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追悼ロバート・アルトマン監督~映画「ナッシュビル」の衝撃

 映画監督のロバート・アルトマン監督が亡くなった。
 その作品をすべて観ているわけではない。「ショート・カッツ」、「ウエディング」は観たと思う。「ロング・グッドバイ」も観たような気がする。「フール・フォア・ラブ」も観たと思う。「マッシュ」は観ていない。「三人の女」はどうだったかな。「ボウイ&キーチ」は確か観たと思う。「プレタポルテ」を観てがっかりして、それから余り関心がなくなってしまったような記憶がある。今回彼の作品の一覧を見て、自分もかなりの作品を観ていたなあと思ったが、その反対に観ていない(関心が持てなかった)作品もかなりあると思った。そして、私の中で彼のベストワンはなんと言っても 「ナッシュビル」だ。この作品を観なかったら、彼の他の作品を観ることもなかったであろう、映画の概念を塗り替えさせられたような画期的な作品だった。そして当時の私にとって「ナッシュビル」は、全ての映画の中でも5本の指に入るくらい好きな映画だった。グランド・ホテル形式と言うのだろうか、シェリー・デュバル、カレン・ブラック、ジェラルディン・チャップリン、キース・キャラダイン他などの個性派オールスターキャストが、カントリーのコンサートが開かれるナッシュビルに集まってくる。それぞれが一癖も二癖もあるアクの強い登場人物たちのエピソードが、中心点もなく並行して語られて行くので、観ている方は、アメリカの田舎町ナッシュビルの保守的な退屈さをも含めて、それらのテンコ盛りのエピソードにだんだん疲れて、フラストレーションがたまって来るのですが、物語のフラストレーションとそれを観ているこちらのフラストレーションが頂点に達した時に、コンサート会場で、事件が起こり、会場が大混乱状態となるのですが、その状態を救ったのが、登場人物のなかでも、これまであまり目立たず、誰からも(観客からも)さして注目されなかった、歌手になりたくて家出してきた小太りのひとりの主婦の唄う唄だったのです。彼女の唄によって、観ているこちらも一気に今までのフラストレーションから開放される(カタルシス)のです。彼女が歌い始めた時の衝撃!色男のキース・キャラダインでもなく、物語の中で地元の人気スターとして紹介されていた女性歌手たちでもなく、歌手志望のひとりのおばさんの唄が、物語や私たちを救済してくれるのです。このラスト素晴らしさ!この映画はDVD化されてないようですので、この作品の素晴らしさを、このラストの衝撃を観ていただけないのが残念なのですが、そして「プレタポルテ」以後、彼の作品を観ることはなかったのですが、この「ナッシュビル」1本で、彼は私の中で素晴らしい監督たちのひとりとなりました。ここに改めて哀悼の意を表したいと思います。アメリカ映画のよき時代を懐かしみながら。

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陰影礼賛! ~「たったひとつの恋」の亀梨和也の演技より~

 ”陰影礼賛”などと文豪風に気どった題をつけてみましたが、そんなに大した内容でもないので、お気楽にお読みくださいませ。

 この題を思い出したのは、前の記事に書いた「たったひとつの恋」の亀梨君の演技にとても深く感心したからです。前の「野ブタ」とか伊藤美咲と共演した「サプリ」で見た時は特に感心したり魅力を感じたりしなかったので、ドラマのよさとか綾瀬はるかさんとの相性とか、(彼女も、今回初めて見ましたが若手の女優さんの中では、微妙な感情の表現が旨くて、”陰影”のある演技ができるひとだと思う)のせいかもしれませんが、足すところと引くところの演技の緩急の付けかたがとでもいうのかが、見ているこちらに計算を感じさせないほど絶妙なのです。そして、この主人公の抱えている暗さや愁いが、演技を感じさせないほど自然に表現されていて、この世代でこんな演技のできるひとが(しかもアイドルに)いたことに驚いています。今回の「たったひとつの恋」第6話には、ほんとうにまいりました。私は、そんなに期待もせずに1話からずっと見ていたのですが、主演ふたりの息が合ってきて、物語の進行に伴って、ほんとうに恋している雰囲気が漂ってきましたね。

