過ちや最近のイジメなどもその例に当てはまるのではないだろうか。そういう集団は負の方向に走り出した時に抑止力を持たない。それを止めようとする者を、「場の論理=調和」を乱す者として排除する。「論理」の維持のみに力が注がれて、「論理」そのものの善悪、正邪は問題にされない。声の大きい者の言う方向に簡単に流されてしまう集団。その危うさは、もし邪悪な集団に属してしまったら、「場の論理」への奉仕が、簡単に犯罪につながってしまうということになる。最悪の場合、人殺し集団に属してしまったらその「空気を読んで」加担せざるを得なくなるのだ。そのことの危うさに「空気読め」とか言っているひとたちは気付いているのだろうか。日本における文化の母性化はさらに進んでいるようですので、その問題点についてもっとみんなが自覚し修正しなければ、母性の暴走によって息苦しさを感じたり、イジメに走ったり、烏合の衆となって流されたり、果てはひとの命じるままに人殺しをしてしまったりということも起こりうるのです。
 だから、差し当たり、「もっと父性を、もっと父性原理の導入を 」と言うことが、わたしたちには必要なことなのではないでしょうか。私は、とりあえず「空気を読め」という強制力に対する懐疑を失わずにいたいと思うし、自己の中の母性の暴走という罠にも注意しなければと思う。まあ「空気読め」とかばかり言っている社会からは天才も芸術家も生まれないし、母性的なものに過剰に傾いた文化は繊細だけれども感性的過ぎる、感性を裏打ちする理性の働きが弱いのでふわふわした気分だけの表現や美意識のみの表現になりやすい。そういうものやひとがグローバルに評価されることはないでしょう。映画「バッテリー」や、その主人公の巧はそんなことを私に考えさせてくれました。

  ※参考記事「最近読んだ本~四十歳の少年浦島の国~」

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