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「アラビアのロレンス[完全版]」DVD

 「アラビアのロレンス[完全版]」のDVDを購入しました!(何を今頃と言うなかれ!)

 本編は、レンタルでたっぷり観たので、今回は特典映像を興味深く観ています。その中で、もっとも興味深かった箇所をいくつか紹介しておきます。
  
 まず、メイキング・ドキュメンタリーから、この映画の”唯一の作り物=絵”はガシム救出場面で照り付けている”太陽のみ”(太陽を撮ろうとしたがフィルムに穴が空いて撮影が不可能だったため)だったということ。あのアカバの町や要塞も、スタッフが捜したアルメリアの川床のロケ地に作られたセット(!)だったということなど、CGがなかった時代の映画作りの贅沢さに圧倒されます。例の、”デラアの事件”の場面についても、品を失わない抑制の効いた、しかし適確な監督の演出について言及されてますので、興味のある方は、御覧になってみてください。(この映像の品のよさがリーン監督の特徴だと思います。)

 次に、完全版制作時のアフレコでの監督とオトゥールの会話が、監督によって紹介されている。監督 が「オリジナルよりよくなった」と言うと、ピーターが「25年経って やっと演じられるようになった」と答えたと。そのあとに続く、「どこか頭の隅の―記憶装置の中にまだちゃんとある/四半世紀も前に話した事が残ってるんだ/それをどこかから呼び起こして/もういない青年の頃の自分に―うまく合わせられるかどうかだ」というオトゥールの感想もなかなかよかったです。(そのあとにアレンビーとロレンスの心理戦の場面が挿入されているので、この部分があとで吹き込まれた部分だということがわかる。)

 次に、スティーブン・スピルバーグ「アラビアのロレンス」を語るより引用します。

 娯楽映画のために史実が
 ねじ曲げられてしまう事は
 賛成できないし
 歴史を軽視する事になる
 
 だが一部には芸術的解釈が
 許される映画もある
 
 この映画は
 ロマンに溺れることなく
 ロレンスの
 実人生を追っている

 この作品を今 撮影したら
 制作費は3億ドル近くなる
 しかもCGを使って再映画化する
 としたら それは冒涜だ

 ロケ撮影ならではの要素と
 卓越した脚本があるから
 この作品は名作なのだ。 (引用終わり)

 などなど、彼のこの作品とリーン監督に対する並々ならぬ尊敬と愛情の感じられるインタビューでした。「ロマンに溺れることなく」という部分には激しく同意しました。

 プロデューサーのサム・スピーゲルについて、ヤリ手だったが”イヤな人物”で煙たがられていた、と評し、ロケ地の条件が”スピーゲルが来られない場所(=ヨルダンの砂漠)”だったというオマー・シャリフの証言には笑った。

 

 

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「 アラビアのロレンス [完全版] 」

 ずっと映画館の大スクリーンで観なければこの映画の本当のよさは味わえないのでDVDを観るのは止めておこうと思っていましたが、”ピーター・オトゥールのロレンスを観たい!”という誘惑に抗しきれずに、DVDを借りて来ました。

 この映画を初めて観たのは、中学生の時、映画鑑賞の授業でだった。(当時の状況がはっきりしないのですが、日本での初公開からはかなり年数が経っていたのでリバイバル上映だったのだろうか。)今でも鮮明に思い出します。冒頭のオートバイからのいきなりこちらをざわざわさせるような不安定な視点の画面、ロレンスがひとりラクダに乗って砂漠の岩山に向かってイギリスの唄を大声で歌うシーンや、ガシム救出の場面でラクダが勢い余って行き過ぎる場面で起こった笑いのこと、途中休憩があるほど長い映画というのも初めてだったし、ラストの車でアラビアからイギリスに帰還するシーンもとても印象に残っていた、が、何よりも、大画面で観る砂漠とピーター・オトゥールの美しさに圧倒された。それから何回観ただろうか。名画座やTVで。でもやっぱり映画館の大スクリーンで観るべき映画だ。TVで放映されたのを観て、かなりがっかりしたことがあって、その後、映画館以外で観ることを封印していたのですが・・・・。(完全版が出てからもかなり経っているのに。)

