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主役の魅力不足とファンタジーの不足(「華麗なる一族」中心に)

 今季のドラマをざっと見渡して、私はキャスティング重視(いまいちだと思っても、気になる俳優が出ているとけっこう見てしまう)なので、そんな意味では(今季、観たいのは「華麗なる」の一之瀬四々彦役の成宮寛貴君くらいなので)、不作だなあ感は否めない。好きな俳優が出ている作品は、大体の場合好きになることが多いのですが。

 「華麗なる一族」の2回目の視聴率が下がったみたいですね。高視聴率のドラマは、私にとっては、つまらないことが多いので、よい傾向かな、これは・・・。私はまだ判断保留中ですが。今のところ、脇役陣には殆ど不満は無いのですが、肝心の主役のふたり、キムタクの演技が(鉄平は、はまり役のはずなのに)どうしても気になってしまうのと、欣也さんが(趣味の問題ですが)微妙なので、ドラマに集中できない。キムタクは悪くはないけれど、よくもない。なんて言うか、観ているこちらを惹きこむようなオーラが今のところ感じられない。達者な脇役陣相手にいっぱいいっぱいな感じは今のところ否めない。だから、経済ドラマの部分での脇役陣の演技は安心して観ていられるし、充分おもしろいし、四々彦と二子の恋愛にも注目なのですが、今のところ、やはりわくわく感はない。これから鉄平や彼の会社は追い詰められていくことになるのだろうから、そうなると・・・キムタク次第ですね、やはり。いわゆるキムタクの陣地から出た彼がどこまでやれるか、でしょう。それにしても、高須相子のような女性は今でもいると思うけれど、あそこまで露骨なのは現代では考えられないので、ちょっと、その辺りの古さに女性として拒否反応がありますね。経済ドラマとしては、問題ないと思うけれど、人間を陳腐にならずに描けるかだろうけれど、相子、寧子、大介の関係は現代的感覚の理解を超えているので、一種の時代劇として観ればいいのかもしれませんが、単なるノスタルジーや退廃ごっこではない、現代とリンクする何かを描きたいのであれば、寧子の性格等に現代的な脚色があってもよかったのではと思ったりします。(キムタクファンの子どもが観ているからとかの理由ではなくて。)この辺りのいらいらは、二子の恋愛が中和してくれるのでしょうが。で、わくわくしない、というのは、やはり、今季のドラマ全般に言えるのが、総じて、主役の魅力不足と物語にファンタジーが不足しているからだと思います。この場合のファンタジーとは、一例を上げると、「ごくせん」は絵空事っぽいが、「野ブタ」には良質のファンタジーがある(一般に”絵空事=単純のほうが視聴率はよい”ということを皮肉を込めて指摘しておきますが)、という広い意味でのファンタジーです。それには、現実の閉塞感を打ち破るような力強さが含まれているので、ちょっと悪ぶったり退廃ぶったりする小手先の演技からは生まれて来ないものです。日本の文学に一番欠けているものと言ってもいいと思いますが。個人的にも、私は”退廃的”表現とかにはあきあきしているし、というか、あってもいいんだけれど、そこに深みや凄みがないと笑ってしまうほうなんで・・・。

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「野ブタ」最大の謎~母親の不在について

 「野ブタ」に描かれていた世界を観てきて、ずっと気になっていた、このドラマの世界の最大の謎について、少しだけ書いておきたい。少しだけと言うのは、私は心理学の専門家ではないので、私の解釈が心理学的に正しいかどうかわからないし、したがって、これから書く文章が、とりとめのない印象のみを書き連ねることになる可能性が大きいと思うからです。
 
