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「存在の耐えられない軽さ」、「ライアンの娘」、デュラス、馳星周・・・~エロティシズム考~

 こんな表題を書きましたが、看板に偽りありなので、あまり期待しないでくだい。

 前記事で馳星周氏の小説「鎮魂歌」と「長恨歌」のことを書いた時に、その中の性表現について感じた事の関連でちょっと書いてみようかという程度なので。

 小説でもっとも官能的だと感じたのは、やはりデュラスの「ラ・マン」です。そういうシーンのみが官能的というわけではなくて、小説全体から官能性があふれているような作品。例えば、淡々とした描写の積み重ねのような細部がすでに官能的なのだ。主人公やその愛人の着ている服や化粧などを描く、(訳者によって、「こころよい音楽をひびかせる」、 「すこしも湿ったところのない叙情性」と表現されている)その文体がすでに官能的なのだ。

 
 それに比べて、馳星周の作品はどうかというと、こういう小説のお決まりのように性的なシーン(暴力をからめた)はふんだんにあるのだが、そういうシーンからはエロスがほとんど感じられない。お約束のような言葉遣いと描写に却って白けてしまう。エロスやエロティシズムはそこにはない。そういうものの入り込む余地の無い暴力と欲望を描くのが目的なのでしょうが、なんというのか、女性からみたら、なんとなく陳腐に感じるそれらの表現(ステロタイプで詳細な表現には特に、)に白けてしまう。 

 
 ところで、映画の中の美しくエロティックなラブシーンということでは、「存在の耐えられない軽さ」と「ライアンの娘」が思い浮かびます。
 「ライアンの娘」は「アラビアのロレンス」や「ドクトル・ジバゴ」の名匠デヴィッド・リーン監督ですから、主役ふたりの(不倫の)ラブ・シーンがまるでドガの絵のように美しく丁寧に撮られています。そしてイギリス人将校への主人公の想いを、家の周囲に咲いているユリの花の花粉によって表現したりという細部の表現がとてもエロティックなのです。この映画は不倫だけを描いた映画ではないのですが、私には表現がとても官能的な映画として印象に残ってます。
 そして「存在の耐えられない軽さ」は、これも不倫なんですが、色男を演じていた頃のダニエル・デイ・ルイスとレナ・オリンのラブ・シーンがとても美しくてエロティックで印象に残ってます。
 最近は、あんまりリアルな性表現で何かを伝えようというのはちょっと古い気がしますが、この二つの映画はおすすめです。(日本だと渡辺淳一みたいなのがありますが、あんまり興味がないですね。)

 やはり文学とポルノの違いというのがあって、その差というのは、両方の性の視点があるかどうかじゃないでしょうか。(馳氏の小説に欠けているのは、そういう女性の視点ではないでしょうか。男性を主人公として描いても、やはり作者に女性の側の感性もないと物語が深くならないと思う。)

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