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男はどうして戦争映画がすきなのだろう(「硫黄島からの手紙」を観て感じたこと)

 このタイトルは、私が最近、「硫黄島からの手紙」のことを職場のひとと話したりしたときにふっと思い浮かんだことです。ただ、タイトルにはしましたが、そのことについて掘り下げようとかいう気持ちはなくて、硫黄島の2作品を観て感じたことをつれづれ日記という感じで書いてみようというだけですが。

 すべての男性というわけではないでしょうが、軍事的なこと(武器とか軍服とか)にオタク的な興味を持つ男性は多いし、戦争映画ならなんでも来いという男性も多いと思う。私は、戦争映画は特に好きでもないが、というよりどちらかと言うと敬遠してしまうほうで、そのもっとも大きな理由に、それらに出演する俳優たちの演技に違和感を感じるということがあった。彼ら彼女らの、熱演を観れば観るほど白けてしまう、自己の演技に陶酔しているような”迫真の演技”に白けてしまっていたからだ。熱演すること自体が自己目的化している白々しさ、を感じてしまっていたからだ。軍服を身に着けて敬礼したり、モンペを穿いて熱演することで満足しているような演技。でも、今回の「硫黄島からの手紙」の出演者の演技からは、そのような白々しさをまったく感じなかった。そこに、私は、イーストウッドの演出と視点の確かさを感じた。二宮君演じる西郷という兵士の、「 僕達は墓穴を掘っているのかなあ・・・」という静かな呟きこそが、私たちを、62年前の地獄のような戦場の物語へと導く。この西郷の存在が、この映画を凡百の戦争映画と隔てている、彼の視点の導入、それこそが映画の表現なのだ。だから、二宮和也の演技(セリフ)が現代的すぎるという批判をいくつか見かけたが、的外れな批判であると思う。60年を越して彼らの残された思いが私たちに届くためには、全篇を通じての西郷という一兵卒の 「 生きたい 、生きて帰りたい 」という切実な思いを描くことが必要なのだ。栗林中将はじめ死んでいった兵士たちの思いを描くために。


 この2本の映画で、私がもっとも印象に残っているシーンは、「父親たちの星条旗」の冒頭の主人公の独白と、「硫黄島からの手紙」のラストの映像だ。その抑制された表現の説得力。ラストなんか、日本映画だと思いいれたっぷりな回想シーンで泣かせたりするところだけど、そういう演出はいっさいない、そのストイックさが凄い。そして全篇に流れるあのトランペットの旋律の素晴らしさ。

 イーストウッドがこの2本の映画で表現したかったのは、「戦争では、若者が死ぬ」、というシンプルな真実で、若くして逝った彼らへの哀悼の思い以外の視点―「父親たちの・・・」で描かれているような兵士をヒーローとして政治的に利用するといったような―はない。そのシンプルな立脚点こそが、戦場の真実のリアルさを描くことになっていると思う。「 俺達はまだなにかをもったいないと思うほど生きちゃいない 」という西郷のセリフにあるような若さで死んでいった兵士たちの。


 もう、何回も書いているけれど、「俺は、君のためにこそ死ににいく」ですが、百歩譲って、岸恵子さんの言うように反戦の気持ち、戦争の悲惨さが籠められた作品だということにしましょう。あの戦争についてほとんど知識のない世代に特攻という残酷な作戦があったということを知らせることの意義は否定しません。しかし、あのタイトルの身も蓋もなさ、ヒロイズムの底にあるのは、死者を英雄として政治的に利用しようとする意識に他なりません。(作られた戦場のヒーローが政治に利用される様子は、「父親たちの星条旗」に描かれています。あの映画は、そのことに対する静かな抗議でもあります。)死者たちは語りません。名は体をあらわすといいます。私には、いかに映画の細部に反戦が謳われていようとも、あのタイトルこそがすべてで、影響されやすい若者たちにとってとても危うい映画であると思います。スタイルは思想をあらわします。私には、ああいうスタイルで語られる反戦は信用できません。B’z主題歌というのも、若者ターゲットという意図があからさまで、「硫黄島」の死者の魂に対する静かな鎮魂のようなメロディとの大きな差を感じました。そうやって謳いあげることによって隠されていくものがあるというのに、それに気付かないB’zにも岸恵子にもがっかりしました。あの映画を批判しているひとたちは、亡くなった若者たちを批判しているのではないのです。彼らを利用しようとしているひとたちを、あの作戦の背後にあったものを隠そうとしているひとたちを批判しているのです。彼我の差は大きいです。