 ドラマ(原作は読んでいなので)「野ブタ」の世界の最大の謎とは、ドラマの世界からの”徹底的な母親の排除(不在)”です。主人公の三人を見ても、かろうじて登場する修二の母は、仕事で海外を飛び回っていてほとんど家におらず、たまーに家に帰ってきた時も、ひたすら寝ている姿のみで、すぐにまた海外へ、というかなり異常とも言える母子関係に見えるし、裕福な実家を出てひとりで下宿している彰にしても、下宿に訪ねて来るのは父親のみで、母親はオイちゃんの昔話のなかに出て来たくらいで(セリフはなし)、野ブタにしても描かれるのは、母親の再婚相手の父との関係のみで、母親はまったく姿も見せない。豆腐屋のオイちゃんにしても独身みたいだし(オイちゃんの女性関係として、健康食品を売りつける旅館の女将というのがいるらしいが・・・)、このドラマは母親的なものを徹底して排除して造られている。それは何を意味するのか?と言うか、ドラマとは反対に、現実に不足がちなのは殆どの場合、”父性”のほうで、不在がちの父親の役割まで担わされている母親のあり余る母性の海に溺れてなかなか自立できないのが、日本の親子関係の問題点だったりするのだが、その現実とは反対に、ドラマでは彼らは強制的に母親からは切り離されて登場する。桐谷家の場合、母親はチリのブタのお守りを子どもたちに贈ったり、修二にメールしたりはしているし、子どもたちが母親のことを大事に思っている様子も描かれていたが、しかし、母親とのスキンシップは(特に小学生の弟に関しては)絶対的に不足しているし、そんな母親の代わりに、桐谷家で母親の役を担わされているのが修二だったりする。よって修二は料理も裁縫も得意で、最終回で、ひとりでこちらに残ったらという父親の言葉にも関わらず、家族と一緒に引っ越すことを決めたのも、小学生の弟のためという母親的な気遣いからだし、母親の不在と言う桐谷家の状況が、修二にそういう選択をさせて、彼の性格形成に大きな影響を与えている。ドラマの制作者の意図はわからないが、人からどう思われているかや、外見を必要以上に意識しすぎる(完全主義のセルフプロデュース)なんていうのは、あきらかに女性的な感性だと思うし・・・。(過剰過ぎることが問題なのだと思いますが。)
 
 面倒くさくなったので結論を言ってしまうと、現実の日本の社会では、不足しているのは圧倒的に父性のほうで、母性が過剰なバランスの悪い状態になっている。このドラマでも、最初に野ブタをいじめるバンドーのグループや、最後まで残った悪意の真犯人カスミなどのように、人間の負の側面を描くのに女子が選ばれているのも、母性と父性のバランスの悪い(母性の過剰から来る)日本の状況の問題点を反映していると思う。だから現実の母性の過剰を抑えて正常なバランスにするために、ドラマから徹底的に母親やそれに類するものが排除されているのだと思う。私は、母性の過剰というバランスの崩れは、イジメの原因にもなっていると思う。そんなこのドラマの中で、女性(母性)の肯定的な面を体現していたのが、教頭先生のキャサリンと野ブタだったが、野ブタはまだ成長途中だし、ドラマの母性の不足を一手に引き受けていたのが、キャサリンだった。そして、現実の父性の不足を補うように、ドラマでは父親との関わりのみが描かれている。そして、セルフプロデュースの泥沼でもがいている修二は、女性化した社会に適応しすぎて、却って生き苦しくなってしまったのだと思う。そんな修二の性格形成や行動パターンには、母親の不在による母親役の影響がやはりあるのではなかろうか。そんな修二にとって、バランスの取れた成長をしている彰と、母性のよい面を体現している野ブタとの出会いは、自分が正常なバランスを取り戻すための最高の出会いだったのだ。

 それにしても、修二と言い、弘人と言い、どうしてこういつも亀梨君は背負わされてしまうのだろうか。まあ、見ているほうは、面白いんですけど。

 

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「野ブタ。をプロデュース」~一年遅れの感想

  一昨年の秋から冬にかけて放送されたドラマ「野ブタ。をプロデュース」のDVDを、遅まきながら借りて来て、一気に観ました。このドラマ、放送中は殆ど観てませんでした。野ブタとシッタカ君とのデートの回と最終回は、少しは観てましたが、私は、元々、学園ドラマー青春物に先入観みたいなものがあって、あまり好みではない方なので、食わず嫌いのように見逃していました。それを今回観ようと思ったのは、あるブログの、このドラマについての感想と言うより解説と言ってもいいような記事を読んで興味を惹かれたからなのですが。(興味のある方は下記より訪問してみてください!)