 というわけで観ました、完全版。付け加えられたシーンがあるらしいのですが―オリジナルの記憶も曖昧になっていて、ここかな?と思うくらいでしたが―当時のロレンスがどういう状況の中でアラビアに行き、帰ったのかは理解しやすくなっていた気がしました。英国の本音、とか、それを知ったロレンスの葛藤や失望とかも理解しやすくなっていたと思います。映画はやはり、素晴らしかったです。そして、もう一度、映画館で観たい!と改めて思いました。特に、砂漠のシーン。冒頭の、カイロのイギリス軍司令部でのロレンスの置かれていた状況や彼の性格(博識だけれども少しエキセントリックで当時の上官からは役に立たないと疎まれ、周囲からも変人として少しはみだしている)が説明されるシーンから、ロレンスのマッチの火を吹き消すひと吹きで、真っ赤な太陽が地平線から昇ってくる砂漠のシーンへの鮮やかな場面転換や、ハリト族の族長アリが地平線の蜃気楼の中の小さな黒い点から段々と近づいてくる登場シーンなどは特にそう思いました。そして神の存在を信じたくなるような砂漠の見せる色々な表情も映画館の大スクリーンで観てこそだと思います。自然の偉大さとその中の人間、あるいはひとりの人間の可能性と限界を砂漠を背景に鮮やかに(これぞ映画だという風に)描いた見事な映画です。

 以前は、彼が英雄”アラビアのロレンス”となっていく「アカバ攻略」までの冒険物語のような前半部分に比べて、理想と現実のギャップに悩み始める後半部分は、敗走するトルコ兵の虐殺シーンのような陰惨な殺戮シーンもあって、観るのが辛かったのですが、完全版となって、逆に、彼を只の英雄としてだけではなく、戦争の狂気や自己の残虐性などに悩み、それでも猶、アラブの独立という純粋な学者的理想をあきらめずに動いた彼の姿には、こころを打つものがあり、今回は、後半部分が印象深かったです。山賊のような護衛を引き連れてダマスカスへ出発するシーンは、その後に起こることを予感させるようなある種、狂気を孕んだ熱狂と、決意を感じさせて、圧巻でした。(以前は、アカバ攻略への出撃シーンの明るさに比べて、異様さのみが目について苦手に感じていたシーンでしたが。)そして敗走するトルコ兵の虐殺シーンにしても、それにいたるまでの前段がしっかり描けているので、(まず、トルコ兵によって蹂躙され虐殺された村の惨状にショックを受ける彼らの姿が描かれ、その村の出身者が軍の中にひとりいて、彼が「捕虜はいらねえ/皆殺しだ 」と言って剣を掲げてひとり切り込んでいき銃弾に倒れる姿を見たあとに、ロレンスが彼と同じ号令をかけるのだ。)ここは、私たちが彼の今回の軍隊に抱いた予感が当たるとともに、戦争の現実と狂気を描くという点でも重要なシーンとなっている。
 そして、後半部分で問題にされたりする、アラブ人の恰好をした彼がデラアという街でトルコ兵につかまって、ムチ打ちの刑を受けるという、(一説には、同性愛行為を強要されたと言われていますが、)彼のマゾヒズムや同性愛的傾向が仄めかされていると言われているシーンがあるのですが、(最初に観た時には、その後の彼の心理などがわかりにくかったシーンだったのですが、付け加えられたシーンのためか、私の理解力がアップしたためか、今回はよくわかりました。)映画では、(彼のそういう側面があからさまに描かれることはなく、さらっと描かれていますので、スキャンダラスに騒ぎ立てるようなシーンではないと思いますが、)自らのアイデンティティーの確認=自分はアラブ人ではないということを確認する契機となった事件として、その後のロレンスの心境の変化につながっていく描き方をされていた。そして、エルサレムに行きアレンビー将軍に会って、転属を願い出るが、聴き入れられず説得され(アレンビーは、「君は国民的な名声を得るが/わしの名は軍事博物館に残るだけだ 」とか「 君は2人といない逸材だ 」とか「 天命を受けた人間は少ない 」とかの言葉で巧みにロレンスの自尊心をくすぐり、それに対するロレンスも将軍やイギリスの本音を知りながら決意するこのシーンはなかなか迫力があります)、ダマスカス総攻撃にアラブ軍を率いて(将軍の軍に先んじてダマスカスへ入城すること、”サイクス=ピコ協定”の破棄を目指して)加わることを決意する。それが、上に書いた、鬼気迫るダマスカスへの出撃シーンに繋がって行くのだ。同僚の大佐によって”神がかり”と表現されるような・・・。しかし、結果は、ダマスカスを前にロレンスに手渡されたダマスカスの葡萄がまだ”熟してない”ことによって暗示されていたのだが。