 

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「父親たちの星条旗」より

 なにやら頭でっかちの危うい発言ばかりが目立つきょうこの頃ですが、gooブログにも書いたのですが、こちらでも、「硫黄島からの手紙」に続いて観た「父親たちの星条旗」の主人公のセリフ(独白)を紹介しときます。


 
 戦争を分かった気で
 いるやつはバカだ

 特に戦場を知らぬ者に多い
 
 皆単純に考えたがる

 ”善対悪”
 ”ヒーロー対悪者”
 
 どちらも大勢いる
 
 だが実際は我々の
 思うようなものではない             (クリント・イーストウッド監督「父親たちの星条旗」より)

 

 映画では、この言葉を呟いた主人公の息子によって、(硫黄島の英雄と呼ばれた)父親が戦後、求められても戦争のことを語りたがらなかったことが紹介されています。本当の戦争体験者はそうなってしまう、そうならざるをえない。声高に語るのは、本当の”戦場を知らぬ者”なのです。昭和ひとケタ生まれの都知事も現在のほとんどの国会議員たちも本当の戦場や軍隊を知らないのです。

 もし石原都知事が、負け惜しみでなく「俺は君の・・・・」がイーストウッドの映画より優れていると思っているのなら、今後いっさい映画制作などしないほうがいいと思う。

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「 硫黄島からの手紙 」

 イーストウッド監督作品、「硫黄島からの手紙」をDVDを借りてきて観た。一般の評価通りの名作だと思った。アカデミー賞を受賞してもおかしくない作品だと思った。何よりも、これを撮ったのがアメリカ人であるイーストウッド監督だということに脱帽する。日本人の立場と視点に立った、日本人から見ても違和感のない日本人が描かれている。栗林中将を演じた渡辺謙以外は全員オーディションで選ばれたそうだが、西郷役の二宮和也の醸しだす雰囲気や、実在した元オリンピック馬術競技金メダリスト、バロン西こと貴族出身の西竹一中佐を演じた伊原剛志などのキャスティングも素晴らしく、監督の見る目の確かさを感じた。偏見を排して真実を描こうとする真摯な態度は、作品のバックに流れるピアノやトランペットによる哀愁を帯びた、硫黄島の死者への鎮魂の曲のような音楽の選択にも現れていると思う。その静かな旋律によって象徴されるような制作者の姿勢が、これらの当時彼らの置かれていた過酷で絶望的な状況 ―海を埋め尽くす敵の艦隊、日本からの援軍はなし―に、私たちの目を向けさせる。そして、敵国の軍隊をここまで描けるアメリカの映画人の底力を感じる。残念なことに、もうすぐ公開される日本の戦争映画とは、タイトルや映画音楽のみとっても、大人と子どもほどの差を感じる。タイトルだけとっても、天と地ほどの差がある。自己陶酔のようなタイトルを付けては、”反戦の意志”も戦争の真実も悲惨も伝わってこない。なにかをごまかして糊塗しようとするときに、ひとは声高になるからだ。それは扇動者の態度で表現者の態度ではない。そういう意味で、この作品は名作であり、日本人が見るべき映画だと思う。

 二宮和也は、記者会見で「人間の部分をなくさないように、人間であり続けることを一番に考えました。」と発言している。この”集団ヒステリー的な感覚”から遠く離れた発言からは、彼の演じた役の本質を理解し、監督の制作姿勢にも通じるような彼の聡明な感性の豊かさを感じる。


