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ロレンスの言葉

 「アラビアのロレンス[完全版]」DVDよりロレンスのセリフで印象に残ったセリフを紹介します。

 ファイサル王子のテントに招かれたときのロレンスとファイサルとの会話、

 ファイサル 「心配でならん

        イギリスは

        荒れた土地にも貪欲だ

        アラビアも欲しいらしい」

 ロレンス 「拒否すべきです」

 ファイサル 「君はイギリス人だ

        忠誠心がないのか?」

 ロレンス 「祖国にも他にも忠実です」
 
 ファイサル 「イギリスにもアラビアにも?

        可能かな?」

 映画の後半部分で、「可能かな?」というファイサルの疑問が現実のものとして段々と大きくなっていき、ロレンスが自身の理想とのギャップに苦しむ様子が描かれていくのですが、それはそれとして、ファイサルの中にロレンスへの信頼が生まれた場面として、ロレンスのこの理想主義的で真摯な言葉は感動的で、派手な場面ではないですが、印象に残りました。
 この理想があったからこそ、前に紹介した、ラスト近くのアリとの会話や、アラビアを去るときの彼の失意が、こちらの胸に響いてきます。

 ※参考記事「アラビアのロレンス[完全版]」

 そういえば、gooブログで紹介した先日NHKで放送されたプロフェッショナル仕事の流儀SP「宮崎駿・創作の秘密」の中で、

 駿氏は、

 「理想を失わない現実主義者にならないといけない」

 「理想がない現実主義者は最低だ」
 
 という発言をしていましたね。

 これらの言葉を一番聞かせたいのは、政治家たちですが、理想がない現実主義者たちという前に、理想を持てるほどの自己のないひとたちばかりだという気がする。そして、現代の政治家たちにも、ロレンスの、「祖国にも他にも忠実です」 というグローバルな視点は必須なものだという気がします。

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最近読んだ本2~他人を見下す若者たち(少し追記しました)

 最近読んだ本の2冊目「他人を見下す若者たち」(副題)「自分以外はバカ」の時代!(速水敏彦/講談社現代新書)について、

 今回この本を再読したのは、「中原中也」の記事で触れたこの本の指摘、(若者の感情の変化―「悲しみ」の感情の減少と「怒り」の表出の増加)について確認したかったからですが、他にもこの本の指摘には、自分の経験からも肯かされることが多かった。

 今は、本書のテーマをきちんと系統立てて紹介するだけの余裕が無いので、かなりアトランダムに印象に残った言葉をいくつか紹介することにします。

 「はじめに」より、日本人の感情・やる気の変化について触れたあと、その背後にある日本人(おもに若者)の心性について、

 現代人は自分の体面を保つために、周囲の見知らぬ他者の能力や実力を、いとも簡単に否定する。世間の連中はつまらない奴らだ、とるに足らぬ奴らだという感覚をいつのまにか自分の身に染み込ませているように思われる。そのような他者軽視をすることで、彼らは自分への肯定感を獲得することが可能になる。一時的にせよ、自分に対する誇りを味わうことができる。(6頁~7頁)

 筆者は、この”他者軽視を通じて生じる偽りのプライド”のことを、それが”彼らの過去の実績や経験”にいっさい関係なく持たれることから、「仮想的有能感」と名づけている。(いわゆる自尊感情とは違う。)このような他者軽視の感情は、昔は学問を修めて高い理想を持った一部のエリートたちに見られたものであるが(「罪と罰」のラスコーリーニコフのような)、現代における他者軽視は、それらとは違って、一部のエリートたちだけが身に付けているものではなくて、もっと広い範囲にまで広がっており、それら多くの若者たちにとっての他者軽視は、内心の自信喪失や劣等感に対する”一種の防衛機制”として、自分たちの能力には関係なく無意識的に行われているため、昔にくらべて、「死ね」などという言葉が簡単に使われりるするような、どろどろしてネガティブなものになりやすく、社会にとっても個人にとってもそれを無意識なままに増殖させることは危険であると筆者は指摘している。


 一方、悲しみの感情を表出するにしろ、しないにしろ、今の子どもは集団規範をずいぶん気にしてその判断をしているとの感想も見られた。「ここで悲しまなかったら友人ではないと思っている」「皆の前で自分が外れた感情を示すのではないかと思って表に出さない」
 そして「怒りは自然に出てくるものだが、悲しみは生活体験、想像力がないと持てない」、また「悲しまずに責任転嫁するからがんばれない」、などの、悲しみという感情の特徴に言及した感想も述べられた。
(21頁~22頁)

