« September 2006 | Main | November 2006 »

映画「不夜城」

 実はかなりの金城君ファンでして、そう言えば、彼のことはブログではちょこっとしか書いてないなと思って(たぶん、チャン・イーモウ監督の映画「単騎、千里を走る。」についてのNHKスペシャルについて書いた記事(gooブログのほう)と、カーウァイ監督の「2046」について書いた記事中(ココログ)でちょこっと書いたかなという程度なので、もう、かな~り遅まきですが、私にとっては出世作のカーウァイ監督作品(邦題「恋する惑星」「天使の涙」)と、この「不夜城」が(未だに)彼の代表作だと思っているので少し書いてみます。

 「不夜城」は映画を観てから原作を読みました。映画を観たのも金城武を見たかったからで、原作についての知識はほとんどなく観たのですが、当時かなりはまりました。最初に映画を観たので、劉健一=金城武というイメージが出来上がっていて、原作を読んだときには、「ちょっと違うかな」という印象を持ったりしました。なんか原作の健一は饒舌すぎる気がして。

 本物の歌舞伎町がどんなところであるかについては、ほとんど知識がないのですが、この映画に描かれた新宿や歌舞伎町は、香港のスタッフによって撮影されたことで、その危険で猥雑なイメージとともに、ロケ部分では特に、無国籍で危険なある種の美さえ感じさせる魅力を漂わせている。まず、歌舞伎町の路地を歩く健一を長回しで撮影したモノクロのタイトルロール部分が、ひっそりした音楽ともどもよくて映画にひき込まれて行く。確固とした寄る辺のない主人公の境遇と、悲恋を予感させる。

 主人公のふたりについては、賛否あったけれど、私はふたりともなかなか頑張っていたと思う。金城君の日本語の滑舌の悪い部分がところどころあった点についてはご愛嬌ということで、動きはキレイ(特にアクションシーンの動きは嫌味なくシャープで美しい)だと思う。(金城武にはカーウァイ監督作以来”走る男”というイメージがあると思う。)そして、劉健一という台湾と日本の混血の青年を嘘くさくなく演じられる俳優が彼の他にいるとは思えない。この原作より”甘い”劉健一は、映画オリジナルの劉健一として、金城武本人の実在感を付与されて息づいている。そして、彼のセリフや仕草からは、日本人にはない父性を感じるのも魅力。特に低いあの声に。
 
 そして相手役の山本未来であるが、この難しい役をよくこなしていたと思う。華やかなヒロインを期待する向きには、降板した葉月里緒菜のほうがよかったのだろうが、金城武には山本未来のほうが合っていると思った。他に、この役がこなせそうな女優さんも思い浮かばないし、葉月里緒菜もできなかっただろうと思う。恋する女性の甘い媚びるような演技はうまかったし、服の着こなしは、さすがデザイナーの娘だけあってセンスがよかった。一番好きなシーンは、最初の登場シーン。音楽もチャイニーズテイストの哀感あふれる音で、なかなかよい。ボロボロのアパートで彼女の帰りをじっと待つ主人公、ドアが開いてまず足元が映り、それから灯りを点ける指先、後姿というカメラワークがよくて、また、ふたりの出会う場所としてのこのボロアパートが今時ちょっとないボロさで、そのこだわりによって映画の中でも私の好きなシーンです。

 そして、飯田橋にあるという設定のマンションでのシーンで、健一が電話をかけながら彼女の着替えるシーンを後ろから見つめるシーンがあるけれど、チャン・イーモウ監督の「ラヴァーズ」で彼がチャン・ツィイーの水浴する姿をのぞき見するシーンを観た時にこのシーンを思い出した。私はイーモウ監督は「不夜城」のこのシーンのことが念頭にあったような気がした。暗と明ではあったけれど、女性にひかれていく様子の表現として、どちらも印象に残っている。下品にならずに、さらっと演じられるのが金城君ならではですけど。

 あと、遠沢というルポライター役で田口トモロヲがサスガの達者な演技を見せていて、ぴりっと映画をひきしめていた。葉暁丹の手下役のでかい俳優さんと、ジローという元刑事の路上生活者役の俳優さんもぴったりだったし(すみません名前がわかりません)、健一を慕う役で、初々しい谷原章介も出てくるし、日本人の脇役陣はなかなかよかった。中国語を省いた鈴木清順には笑ってしまったけれど。只、椎名桔平は、ヘアスタイルを創りすぎていて違和感があった。声がでかいところはいいのですが、呉富春の手がつけられない凶暴さ単純さは彼からは感じられないし。