 この映画の成功の原因のひとつにキャスティングの妙、素晴らしさがあるが、ロレンスの脇を固める、知的で冷静で謹厳実直なハリト族の族長アリ役のオマー・シャリフとともに、彼とは対照的に、血の気が多く、損得でしか動かないようなハウェイタット族の族長を演じているアンソニー・クインの醸しだすえもいわれぬ雰囲気が、この映画の抜群のアクセントとなっています。その表情、動き、しゃべり方、どれを取っても文句のないほどの存在感です。(何せ、映画「道 」のザンパノーですから!)そして、その一見、粗野で無知に見えるアウダに、時々、とても鋭い洞察力を感じさせるセリフを吐かせてます。例えば、アカバ攻略時、アカバの大金庫にロレンスがあると言った金貨はなく、紙幣しかないと知った時、「(ロレンスは)完璧な男ではないな 」と彼を評したり、ダマスカスで開かれたアラブ国民会議が分裂、崩壊、解散したあと、失意のロレンスに「 わしと(砂漠へ)行こう 」と言って、彼に「 砂漠などもう二度と見たくない 」と断られ、「 来るさ (砂漠の)他に行き場がない 」と言ったり、ロレンスに別れを告げたあとで泣いているアリに対して、「アラーに感謝しろ/ アラブに生まれたのは辛い思いをしろという事だ 」と言ったりします。まるで風変わりな預言者のような彼の言葉は、アラブやロレンスの真実を突いているのです。そして、アリに語った最後の言葉が表していたアラブの現実は現在もまだ続いています。

 実際のロレンスのアラビアでの活動が、この映画の「アラビアのロレンス」に描かれているように、アラブの独立という理想を目指したものであったのかどうかについては、いろいろな説があって、アラブ側から見た否定的な意見も出ているようですが、イギリスの軍人でありながら、アラブに魅かれ、アラブの独立ために戦うという矛盾に満ちた彼の戦いの本質的な部分は、この映画によってかなり忠実に表現されているのではないかと思います。だから、この映画がひとのこころを捉えるのだと思う。その部分が、完全版になったことで、よりこちらに伝わって来たような気がしました。

 
 ダマスカス市庁舎で、アリとロレンスが最後に交わした美しい会話、

 
 アリ 「 君は必死でこの町を与えようとした 」

 ロレンス 「 そう願った

        夢だった

        だが役に立ったか? 」

 アリ 「 ああ大いに 」

 

 
 

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映画「リバティーン」

 ジョニー・デップ主演のイギリス映画「リバティーン」をDVDで観た。
  
 感想は、・・・・うーん、万人にお勧めするという映画ではありませんが、(R15指定だし―17世紀の王政復古のイギリスの退廃的な面が描かれている)、(以下多少ネタバレあり、)デップ演じる主人公のイギリスに実在した天才詩人、第二代ロチェスター伯爵ことジョン・ウィルモットは、最期には、飲酒と性病(梅毒)で、美しかった容貌が、目をそむけたくなるほどぼろぼろに崩れて―鼻は崩れかかり、目は失明しかかり、皮膚はできものだらけという姿になって死んでいくのですから・・・。彼の人生が、ある事件をきっかけに坂を転がるように下降線を描き始めてからのデップの演技は、鬼気迫るものがありますが・・・・。物語の最初と最後に、デップ=ロチェスター伯爵が登場して、直接観客に向かって語りかけます。最初は、挑発的に、露悪的に、そして「どうか私を好きにならないでくれ・・・」と言って。最後は、物語を観終った私たちに、「これでも私が好きか?」と質問するために。(彼のこの問に対して単純に「好き」と言えるのは、デップが演じるならなんでもYESのデップファンか、高みからの気楽な傍観者の感想だと思うけれど。)