 ドラマについて少し付け加えれば、描き方があざとくない点、例えばふたりの交際に反対しているナオの兄や父親を、ふたりの恋に理不尽に反対している敵役として単純に描いてない点に好感が持てます。昨今は、敵役は敵役として、単純に恋の障害として極端に憎憎しく描くようなドラマのほうが人気を博しているような気がしますが、そして恋の当事者のふたりは、何があっても自分たちの恋を貫くというある意味自己中な行動によって、結果的に周囲を振り回したり、傷つけたりしているような主人公たちが多いと思うのですが、ナオの兄や父親のナオを大事に思う思いと、彼らのその思いを無視できないふたりの気持ちがきちんと描かれているので、なかなかよいですね。だから余計に切ないところですけど。そして、前にも書きましたが、ナオとヒロトの会話に漂う、くすっと笑ってしまうようなユーモアや、ヒロト、コウ、アユタのやりとりに見られる3人の関係の絶妙の空気感がとてもリアルでいいなあと思ったりしてます。ふたりの初めてのキスシーンでの 「いまのはなあに?」 「キス」 「するんだったらちゃんとして」 「命令多いよ 」 みたいな会話や、今回のアユタとヒロトがメロンを食べるシーンとかのセリフ 「これお見舞いのメロン」 「メロンって、お前ベタだなあー」 やそのあとのメロンを食べるシーンにかぶさるヒロトのナレーションもナオや友だちへの愛や思いやりにあふれていて、いいなあと思います。

 
 話を少し戻しますが、最近の若い俳優さんは、狂気は演じられるけれど、暗さや悲しさは演じられないひとが多い気がします。彼らは暗さや悲しさを自分の内部に抱えていることのしんどさに耐え切れなくて、狂気に逃避しているとでも言ったらいいのでしょうか。演技でも、暗さというのは演じている者の内部にそういうものがないと絶対にそれを表現することはできないと思います。だから亀梨君があの若さであのような暗さや悲しみを表現できるのは、彼が内部にそういうものを抱え込んでいるからだと思うのです。そして、それは、そうするだけの強さと感性の豊かさがないとできないことだと思うのです。本当に、このドラマでの彼の演技は一見の価値があります。次回の第7話はしんどそうな内容になりそうですが、これからの脚本や演出が、彼のこの素晴らしい可能性を生かすような展開であってほしいと思います。(最近は最終回がつまらないドラマが多いですから。) 

このドラマに関わっている制作スタッフや俳優の皆さん、視聴率なんていう信頼性の疑わしいものに惑わされずに自信を持ってくださいね!

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ドラマ「たったひとつの恋」(少し追記しました)

 亀梨和也君と綾瀬はるかさんのドラマ「たったひとつの恋」をなんとなく見てます。(他にも、のだめとか、草彅君のとか、Dr.コトーとかも覚えていたら見ているので、今回は結構ドラマ見てますね。)
 
 で、「たったひとつの恋」ですが、純愛物ですけど、これが結構いい感じなのですね。私は主演のふたりのファンというわけでもなかったのですが、特に、亀梨君の演技力というか、彼の感情表現の旨さに注目しています。なかなかです。こういうのは、相手役との相性もあると思うので、綾瀬はるかさんとの相性とか、他のキャスティングがいいのかなとも思ったりもします。今までのドラマを全部は見てませんが、このドラマの彼は、今のところ結構いいのではと思います。私はキムタクよりも買いますね。

追記:、お金持ちのお嬢様の女子大生と父親が自殺したあと傾きかけた街工場を継いでいる高卒の主人公という、ふつうなら接点のないであろうふたりの恋なのですが、(この設定も古いようで新しいと思う)、主人公がふたりの住む世界の違いを感じていらつく場面というのが一話に出てくるのですが、そこのところの微妙な感情表現がうまかった!綾瀬はるか演じるちょっと浮世離れしたようにピュアなナオと亀梨君演じるヒロトの会話に独特のユーモアのセンスが感じられて、このふたりのキャスティングがとても役に合っているし、ふたりのシーンがとてもいいのです。亀梨君の抑え目の演技が、ヒロトの境遇から来る年齢より老成した屈折した性格をよく表現しています。そしてナオがなぜヒロトのような青年に惹かれるのかというと彼女が難病を抱えているからなのですがストーリーはこの際置いときましょう。ヒロトのナレーション(すでに「悲劇」と言っちゃってます)やこの設定から結末は当然悲恋なのでしょうから。私が注目しているのは主演のふたりの(特に亀梨君の)演技です。で、どうしてもキムタクと比べてしまうのですが、キムタクの演技から私はどうしてもあざとさと感情表現の平板さを感じてしまうのですが、亀梨君の場合は、感情表現に独特の陰影があって、あざとさも妙な気負いも感じさせずに、等身大の若者を演じていてとても好感が持てるのです。(そう、キムタクの演技に欠けているのは、そういう”陰影”なのです。新作の映画でそれが出せているかどうかですけど、少なくとも彼の演技からは、存在が持っている影の部分が感じられないのです。)で、そういうものって、存在そのものにもともと供わっているもので、演技ではどうこうなるというものではない気がするのです。亀梨和也には”それ”が供わっていると思う。