 中国側の俳優さんたちについては、よくわからないのですが、女優さんは、日本の女優さんに比べて華やかで、彼女たちと比べると、山本未来は服も化粧も日本的に地味ですけれど、それが、却ってヒロインとしての彼女(の異質性)を目だたさせている。
 
原作を読むと、健一が初めて見つけた"自分の分身のような夏美(=小蓮)"にこだわっていく心理が、映画よりくわしく描かれている。映画では、夏美に魅かれる健一の詳細な心理までは説明されていないが、ふたりの来歴や境遇から来る孤独は、映画からも充分に、いや、金城武の切ない瞳と、生き延びるために絶えずあがきながら動き続ける絶え間ないアクションによって、より、私たちに迫って来る。ふたりの孤独感ゆえにこの恋が余計に切なく、ラストの哀切さを増している。そして、人間の孤独という普遍的なものを描いたことに、この映画の存在価値があると思う。その成功の重要なポイントは、制作スタッフの細部へのこだわりと、金城武本人の持つ存在感だと思う。そのことが、演技にとっては日本語の滑舌などよりも大事なのだ。

 続編の「鎮魂歌ー不夜城Ⅱー」と完結編の「長恨歌」も読んだ。期待して読んだのだが、一作目のちょっとロマンティックな劉健一は、もうどこにも見あたらない。「Ⅱ」では最初と最後に小蓮亡きあとのその心理が語られるだけで(―感情移入できたのはこの部分だけだった)、本編では、別の主役ふたりによって、全ての事件の黒幕の悪鬼のような劉健一のことが語られるのがほとんどだし(最後にある一線を越えてしまった存在として現れるが)、物語はさらに陰惨を極めているし、主役のふたりにも、その恋にも感情移入できないし、「長恨歌」では、小蓮の存在も消えてしまって、さらに幽鬼のようなモンスターのような存在となってしまった健一に、私たちはもうなすすべもないと言った感じでお手上げなのだ。(この巻に馳星周は劉健一の代わりに武基裕という主役を登場させてはいるのだが、)本当に、この原作をどうやって映画化するのだという感じで、続編を予感させる映画のラストに、映画「不夜城Ⅱ」あるいは「不夜城完結編」を期待していた私たちの期待はどうしてくれるのだと言いたくなる。このままでは映画化は無理そうだし、金城武は、インタビューで確か「人を殺したり、傷つけたりする役はあまりやりたくない」と言っていたのもあるし・・・。「Ⅱ」の原作では「小蓮との約束を果たすために」という独白が冒頭に出てくるのだが、映画の「小蓮との約束」はこれからも果たされそうにない。(ネタバレです)完結編は、あっけなく楊偉民は殺されてしまって、あとは、幽鬼劉健一を武基裕によって葬らせるための物語とも言えるが、「不夜城」の劉健一と同類であるはずの武基裕の恋があまり、こちらに迫ってこないのはどうしてだろうか。「映像で小蓮と健一の物語が完結するのを見たい。」と思うのは私だけだろうか。でも映画の「不夜城」は原作の「Ⅱ」と完結編には素直にはつながっていかない。というか健一の小蓮への思いはどこへ行ってしまったのだろうか。小説「長恨歌」のどこにもそれは見当たらないし、こちらの感情移入をまったく拒否する人物に、私たちは興味と関心を抱き続けられるものだろうかという疑問が、このふたつの続編を読んでわいて来ました。俗っぽいものは書きたくないという意図なのかもしれないけれど・・・。

 映画「不夜城」の脚本に、監督李志毅とともに、今は亡き野沢尚氏が名前を連ねていました。

 あと、映画で好きだったシーンをひとつだけ付け加えておきます。崔虎の束縛から開放されたふたりをぐるぐる回転するカメラワークで撮影したシーンです。それぞれ相手への切ない思いがあふれているようなふたりの表情がよく、そのあとに続くB’zの挿入歌へとつながる映像もなかなかよかった。

| | Comments (1) | TrackBack (3)

クロード・ロラン風の雲

 先日、やっと、ジブリの「ゲド戦記」の2回目を観に行ってきました。上映も一日一回になり、お客さんもすっかり減って(数組)いましたけれど、一回目を観たあとで、いろいろとわかったこともあったので、それらのことを確認したくて、少々旬をはずれた感はありますが、DVD化はまだまだだろうと思って行ってきました。
 