 ※gooブログに関連記事を書きました。

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ブレイブストーリー

 昨夜放送されたアニメ映画「ブレイブストーリー」を観た。思ったよりというか、なかなかよかった。「ナルニア」と「ゲド」と「指輪物語」などの有名なファンタジーからの影響がミックスされた作品だという感じがした。”影”についての解釈は、アニメ「ゲド戦記」よりもこちらのほうの解釈が「ゲド」原作の影に近く、わかりやすい表現だったと思う。
 ウエンツの声(ミツル)も最初、それと気付かないくらい自然で、合っていたと思うし、主人公の抱える現実とファンタジーとの関連も自然だったと思うし、その現代性において、なかなかの作品だったと思います。

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硬質で純粋な怒り~ランボーの詩

 図書館で借りてきたランボーの詩集をぱらぱらと読んでいたら、彼の詩集を熱心に読んだり、ランボーが特集された「文芸読本」かなんかを読んだりしていた頃のことを思い出した。早熟の天才、あるいは鬼才、端正な若き日の肖像写真とともに語られる、ヴェルレーヌとのちょっと怪しげな関係やヴェルレーヌによるランボーへの発砲事件、そして詩とはすっぱり縁を切ったのちのアラビアやアフリカでの商人としての晩年の生活や、若くしての死、など、伝説となったその生涯についてもひととおり読んだりしていた。そして、今回、彼の詩の一節をふっと思い出すまで、久しくランボーの詩や生涯について考えたり思い出したりすることもなかったのだが、中也の詩集にランボオ(中也の詩集と小林秀雄訳では”ランボオ”と表記)の翻訳詩篇が何編か載っていたためなのか、彼の詩の一節がふっと頭の中に浮かんできて、あれはなんという詩だったかなということが思いだせなくて、近くの書店に行ったのだが、ランボーは一冊も見つからず、(これは少しショックだった)、図書館で金子光晴訳の「世界の詩集 6 ランボー詩集」(角川書店)と小林秀雄訳の「地獄の季節」(岩波クラシックス)を借りてきたのだった。そういえば、昔読んでいたのは金子光晴訳の文庫本だったと思う。で、今回ぱらぱらと読んでみて、(若い頃のようにその詩や生涯や端正な肖像写真などにうっとりしたり、心酔したりすることはないのですが、)彼の詩篇からは硬質で純粋な怒り(否定)を感じる。そして、時々、まるでパンクロックのようなそれらの言葉を呟いてみたくなる、それらのことばがぴったりするときがある。例えば、


 俺に食いけがあるならば
 先ず石くれか土くれか。
 毎朝、俺が食うものは
 空気に岩に炭に鉄。

                詩集・地獄の季節「飢」より(ランボオ作/小林秀雄訳)

 とか、

 
・・・・・・・・・有難い事には、俺は昔の偽りの愛情を嗤(わら)う事が出来るのだ、この番(つがい)になった嘘吐きどもに、思いきり恥を掻かせてやる事も出来るのだ、――俺は下の方に女どもの地獄を見た、――さて、・・・・・・・

                          詩集・地獄の季節「別れ」より(ランボオ作/小林秀雄訳)

 とか、

 ところで、今回、ランボオの詩を読んでみて、この永遠の反逆児のような詩人の詩に、初期から代表作まで含めて、自然への純粋な憧れの心情が感じられる詩篇が多いということと、世間に悪態をつきながらも、小さきもの、弱きもの、いわゆる民衆、周辺部のものへの視線を感じる詩が多いということに気付かされた。それは彼の愛情にめぐまれなかった子ども時代という生い立ちや、彼が、シャルル・ヴィル生まれの田舎者であったことに関連しているのではないかと思う。そのことが、パリの文壇、詩壇やヴェルレーヌへの相容れなさ、幻滅を招き、はやばやと二十歳にして彼にすっぱり詩と縁を切らせた原因ではないかと思われる。


 
 また見つかった、
 ――何が、――永遠が、
 海と溶け合う太陽が。

              詩集・地獄の季節より(ランボオ作/小林秀雄訳)


 
 この有名な詩の一節から感じられる、自然のイメージは清冽で強烈で美しい。

 

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