 
 そうなんですよね。ドラマなんかを子どもたちといっしょに観て、私だけが泣いてしまうことが多々あるし、「仮想的有能感」による他者軽視の例として挙げられていた、自転車で横一列に並んでしゃべりながら併走してくる女子中学生が、対向して来た荷台に荷物を載せて自転車を押して歩いていたお年寄りにまったく道を空けようとしなかったというようなことは、私も日常茶飯時出くわしている出来事である。筆者は、このような「平然としている」若者たちの心性を「自分に直接関係のない人間を軽く見ている」 「彼らにとって赤の他人というのは、物体のようにしか受けとめられていないのではなかろうか」と説明しています。私が感じるのは、彼らの自分たちの仲間内での異常とも思えるような気遣いと、それ以外の者(外部)に対する異常なほどの冷淡さ、無関心ですよね。それらは単に社会的なマナーを教えられないまま大きくなったためだと考えられなくもないが、私には、やはり他者に対する冷淡さ、無関心は、そこからはずれることへの恐怖による神経症的気配りの中で続けられている友だち付き合いと好対照を成していると思う。そして、あれはたまらんだろうと思うし、その居心地の悪さの原因は、前の記事で触れた「母性原理の過剰」と「父性原理の不足」からくる社会のバランスの悪い状態を反映していると思うし、彼ら彼女らは、前記事では触れなかったが、「永遠の少年」とともに語られたもうひとつのキーワード「グレートマザー」(=母なるものの元型、肯定的な面と否定的な面があり、この本では日本におけるグレートマザーの強大化による否定的な側面がおもに指摘されている)の支配する「場の倫理」(=個人の成長や自我の確立<場の平衡状態をいかに保つか)の犠牲者といえるかもしれない。

 さて、少々尻切れトンボみたいな感じですが、この文はひとまずここで置きたいと思いますが、同書で、「笑い」の変質(仮想的有能感を抱く人たちが求めている、相手を軽視したり、誰かをこき下ろしたりすることに喜びを感じるような冷たい笑いの増加が指摘されています。)とともに、現代の若者の悲しみの性質について解説した章で、中原中也の「汚れつちまつた悲しみに・・・・・・」について言及した部分があります。「仮想的有能感によって自己を防衛している」「彼らの悲しみには、利己的なご都合主義的原理が働いていると考えられ、それが汚れた情感などという意識は、ないにちがいない。」と。そして悲しみの経験の減少は、自尊感情を肥大させ、弱い人間や傷付いた人間へのやさしさを喪失させる、「悲しみをある程度感じた経験のある人の方が共感性という点では優れている」、[悲しみをある程度蓄積している人の方が感情の統制ができる」と述べられています。

 ※参考記事「汚れつちまつた悲しみに・・・・・・~現代国語的中原中也」

 ※参考記事「中也の詩の紹介」

 ※参考記事「もっと悲しみを~中也の絶対音感~

追記:「笑い」の変質との関連で「ユーモア」についても考察されていたので、ちょっとだけ紹介しておきます。「ユーモアの源泉は哀愁である」というマーク・トウェインの言葉が紹介されたあと、「本当のユーモアは、周りを下に見て笑うのでなく、自分の人間としてのいたらなさ、不十分さといった、本来悲しみの源泉となるようなものを、少し距離をおいて他人の立場で眺められるようになったときに、生じるものではなかろうか。」と定義しています。そして仮想的有能感の高い人たちは、「自分が傷つくことを極度に恐れているため」「自分をゆっくり外側から見つめるだけの余裕」がなく、「自分を笑うことはできない」だろうと。ちょっと前に、「ヒロシ」の自虐的な笑いが受けたのは、自分の情けなさや駄目さ加減を語る彼の笑いに、誰かを蹴落としたり攻撃したりする笑いばかりを見慣れた現代人が、こころのどこかで共感を覚えていたためではないかということも指摘されています。(そういえばヒロシは子どもたちにも受けてました。)私は、先頃亡くなった植木等さんのクレージーキャッツのころからのお笑いの変遷―お笑いがどんどんエゲツナク、品が無くなっていく過程を観てきているので、現代主流の笑いに、はまったり、熱心に見たりということは殆ど無いのですが(クレージーキャッツにもドツキとかからかいとかドタバタとかはあったけれど、何というのか、節度があったので品は残っていたと思う)、あるところで紹介されていた最近注目らしいある若手のコンビを知ったのですが(彼らを観るとダウンタウンの古さがわかると紹介されていました)あんまりお笑い系の番組を観ないもので、紹介できるほどの知識がございませんので、またの機会にします。(みんなとっくに知っているかもしれませんが。)

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最近読んだ本~四十歳の少年浦島の国~

 最近、読んだ本を紹介します。
 
 「母性社会日本の病理」(河合隼雄/講談社+α文庫)
  
 「他人を見下す若者たち」(副題)「自分以外はバカ」の時代!(速水敏彦/講談社現代新書)です。

 どちらも再読だったのですが、最近ブログに書いたこととの関連で確認したいことがあったので、また読み返してみました。「母性社会日本の病理」は「野ブタ」の感想記事に書いた、日本における”父性の不足”の問題について、「他人を見下す若者たち」は「中原中也」の記事に書いた、「悲しみ」という感情の減少についてとの関連で再読しました。それで、興味深かった点を少しだけ紹介してみます。