 そんなわけで、”デップが脚本を三行読んで出演を決めた”というコピーに魅かれて借りたのですが、この映画が好きかというと、そして主人公のロチェスター伯爵に感情移入できるかというと、かなりうんざりして辟易する部分が多いのですが、特に当時のロンドンの性的な退廃を描いた主人公の心象風景のような描写には、その過剰ぶりに思わず笑ってしまいましたが、デップの演技には惹きつけられたし、ロチェスターを巡る三人の女性(妻、娼婦、女優)との関係の有り様には一番興味を魅かれた。彼は三人それぞれに愛情を感じてはいるが、妻は彼の最も我慢できない田舎の静かで退屈な生活の象徴なので、彼はそこから逃れ続けようとするし、娼婦は彼がもっとも気を許してくつろげる存在で、彼女は彼が病気を患ってからも、彼に付いて生活を共にするが(監督の解説によると彼女は、彼より少し前に亡くなったそうだ)、彼に対して娼婦と客という以上の愛情があったと思うと、その一生やその愛は何かとても悲しくて肯定できない。私が一番感情移入できたのは、三人目の女性、女優のリジー(エリザベス)・バリーの彼に対する態度だった。映画では、彼女のことを彼が唯一愛した女性として描いているが、このふたりの接近していく様子は、ほかの関係とは違って、「魂にひかれた」と主人公が告白するように、すぐには肉体的な関係にはならず、最初は彼女をロンドン一の女優にするための純粋な演技指導として始まり、彼にとって彼女が他の女性とは違う存在として描かれている。娼婦のジェーンが「おっぱいでなく魂にひかれるとやっかいよ」と予言していたように彼女に惹かれていくロチェスター。しかし彼の芸術的才能は認めていたけれど、その愛の気まぐれさをわかっていた彼女は、彼を愛してはいたが、自らを守るために(生きていく、女優として成功するために)彼からは距離を置いて、大女優となっていくのですが、物語の最後に、最初と関係が逆転したように、惨めな姿で彼が舞台裏に現れて、自らのあり得たかも知れない人生への後悔を滲ませながら、彼女への真実の愛を告白しに訪れたときに、「君を妻にしたかった」 「もし子どもがいれば違っただろうか?」などと切々と訴える彼に、「子どもは劇場が休みのとき、ひとりで産んだ。」(これに対して、ロチェスターは「ふたりの愛の結晶だ。これまでの子どもには感じたことの無かった命の重みを感じる。」と言う。)「あなたは、私に人生を生きるすべ(演技)を教え、私はあなたに人生のよろこびを教えた。これで貸し借りなしね。もう合うこともないわ。」と別れを告げて、舞台へと出て行く。言葉は冷たかったが目には彼への隠せない愛と涙を見せながら。(そのあとのデップのなんとも言えない表情はこころを打つ。)そして、死期を悟った彼は、田舎に待つ妻のもとへ。ここで夫婦は物語の冒頭に交わされたのと同じ会話(このふたりにとっては性的な興奮を高めるための合図であった若き日の出来事)をして、妻が彼の最期を看取る。そして、最後にデップの「これでも私が好きか?」のモノローグ。