 ※参考記事「生きる場所を求めて~野ブタ再考」(ブログ「テンメイのRUN&BIKE」)

 と言うわけで詳細な分析と詳しい感想はテンメイ氏↑におまかせして、私は、一年遅れではございますが、簡単な感想をちょっとだけ書かせていただきます。

 主人公たちに”感情移入”するには、余りにも年を喰いすぎている私ですので、三人の中で誰が一番可愛かったかと言うことにしますと、それはもう 「アキラッ!」(野ブタ風に発音!)です。彰を見ているとホッとしました。ちょっとだけ変で、クラスでは浮いていたり、みんなからウザがられたりしているけれど、本人は、そんなことにはお構いなしに素直で、率直で、わかりやすくて、本当に可愛い!!お化け屋敷の準備で野ブタといっしょにススキを取りに行くところとか、”ホントおじさん”に追いかけられて、思わず「野ブタが好き」と言ってしまって、ビックリするところとか、シッタカとのデートの後で落ち込んでいる野ブタを優しく励ますところとか、後で、そんな自分にマジで照れるところとか、修二への嫉妬からやってしまったことで野ブタにグーで殴られて鼻血を出しながら倒れても可愛い ♥極めつけは、野ブタを泣かせた自分には野ブタを好きになる資格は無い。「ひとを好きになるには資格がいるの~」と修二に言って、休日の校内放送で野ブタへの気持ちを告白してあきらめる場面は最高!「野ブタ~!好きだ~!」のあとの、「野ブタの読んでいる本が好きだ。野ブタの歩いている道が好きだ。野ブタがいる屋上が好きだ。野ブタのいるところがぜんぶ好きだ。」のポエムのようなフレーズもいい。上記の記事でテンメイ氏が見抜いていたように、彰の無邪気に見える明るさは修二よりも精神的にオトナな明るさなのだ。最終回の修二が転校することを知ってショックを受けている野ブタに声をかけようとして追っかけるが、野ブタの修二への気持ちを知っている彰は、自分には何もできないと悟り、修二を呼びに引き返す。切ない。アキラ・・・。

 それに比べて、主人公の修二は、見ているこちらも苦しくなる。本人が自宅のベッドの上で、「ウソを吐くのは苦しいよ~」と言ってセルフプロデュースの演技のシンドサに、ひとり身悶えして苦しんでいたように。でも私自身は修二が悩んでいる次元では悩んでいないので、彼の精神的な悶々を客観的に眺めさしてもらいましたが、彼がどんなにクラスの人気者を演じていても、所々で本音がポロリと出るところや、その人気者の演技が破綻して、クラスのみんなからシカトされるところや、その過程での野ブタや彰との付き合いの中での修二の変化や成長が、この物語のメインテーマなのですが、(原作は読んでいないので、これもまたテンメイ氏の解説によるのですが)ドラマの修二には、最後、原作の修二のように―人気者の演技に失敗して居場所がなくなり、別の学校で、新たに「桐谷修二」のセルフプロデュースを始めるために転校する―というような自閉的なシシュポスの神話的な暗さはなく、転校先に”分身”の彰はくっついて来たものの、精神的にひとつうえのレベルに抜け出した明るさがあって、その点で私は原作よりもドラマの結末を支持します。そして、そういう点で、彰も修二もふたりとも、悩みがあるだけ可愛い奴らなんですけどね。野ブタが本当の修二の優しさとその辛さに気付いていたように。そして、これからの修二の課題は、彼がとても恐れていた”自己の感情がむき出しにならざるを得ない状況”=本当の恋愛、を経験することですかね。という意味で、ドラマは、野ブタを女の子にしたことと、彰という分身=本音を登場させたことによって、原作よりも、青少年にとって明るい未来を指し示す良作になったのではと思います。「それでいいのだ!」とバカボンのパパのように呟く私です。


 

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新春ドラマ「佐賀のがばいばあちゃん」(追記あり:子役の広田亮平君のこと)

 1月4日の晩にフジTV系列で放送された新春ドラマスペシャル「佐賀のがばいばあちゃん」(島田洋七原作)を観ました。泉ピン子さんのことは、どちらかと言うと苦手だったのですが、このばあちゃん役は、ぴったりのはまり役で、その他の脇役陣も、小学校低学年と、高学年から中学校時代を演じたふたりの子役もそれぞれよかったです。実は、あまり大々的に宣伝されるドラマや映画は敬遠する私が、このドラマを観たのは、次男が「観る」と言ったのに付き合ったからなのですが、観て損は無かったと思えるドラマでした。話題になった原作は読んでないのですが、原作のばあちゃんの雰囲気はかなり忠実に表現されているのではないかと思いました。この物語のテーマを簡単に言ってしまうと、「逆境を楽しみながら生きる」(サブタイトル)には「ユーモアが必要!」と言うことではないでしょうか。ユーモアは生きる、生きのびるための”魔法の杖”だと思います。いろいろと悲惨な事件が起こってますが、そんな彼らの周囲に、こんな知恵とユーモアのある言葉をかけてくれるばあちゃんがいたら、発想の転換ができて、行き詰ることもなかったのでは、と思ったりします。