 まず、「母性社会日本の病理」ですが、河合隼雄氏は日本の社会のことを、父性原理に基づく西洋の近代社会に対して、母性原理の強い国ではあるが、厳密にいえば、”母性原理を基礎に持った「永遠の少年(=いつまでも少年であって、成人になれない)」型の社会”である、と定義しています。そして、”日本人の自我における父性原理の弱さ”は、今後の国際交流の必要性からも問題となるであろうから、”われわれは父性原理の確立にもっと努力すべき”であると。(筆者は、西洋型のモデルをそのままよしとしているわけではなく、母性とのかかわりを失わない”第三の道”の模索を提唱しています。)
 そして、そのような日本人の「永遠の少年」的心性がもっともよく現われた日本的な昔話として、「浦島太郎」の物語が紹介されています。この部分はとても興味深いので、くわしくは同書を読んでいただきたいと思うのですが、簡単に紹介しますと、浦島太郎というのは”「母ひとり子ひとり」家族の四十歳の子ども”なのだそうで、父親がいないということは、”主人公がその男性性を確立すべきモデルを欠いていることを示している”のだそうで(当然独身である)、そのルックスは、今で言うところのなかなかのイケメンではあったが、どこか弱々しくて男性的な強さは感じられないのだそうで、まさに典型的な「永遠の少年」そのものであると言える。(現在の日本で好まれているジャニーズ風なルックスを思い浮かべるといいのではないだろうか。)そして、浦島のもともとの話では、四十歳になった浦島は、ある日釣りに出かけたが、魚はまったく釣れず、一匹の亀を釣って逃がしてやったところ(三回釣って三回逃がしたという話もある)、その亀が美しい女性に変身して彼にプロポーズすると、浦島は(よく考えもせずに)すぐにそれを受けて結婚し、(この結婚の部分は現在残っている話では完全に脱落してしまって、亀姫は亀と乙姫に分かれてしまっている)、彼女に付いてこの世ならぬ世界へ行き、そこで時の経つのも忘れて過ごしていたが、ふと故郷が恋しくなって帰りたくなり、またあまりよく考えもせず玉手箱をもらって帰って来るが、現実の世界では途方もない時間が(三百年経ったと述べられている話もある)経っていて、途方にくれた浦島は、「開けてはならない」と言われた玉手箱を開けて老人になる(一説にはそのまま死んでしまったという話もある)というみんなによく知られた結末を迎えるところは、今もむかしも変わらない。なぜ結婚のテーマが脱落してしまったのかについては、儒教の影響や仏教の報恩思想との関連が指摘されていると同時に、日本人が持つ女性像との関連が説明されています。つまり、もとの話では浦島は四十歳にして、はじめて相手に言われるままではありましたが母親以外の女性と出会って、結婚というステップにすすむのですが、現在残っている話においては、結婚のテーマが脱落してしまい、亀姫が亀(女性の肉体性の象徴)と乙姫(結婚の対象とは考えられない仙女のような女性)に分離してしまったということは、「日本人が男性と同一平面上に存在し、対等な愛の対象となる女性像を結実させることが非常に困難である」(316頁)ということを意味しています。ともかく、筆者によると、浦島は”あまりにも弱く”、行き当たりばったりで、”努力がなさすぎ”で、”乙姫というアニマ像(=すべての男性がその内部にもっている女性の永遠なイメージ、決定的な女性像―ユングによる、)との間に望ましい関係を確立”するのに必要な”持続的な意志力”を持ち合わせなかったため、「玉手箱」(=”禁止を守り抜く意志力”をためすためにわたされたと考えられる)を不用意に開けてしまい、皆さんご存知の悲劇的結末に至るのである。(ふ~疲れた。)だから、現在の日本で起こっているいろいろな精神病理的問題の背後には、日本人の持つ”母性社会における「永遠の少年」的心性”という背景が横たわっており、その面からの考察が必要とされる。われわれ日本人は、なぜ、「成熟した大人」になかなかなれないのか、父性原理の弱さから来る自我の弱さ(=ひ弱な永遠の少年浦島像に象徴されるような)は、日本人自身によって、もっと意識されて、克服されなければならないものに思われます。日本における、父性原理と母性原理のバランスの悪さは、男性にとっても、女性にとっても居心地のいい状態とは言えないから。

 まあ、自分達の居心地の悪さの原因を考える時に、自分たちのことを客観視する視点が大事だと思うし、ジャニーズの美少年たちを観て、私たちの日本的に限定された美意識と「永遠の少年」型社会(の孕む問題点)にまで思いを馳せるのも意味のあることじゃないかなと思います。「そんなのうざ~い!」とか言うのは、典型的な「永遠の少年」的(浦島的)発想ですよ。(この間、ハリー・ポッターの「アズカバンの囚人」が放送されていましたが、主演の子どもたちのインタビューを聞いて、十代の彼等、彼女達のインタビューが、とてもしっかりしていて哲学的だったのに感心させられました。)
 
 ※以前に書いた関連記事、

 ヨン様、韓流ドラマ考(ココログアップのお知らせ)
 
 「野ブタ」最大の謎~母親の不在について

 というわけで、「他人を見下す若者たち」については時間が無くなりましたので、次回に紹介する(予定)です。

 

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