 1回目の時のように、ストーリーやキャラクターの改変が気になって、どきどきしたりということがなかったので、物語に集中することができました。そのために見落としていたところも観れたし、何よりも、”クロード・ロラン風の雲”(※拙記事「ゲドのいる入り江」参照)を楽しみました。それと、1回目にはあまり感じなかったのが不思議ですけど、ゲドが全篇を通じていい男に描かれていることに、今更ながら気付きました。ゲドは全篇を通じて、絵的にもよかったです。
 で、今回観てみて、一番気になったのが、中景の人物の描き方です。最初に観た時に、気になったのは、この部分だったのかと確認しました。そして、場面によって人物描写にムラがある。エンラッドの王宮やホート・タウン、ラストのクモとの闘いの場面では、そんなに気になる部分はありませんでしたが、テナーの家の近辺のテルーの唄のあたりや映画のラストの種を播くシーンなどのアレン、テルー、テナーの描写は、ちょっと簡略化されすぎていて平板な感じで、その部分の絵の印象で、映画として損をしてしまって惜しいなという気がしました。背景の中の人物描写の略し方は気になりませんでしたし、ゲド、ウサギや手下、クモ、ハジア売りや露天の主人、ふたりのオバサンたちなども気になりませんでしたが、アレン、テルー、テナーの中遠景での描き方にあまり存在感が無くて、その部分が一番気になりました。
 背景美術はじっくり観ましたが、やはり圧倒的に素晴らしかった。だから、余計に上記の部分が残念です。

 ところで、美術監督の武重洋二氏のことを少し調べていて、「千と千尋の神隠し」の”油屋”が道後温泉をイメージして描かれたということを知りましたが、何かあの湯屋や、千尋たちが迷い込む香港や台湾や日本の鄙びた温泉街がミックスされたようなあのどこか懐かしいような空間の独特な造形が、映画にえもいわれぬ陰影や深みを与えていて、それらをイメージして描く武重氏の感性にすごく魅かれます。”豪華な熱海”をイメージして描かれたホート・タウンやエンラッドの王宮のモザイク画など、栄えた文明のなかにあるどこかたそがれた雰囲気をアニメであそこまで描けるのはさすがジブリだと思います。だから、上に書いた点が、やはり残念です。

 
 ところで、ジブリのホームページのBBSを訪問して映画に批判的な意見を見て感じたことですが、それらの批判意見から受ける感じが、原作第1巻「影との戦い」で影と向かい合うことを決心する前の、ヒスイや領主の娘を敵視して影を呼び出してしまう傲慢なゲドから受ける感じにとても似ているということに気付きました。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

デュシャンの「大ガラス」のこと(寂しい現代人の自画像)~ふと思い出して

 ”昔々”で始めなければならないくらい前に、マルセル・デュシャンに入れ込んでいた時期がありまして、”ユリイカ”や”美術手帳”や”芸術新潮”などのダダイズムやシュールレアリスムの特集記事を読んでは、難解な言葉の羅列に何が書いてあるかさっぱりわからない、と嘆息しつつ、ブルトンはダサいけどデュシャンはカッコいい、というくらいの次元に私のデュシャンへの興味はあったと思います。
 有名な”泉”やモナリザのレプリカに髭をつけた洒落のような作品は、そのユーモアにまあ笑えたりもするのですが、私が今回ふと思い出したのは、デュシャンの代表作とも言われている、「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(通称「大ガラス」 1915~1923年) という作品です。この作品については、様々な解釈、解説がなされてきましたが、私が、今回思い出したのは、ガラスに描かれた機械の設計図のようなその作品本体ではなくて、現代社会と現代人の状況を予言していたような、奇妙な題のほうです。デュシャンの意図はわからないし、そのことについて忖度するほどの時間も興味も今の私にはないのですが、この不気味な現代の状況の予言のような題名は、彼の生きていた当時のヨーロッパやアメリカと今の日本の状況が似通っているのか、現実が芸術に追いついたと言うのか(悪い意味で)、まさに現代日本で起きていることだ。巷に独身者たちの生産性のない性のための妄想が商品化されてあふれているこの状況を予言していたような題だと思う。そして、遺作ではさらに独身者たちの不毛でからまわりしている変態的なエロティシズムが作品となって私たちを挑発している。は~~っと書いていても何かうんざりしてくる。デュシャンのこれらの作品は、デュシャンが時代の状況を冷静に観察して作品化したものなのか、そのような独身者のひとりとしての自己表現だったのかはわからないが、天才というものは時代を先取りするということは言えると思う。なにものをも生み出さないエロティシズムの不毛さ寂しさは私を憂鬱にしかさせないが。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