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御茶屋峠(「バナナブレッドのプディング」より)~少女の心に住む理想の男性

 金城武演じる「不夜城」の劉健一のヘアスタイルを見たときに、デジャヴ感におそわれた。” 「バナナブレッドのプディング」の御茶屋峠が本当にいた!” と。 と言っても、大島弓子ファン以外にはわからないだろうけれど、私が本当に少女だった頃にバイブルのように読んでいた、少女マンガ家、大島弓子さんの代表作(は、ほかにもいっぱいあるのですが、彼女の作風のターニングポイントとなった作品という意味ではこれかな。)「バナナブレッドのプディング」の登場人物、(主人公衣良の友人、さえ子の兄の美形でプレイボーイでナイスガイ、御茶屋峠のヘアスタイルが、うしろでひとつにたばねたロングヘアだったのです。
 
 この物語は、主人公衣良の、
  
   わたしは三浦衣良
   イライラの衣良と申せましょう

 というちょっと変わった自己紹介で始まります。そして、兄の御茶屋峠に、衣良の精神に危うさを感じた彼女の友人さえ子が、衣良を助けるために、衣良の理想の男性像=”世間にうしろめたさを感じている男色家の男性” を装って、彼女との偽装結婚(=もちろん性的関係はなし)を頼むことから話が始まるのですが、( 付いてきてますか?みなさん )、御茶屋峠は、主人公衣良(少女)の性についてのとまどいの表現に、(さえ子と遊びで化粧した顔を峠に見られて、「 ヌードよりも露骨 」ととじこもってしまったりのような )「 おれははじめからおとな相手にしてたから、ああいう心理にでくわすととまどってしまう 」と言っているようにおとなの男性で、典型的な遊び人なのですが、最初は、さえ子に頼まれてしぶしぶお芝居をして、はやくこの束縛から逃れたいと思っていた峠が、第2話のラストで、衣良が” 崖からおちないための ” 彼女の ”ライナスの毛布 ” になることを決意します。そんなこんなで(わかるかなあ・・・)、物語は、峠の(男色の)恋人役をさえ子に依頼された、峠がコーチをしているサッカー部の部長、奥上大地(本物の男色家)や、奥上の恋人で峠の大学の教授、新潟健一とかが登場して、奥上は芝居が元で、峠のことが好きになってしまい、さえ子はそんな奥上の気持ちを知りながら奥上に片思い、教授も峠と奥上の芝居を目撃して、峠をライバルと勘違いし、峠に嫉妬するなどと、物語は一方通行のベクトルだらけのまま、衣良も峠が芝居をしていたことに気付いて、本物の男色家、新潟教授と同居することになるという意外な展開を見せて、物語は混乱したまま最終話になだれこんでいき、一体作者は、どう収拾するのだろうという感じだったのですが、衣良の精神の混乱がピークに達した時に、クライマックスの事件が起こり、物語は唐突な感じで終わりを告げます。峠の衣良に対する、静かな、兄のような、父親のような、神様のような ”愛” のことばによって。(他の一方通行の愛にはなんの結論も示されてはいません。物語のラストは、結婚した衣良の姉、沙良の母への手紙で終わってます。 ここまで、読まれて興味を持たれた方は読んでみてください。)最初のほうの峠のように、少女の感性にとまどわれるでしょうか・・・。最近は、衣良のように悩みを持つこともなく、一足跳びに、おとなの世界に足を踏み入れてしまう少女のほうが多いので、衣良の抱えていたような悩みは少女にさえ理解されなくなっているような気もしますが。

 ところで、衣良の理想の男性像がなぜ、「 世間にうしろめたさを感じている男色家 」なのかについて、蛇足とは思いますが、ちょっと説明しておきます。男色家=女性に興味がない=自分に危害を及ぼさない、という意味で、少女にとって安心できる存在です。そして、「世間にうしろめたさを感じている」というのは、自分(衣良)の助け(=衣良との偽装結婚という世間へのカモフラージュ)を必要としている存在であることで、だからそれが衣良の奇異な理想の男性の条件の意味なのです。(わかりますよね?)