 DVDには監督の解説の音声が付いていて、それを聞くと、各人物の性格や当時の時代背景がさらによくわかるようになっている。

 私は、いくらデップの演技に惹きこまれたからといっても、この主人公のことを好きとは言えない。もしそばにいたなら、リジーのように私も自分を守るだろうと思う。リジーとのありえたかもしれないもうひとつの人生を可能にするには、彼はあまりにも当時の英国の退廃的な習慣に浸りすぎていたのだ。最後のモノローグで、彼は「これは死の床で回心した敬虔な放蕩者の物語だ」と言っていたが、私には、彼の「これでも私が好きか?」が、「私はこうしか生きられなかったのだ。」に聞こえた。伝記によると、彼は遺言で、これまでの卑猥な作品や手紙を全て焼却するように頼み、今度生まれてくるときには、醜怪な人間以外に生まれてきたい、と言い残したそうだ。映画では、この時代の英国の退廃や彼のような人物を産んだ時代背景や宗教的な背景は簡単に説明されるだけなので、映画を1回観ただけでは、彼の心理はわかりにくいものがありましたが、(監督の解説によってかなりわかりましたが、)カトリックとプロテスタントの問題などを調べてから観たら、彼の最後の演説などの意味もわかりやすかったと思う。

 私が、この映画のロチェスターのセリフで一番印象に残っているのは、リジーに「何故観客は私の演技を嫌うのか」と聞かれて、「私の経験からすると、嫌う理由は無知か嫉妬だ。」と答えたところです。「そうだよねー。」とうなずいていました。

 この映画万人向けではないと思いますが、妙にあとを引くようななにかがありました。ジョニー・デップという俳優の魔力かもしれませんが。そうそう、前にgooに書いたと思いますが、現実の彼は家族を大切にするよい家庭人みたいで、インタビューで「 僕はもう悪は充分経験したのでいいんだ。 」と答えていたことを付け加えておきます。

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もっと悲しみを~中也の絶対音感~

 ハルキ文庫版の「中原中也詩集」の樋口覚氏による解説、「中原中也―「歌」への奉仕」で、一番印象に残ったのは、中也の詩は「中也にのみ固有な絶対音感を伴っていた。」というところだ。樋口氏はその特質を「歌」であると表現している。そして、そんな中也の「歌」は、時代の大きな流れがすくいとれなかった「小さな声」「いとけなき魂の声」を代弁しているのだと。そして「それは感傷的な哀歌ではなく、近代という時代の傷口に正確に対応していた」のだと。

 生きていくうえで、悲しみを経験せずに一生を終えられるひとはまずいないでしょう。命に限りがあるかぎり、どんなに幸福なひとにも愛するものとの別れは避けられない。そんなときに中也の歌が、彼の悲しみの定義が、彼のあの祈りのようでさえある言葉が私たちを慰めてくれるでしょう。詩人がその言葉を紡ぎだすのに、どれほどの営為があったのか、凡人には及びもつきませんが、芸術作品のうらには、建築家のような緻密な思考や分析や構築が、そして自らの不幸でさえも客観視する冷静な頭が必要です。芸術は天才の一瞬のひらめきや酒に酔うような酩酊だけからは生まれない。そして中也の詩には、彼の詩を凡百の流行歌や自己陶酔的韻文や散文などから区別する”絶対音感”があった。それが現在においても彼の詩が受け入れられる理由だと思います。

 落語家の談志師匠は、何を言ってもずーっと笑い続けている客に対して、途中で噺を止めて、「ここは笑うところじゃないんですけどね。」と説教したことがあると言っていましたが、私たちに必要なのは、可笑しくも無いのに笑い続けること、ではなくて、悲しみをちゃんと悲しむこと、ではないのかなと思います。幸福なひとには必要ではないでしょうが・・。


そう言えば、今朝の「日本語で遊ぼ」で中也の「月夜の浜辺」をやっていましたね。それと、最初に書いた樋口さんの解説に、村上龍の小説「インザ・ミソスープ」に中也の「除夜の鐘」のことが出て来ることが紹介されています。この小説は読んでないけど、村上龍の感覚を少し見直した。


  除夜の鐘


 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
 千万年も、古びた夜の空気を顫(ふる)はし、
 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 それは寺院の森の霧(けむ)つた空・・・・・・
 そのあたりで鳴つて、そしてそこから響いて来る。
 それは寺院の森の霧つた空・・・・・・

 その時子供は父母の膝下(ひざもと)で蕎麦(そば)を食うべ、
 その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出、
 その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ。