ゲドのいる入り江

 映画「ゲド戦記」をもう一度観たいと思いながら、なかなか行けそうもありませんが、最近、堤防の上の道を通る時に川を眺めながら、(この時間は私の生活においてのささやかな癒しの時間と言ってもいいと思いますが、)「ここにはゲドはいそうにないなあー・・・」と呟いている私です。映画の冒頭部分で、ゲドの船”はてみ丸”が、少しさびれた入り江に入ってくる部分がありますが―あの入り江も決して美しくは描かれてはいませんがこの川ほどは汚れてはいない―あの入り江を思い出してしまいます。それと空の雲や鳥などをみても、「ゲド」に描かれていた雲や鳥を思い出します。
 映画については、いくつかの不満な点は未だに残っていますが、何よりも「ゲド」を映画化した勇気と、たぶんアニメにおいてはジブリにしかできないであろう手仕事を感じさせる背景美術の素晴らしさをを味わわせてもらったことだけでも評価できると思います。(人物描写については、前に紹介したART本に描かれているラフスケッチのような生き生きした感じが、映画では感じられない、場面によって出来不出来が感じられたなどの点で、改良の余地があると思いましたが。)

 映画の背景美術の方向性を決めたのは、やはり宮崎駿さんの「クロード・ロラン」というヒントだったということをあとで知りました。駿氏の原作への並々ならぬ愛着を感じさせられるエピソードだと思いました。あの、美しいけれど、寂しげで荒涼とした風景。駿氏はそこまで考えていたのかと・・。

 さて、もうそろそろジブリの「ゲド」について考えるのは止めようとは思っていますが、何せ「ゲド」なもので、最後に、不満だった点を少し書いて終わりたいと思います。

 もう何回も書いてますが、テルーの
 「命を大切にしない奴なんか大嫌いだ!!」と
 「影は闇に帰れ!!」のふたつのセリフです。
 「命を」は、言っていることは正論なのですが、もんもんとするアレンに対しての言葉としては、ストレートすぎる。アレンへの反感は態度で示すだけで充分だったと思う。
 クモに対しての「影は闇に」の言葉は、原作「影との戦い」において「光と闇とは出会い、とけあって、ひとつになった」と描かれている世界観には反するのではないかと思う。

 それと、これは私の個人的な好みなのですが、背景美術においては、アニメーションとしては、かなりの冒険がなされていると思うけれど、ストーリーに関しては、ジブリ風の「ボーイ・ミーツ・ガール・ストーリー」が踏襲されている点です。映画に比べて原作「ゲド」の世界は、もう少し硬質な感じなので、アレンの成長と覚醒は、テルーとの出会いではなくて、やはり同性の年長者ゲドとの旅によって成されるべきだったのではと思います。映画の前半はそういう雰囲気でしたが。そうすれば、ジブリの殻を破るようなロードムービーのような味わいの映画ができたのではと思いました。可愛いヒロインを観に来るジブリファンが多いという制約があるのかもしれませんが、私的には、そういう前提は、つまらないし、アニメの限界を感じます。アニメーションってなんだろうと考える時、アニメーションのキャラクターのリアルさってなんなのだろうと思います。私が駿監督の描く女性像に感じている違和感というのも、アニメーションの世界にしかいないような彼女たちの”リアルさの欠如”のせいとも言えると思います。アニメーションのリアルさって何なのか、アニメのキャラクターにリアルさは必要ないのか、リアルさからかけ離れていることがアニメの本質なのだろうかなどと、現実の少女のリアルさから遠く離れたヒロインたちを見るにつけ考えさせられます。そして、そういうリアルさを捨象された彼女たちを自分たちのモデルやお手本にすることは、当の少女たちにとっては、しんどいことではないのかなとも思ったりします。(そういう感じはは、「ゲド」のテナーや”千尋”には感じませんでしたけれど。)そして、いわゆるジブリファンがそういう理想化されたヒロインを求めていて、そういう観点からこの映画をつまらないと思ったとすれば、そういうジブリ映画の限界は破られるべきなのではと思ったりします。

 さて、とにかく、これまでいろいろ考えて来ましたが、私にとってジブリの「ゲド戦記」は、荒削りな部分もありましたが、大きな可能性を感じる観るに値する映画だったことは確かです。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« September 2006 | Main | November 2006 »