 この作品の御茶屋峠像は、この作品以前の大島作品のなかの、たとえば、「いちご物語」の主人公、林太郎の兄、森太郎にその原型が見られる。純粋な主人公たちを、少しおとなの視線で見守る存在として。
 で、私が、当時思ったことは、「 御茶屋峠のような男性は現実にはいない 」ということだった。そしてまあ、その峠のヘアスタイルとルックスが「不夜城」の金城武に似ているというだけで、劉健一と御茶屋峠は何の関連もないのですが・・・。作中で、衣良が峠のことをこころのなかで、 「神さま」 と呼んだあとで、「いけない!!神さまと思っちゃいけない 」と葛藤する場面がありますが、当時の私の理想の男性でもあった、御茶屋峠というのは、ある意味、女性のこころの中にしか存在しない人物なのかもしれません。(少女を見守るという点では「ハウル」にも似ていますが。)
 

 そして、この作品後、彼女の作品は、少女マンガの限界を超えて、現代の人間の問題を扱った短編の傑作を生み出していくのですが、なかでも、わたしが一番すきだったのは「 ダリアの帯 」という作品です。主人公は只野一郎 (ただのいちろう) と只野黄菜 (ただのきいな) という(結婚3年目の微妙な時期にさしかかった)夫婦です。物語は、妻の黄菜が流産してしまい、少しずつ精神がこわれていくことから始まります。(この黄菜の精神のこわれていくようすと、それに対する一郎の心理の描き方は、ヘタな純文学作品などよりもうまいと思います。)興味のある方は読まれてみてください。


 

バナナブレッドのプディング
大島 弓子著
白泉社 (1995.9)
通常2-3日以内に発送します。

 

大島弓子選集 第10巻
大島 弓子著
朝日ソノラマ (1992)
通常2-3日以内に発送します。

 

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「存在の耐えられない軽さ」、「ライアンの娘」、デュラス、馳星周・・・~エロティシズム考~

 こんな表題を書きましたが、看板に偽りありなので、あまり期待しないでくだい。

 前記事で馳星周氏の小説「鎮魂歌」と「長恨歌」のことを書いた時に、その中の性表現について感じた事の関連でちょっと書いてみようかという程度なので。

 小説でもっとも官能的だと感じたのは、やはりデュラスの「ラ・マン」です。そういうシーンのみが官能的というわけではなくて、小説全体から官能性があふれているような作品。例えば、淡々とした描写の積み重ねのような細部がすでに官能的なのだ。主人公やその愛人の着ている服や化粧などを描く、(訳者によって、「こころよい音楽をひびかせる」、 「すこしも湿ったところのない叙情性」と表現されている)その文体がすでに官能的なのだ。

 
 それに比べて、馳星周の作品はどうかというと、こういう小説のお決まりのように性的なシーン(暴力をからめた)はふんだんにあるのだが、そういうシーンからはエロスがほとんど感じられない。お約束のような言葉遣いと描写に却って白けてしまう。エロスやエロティシズムはそこにはない。そういうものの入り込む余地の無い暴力と欲望を描くのが目的なのでしょうが、なんというのか、女性からみたら、なんとなく陳腐に感じるそれらの表現(ステロタイプで詳細な表現には特に、)に白けてしまう。 

 
 ところで、映画の中の美しくエロティックなラブシーンということでは、「存在の耐えられない軽さ」と「ライアンの娘」が思い浮かびます。
 「ライアンの娘」は「アラビアのロレンス」や「ドクトル・ジバゴ」の名匠デヴィッド・リーン監督ですから、主役ふたりの(不倫の)ラブ・シーンがまるでドガの絵のように美しく丁寧に撮られています。そしてイギリス人将校への主人公の想いを、家の周囲に咲いているユリの花の花粉によって表現したりという細部の表現がとてもエロティックなのです。この映画は不倫だけを描いた映画ではないのですが、私には表現がとても官能的な映画として印象に残ってます。
 そして「存在の耐えられない軽さ」は、これも不倫なんですが、色男を演じていた頃のダニエル・デイ・ルイスとレナ・オリンのラブ・シーンがとても美しくてエロティックで印象に残ってます。
 最近は、あんまりリアルな性表現で何かを伝えようというのはちょっと古い気がしますが、この二つの映画はおすすめです。(日本だと渡辺淳一みたいなのがありますが、あんまり興味がないですね。)

 やはり文学とポルノの違いというのがあって、その差というのは、両方の性の視点があるかどうかじゃないでしょうか。(馳氏の小説に欠けているのは、そういう女性の視点ではないでしょうか。男性を主人公として描いても、やはり作者に女性の側の感性もないと物語が深くならないと思う。)

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