 以下、こころに残ったばあちゃんの言葉(記憶が曖昧なので正確ではないですが)を紹介します。

  
  主人公に「うちは貧乏なのか?」と聞かれて、

 「今ごろ気付いたのか」

 「安心せい、うちは先祖代々貧乏やから、・・・・お前継ぐか?」と言う。

 そして、「 貧乏! 」とからかわれたら、

 「悔しかったら貧乏になってみろ!、と言い返せ」と言う。

 そして、「金持ちになったら、旅行に行ったりとかいろいろ忙しくて大変だ」と説明する。

 (この場面のばあちゃんの語り口ー知恵、の説得力は、かなり勉強になった!)

  
  夜半に、主人公が空腹で目覚め、「腹が減った」と言ったら、

 1回目 「 気のせいだ 」、
 
 2回目 「 夢だ 」 (主人公あきらめて寝る) とか、

  
  主人公が中学校で野球部のキャプテンになったと知って、いっしょにスパイクを買いに行き、

 ばあちゃん 「一番高いスパイクをください!」

 店主 「二千○○円(位だったと思う)です」

 ばあちゃん 「そこを何とか一万円で!」

 店主 「だから、二千○○円です!」

 ばあちゃん 「そこを何とか一万円で!」 (以下押し問答)

  
  勉強の苦手な主人公に、

 英語の答案には、 「私は日本人です」
 
 歴史の答案には、 「過去にはこだわりません」 と書いとくようにアドバイス(実行して怒られる)


その他、小学校の担任の先生(小日向文世)の運動会の日の、弁当についての、こころ優しきウソについて、そのことを聞かされたばあちゃんといっしょに泣きました!他にも、参観日に来る母の似顔絵を描くクレヨンを買うエピソードも(結局来れなかったのですが)よかったです。
 
 次男に、どこが印象に残ったかと聞いたら、主人公の”母を想う気持ち”だそうです。広島で働いている母親(石田ゆり子)が参観日に来る来ると言いながら、結局いつも来れなかったりするのを―小学校時代、1回だけ来るシーンもよかったです―「可哀想やね」、と言っていましたが、このドラマが描いている貧乏について、彼がどこまで理解したのかはわかりませんが、はっきりしたものではなくても何かは感じたとは思います。私も、あのばあちゃんのように、子どもに生きのびるための知恵のある言葉をかけられるようになりたいと思うような”がばい”ばあちゃんでした。
 (続編が作られそうな感じでした。)

追記:1月8日にフジで放送された「東京タワー」で主人公の子ども時代を演じていたのは「がばいばあちゃん」のあの子(広田亮平君)でした!こちらでも、お母さん子で甘えん坊な感じがとてもよく出ていて、いい味出していました。(転校先の小学校へ行く前に、「 お腹が痛いから行きたくない 」とごねるのを、近所の皆に笑われるなか、お母さんに無理矢理連れていかれるところや、あいさつ前に教室から逃げ出すところなど。)

 ところでリリー・フランキーと言えば、わが家では教育TVで放送されている、「おでん君」というアニメの作者として知られていますので、こども達もドラマを観ていたのですが、放送後、次男の様子がおかしいのです。何か不機嫌で泣きそうになっているので、わけを尋ねると、ドラマの親子の別れのシーンで、自分もいずれはあのようにと思うと悲しくなったようなのです。そうか、そうか、まだまだういやつよのう、と母は思いました。

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新年のごあいさつ

 あけましておめでとうございます。
 新年も、もう5日になりました。でもなかなか書きたいテーマが見つからないので、ひとまず新年のごあいさつをしておきます。
 みなさん、今年もよろしくお願いします。

 去年から今年にかけて、フィギュアの番組が結構あったので、gooブログに、フィギュアスケートについてちょっとだけ書いてますので、よかったら訪問してみてください。

 みなさんにとって2007年がよい年でありますように。
 
 そして、こころ震わされるような芸術との出会いが今年もありますように。

 

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