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もっと悲しみを~中也の絶対音感~

 ハルキ文庫版の「中原中也詩集」の樋口覚氏による解説、「中原中也―「歌」への奉仕」で、一番印象に残ったのは、中也の詩は「中也にのみ固有な絶対音感を伴っていた。」というところだ。樋口氏はその特質を「歌」であると表現している。そして、そんな中也の「歌」は、時代の大きな流れがすくいとれなかった「小さな声」「いとけなき魂の声」を代弁しているのだと。そして「それは感傷的な哀歌ではなく、近代という時代の傷口に正確に対応していた」のだと。

 生きていくうえで、悲しみを経験せずに一生を終えられるひとはまずいないでしょう。命に限りがあるかぎり、どんなに幸福なひとにも愛するものとの別れは避けられない。そんなときに中也の歌が、彼の悲しみの定義が、彼のあの祈りのようでさえある言葉が私たちを慰めてくれるでしょう。詩人がその言葉を紡ぎだすのに、どれほどの営為があったのか、凡人には及びもつきませんが、芸術作品のうらには、建築家のような緻密な思考や分析や構築が、そして自らの不幸でさえも客観視する冷静な頭が必要です。芸術は天才の一瞬のひらめきや酒に酔うような酩酊だけからは生まれない。そして中也の詩には、彼の詩を凡百の流行歌や自己陶酔的韻文や散文などから区別する”絶対音感”があった。それが現在においても彼の詩が受け入れられる理由だと思います。

 落語家の談志師匠は、何を言ってもずーっと笑い続けている客に対して、途中で噺を止めて、「ここは笑うところじゃないんですけどね。」と説教したことがあると言っていましたが、私たちに必要なのは、可笑しくも無いのに笑い続けること、ではなくて、悲しみをちゃんと悲しむこと、ではないのかなと思います。幸福なひとには必要ではないでしょうが・・。


そう言えば、今朝の「日本語で遊ぼ」で中也の「月夜の浜辺」をやっていましたね。それと、最初に書いた樋口さんの解説に、村上龍の小説「インザ・ミソスープ」に中也の「除夜の鐘」のことが出て来ることが紹介されています。この小説は読んでないけど、村上龍の感覚を少し見直した。


  除夜の鐘


 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
 千万年も、古びた夜の空気を顫(ふる)はし、
 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 それは寺院の森の霧(けむ)つた空・・・・・・
 そのあたりで鳴つて、そしてそこから響いて来る。
 それは寺院の森の霧つた空・・・・・・

 その時子供は父母の膝下(ひざもと)で蕎麦(そば)を食うべ、
 その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出、
 その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ。

 その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。
 その時囚人(しうじん)は、どんな心持だらう、どんな心持だらう、
 その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。

 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
 千万年も、古びた夜の空気を顫(ふる)はし、
 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

    詩集 「在りし日の歌」より (参照:「中原中也詩集」/ハルキ文庫 )

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