 その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。
 その時囚人(しうじん)は、どんな心持だらう、どんな心持だらう、
 その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。

 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
 千万年も、古びた夜の空気を顫(ふる)はし、
 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

    詩集 「在りし日の歌」より (参照:「中原中也詩集」/ハルキ文庫 )

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中也の詩の紹介

 今回、読んだ中也の詩のなかから、気に入った詩を紹介します。他にもたくさん気に入った詩はあるのですが、今回は、今の季節に合わせて、ロマンチックで静謐なイメージのものを選んでみました。


    時こそ今は・・・・・・
            時こそ今は花は香炉に打薫じ
                    ボードレール

  
  時こそ今は花は香炉に打薫(うちくん)じ、
  そこはかとないけはひです。
  しほだる花や水の音や、
  家路をいそぐ人々や。

  いかに泰子、いまこそは
  しづかに一緒に、をりませう。
  遠くの空を、飛ぶ鳥も
  いたいけな情け、みちてます。

  いかに泰子、いまこそは
  暮るる籬(まがき)や群青(ぐんじょう)の
  空もしづかに流るころ。

  いかに泰子、いまこそは
  おまへの髪毛(かみげ)なよぶころ
  花は香炉に打薫じ、

     
         詩集 「山羊の歌」より (参照:「中原中也詩集」/ ハルキ文庫 )

 もう一篇、紹介します。


     湖上

  ポッカリ月が出ましたら、
  舟を浮べて出掛けませう。
  波はヒタヒタ打つでせう、
  風も少しはあるでせう。

  沖に出たらば暗いでせう、
  櫂(かい)から滴垂(したた)る水の音は
  昵懇(ちか)しいものに聞こえませう、
  ――あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。

  月は聴き耳立てるでせう、
  すこしは降りても来るでせう、
  われら接唇(くちづけ)する時に
  月は頭上にあるでせう。

  あなたはなほも、語るでせう、
  よしないことや拗言(すねごと)や、
  洩らさず私は聴くでせう、
  ――けれど漕ぐ手はやめないで。

  ポッカリ月が出ましたら、
  舟を浮べて出掛けませう、
  波はヒタヒタ打つでせう、
  風も少しはあるでせう。


     詩集 「在りし日の歌」より (参照:「中原中也詩集」/ハルキ文庫 )


 さらに、もう一篇、今度のは恋歌ではありませんが紹介します。


    生ひ立ちの歌


     Ⅰ

    幼年時
  私の上に降る雪は
  真綿のやうでありました

    少年時
  私の上に降る雪は
  霙(みぞれ)のやうでありました

    十七――十九
  私の上に降る雪は
  霰(あられ)のやうに散りました

    二十――二十二
  私の上に降る雪は
  雹(ひょう)であるかと思はれた

    二十三
  私の上に降る雪は
  ひどい吹雪とみえました

    二十四
  私の上に降る雪は
  いとしめやかになりました・・・・・・

      Ⅱ

  私の上に降る雪は
  花びらのやうに降つてきます
  薪の燃える音もして
  凍るみ空の黝(くろ)む頃
  
  私の上に降る雪は
  いとなよびかになつかしく
  手を差伸べて降りました

  私の上に降る雪は
  熱い額に落ちもくる
  涙のやうでありました

  私の上に降る雪に
  いとねんごろに感謝して、神様に
  長生したいと祈りました

  私の上に降る雪は
  いと貞潔でありました


     詩集 「山羊の歌」より (参照:「中原中也詩集」/新潮文庫 )


 最後に紹介した詩のように、時代や病気や三角関係や愛児の死などのさまざまな不幸によって彩られているような中也の短い生涯でしたが、そんななかにも最初の二編にあるようなひとときがあったことを思うと少しホッとします。(現実の恋はこの詩のような静謐なものではなかったでしょうが・・・。)

 不幸や悲しみさえも美しい言葉に変える詩人は、「言葉の錬金術師」ですね。私たちの感情は、詩人によって、名付けられ、定義され、普遍化されるのを待っている。


     


  


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