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「さいごの戦い」に感じた違和感

 前の記事でも書きましたが、もう一度「ナルニア国ものがたり」の「さいごの戦い」の終わり方に感じた違和感について少し考えてみたいと思う。

 まず、この物語ではナルニアに出かけた子どもたちの中で、只ひとりだけ現世のことに心奪われて、ナルニアに関心を示さなくなったスーザンのことが、登場人物によってとても否定的に語られています。そこまではわかるとしても、両親や兄弟姉妹たちが列車事故ですべて死んでしまうという設定は、彼女が、こちらがわの世界にひとりぼっちでとり残されてしまうことになり、それではあまりに可哀そうすぎる気がしました。

 それと、「馬と少年」と「さいごの戦い」で特に感じたのですが、カロールメン国はイスラム世界をモデルにしているのが明らかなので、キリスト教世界とイスラム世界を単純に善と悪として描いているのは、厳しい両世界の対立が顕になった現代から見ると単純すぎる比較だと思う。

 そして、やはりラストで子どもたちが列車事故で死んでしまうことによって彼らがアスランの国に残ることになるという設定は、上に書いたスーザンの境遇も含めて、やはり子どもたちに向けた物語としては乱暴すぎると思われるのです。私は、やはり彼らは、「ほんとうのナルニア(アスランの王国)」を見届けたのち、こちらがわに帰ってくるべきだったと思います。

 と、いろいろな疑問点が、特に「さいごの戦い」については(この物語のキリスト教思想との深い係わり、アスラン=イエス・キリストであるという解説を前提にしても(岩波少年文庫版の竹野一雄氏による))やはり、その終わり方には違和感を感じます。勿論、そのことによって、この物語の素晴らしさ、面白さ、アスランがこの物語の中で放っている輝きや彼が体現している価値の素晴らしさや、その他の登場人物の造形のおもしろさなどは損なわれることはないのですが、少し気になる点としてまとめてみました。

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「ナルニア国ものがたり」読了

 「ナルニア国ものがたり」全7巻(C・S・ルイス作 瀬田貞二訳)読了しました。いやあ、すべての巻がおもしろかったです。興味のある方は、すべての物語を読まれることをおすすめします。

 参考までに、私が印象に残った登場人物とその人物が登場する物語を紹介します。映画化された「1/ライオンと魔女」はよく知られていると思うのでそれ以外の物語、ペベンシー家の四人以外から紹介します。(※「ライオンと魔女」ではエドマンドが我知らずにとったおろかな行為によって物語がすすんでいくことから、エドマンドが最も印象に残りました。そして、ターキッシュ・ディライトというお菓子によって、彼の(私たち人間の)の弱さやおろかさが象徴的に描かれているということは言っておきます。)

 まず、「3/朝びらき丸 東の海へ」から、いとこのユースチスです。この物語での彼の冒険の項は、この巻の白眉と言えると思います。

 次に、「4/銀のいす」から” 泥足にがえもん(沼人) ”という愛すべきキャラクターが出てきます。沼地に住む人々の独特の風貌と知恵のある思慮深い言動で、ユースチスとジルのよき旅の道づれとして彼らを助け続けます。

 最後に、「7/さいごの戦い」には、私が考えた中で、「ナルニア」の中でもっとも醜悪なキャラクター、”ヨコシマ”という小悪党が出てきます。白い魔女のように、もっと強力で迫力のある悪は他にもいるのですが、ナルニアは、この醜い小悪党の毛ザルのヨコシマな企みによって、あっけなくくずれさってしまうのです。ナルニアの住人たちが、ヨコシマの計画にまんまとはまって、簡単なペテンによってまんまとだまされる様は、腹立たしくもありますが、私たちの世界でもよく起きていることのようでとても示唆的でした。

 そして、この「ナルニア国ものがたり」全7巻の結末とも言える「7/さいごの戦い」のラストは、私には前の6巻とは違う結末に、???という風に大きな疑問を感じてしまった。そして何か、作者の現実世界に対するあきらめのようなニヒリズムのようなものを感じたのですが皆さんはどう思いますでしょうか。 (以下ネタバレ注意!)
 それは、「2/カスピアン王子のつのぶえ」のラストで、アスランは、ピーターとスーザンに対して、彼らは大きくなったので、もうナルニアにはもどってこられないと告げていますし、「3/朝びらき丸 東の海へ」のラストでも、今度はエドマンドとルーシィがアスランに、ふたりとも年をとりすぎたので、ナルニアにはもうもどれないだろうと告げられているのです。

 「わが子たちよ、ふたりとも、年をとりすぎたのだ。」とアスランがいいました。「もはや、あなたがたのあの世界によくなじんで暮らしていかなければならないよ。」
 「かんじんなのは、ナルニアではありません。」とルーシィが、泣きじゃくって、「アスラン、あなたなのです。わたしたちは、あの世界ではあなたには会えませんもの。あなたに会えないでどうして暮らしていかれましょう?」
 「それでも、あなたは、わたしに会うよ。むすめよ。」とアスラン。
 「あなたが?あなたが、あちらにも来られるのですか?」とエドマンド。
 「いるとも。」とアスラン。「ただしあちらの世界では、わたしは、ほかの名前をもっている。あなたがたは、その名でわたしを知ることをならわなければならない。そこにこそ、あなたがたがナルニアにつれてこられたほんとうのわけがあるのだ。ここですこしはわたしのことを知ってくれれば、あちらでは、もっとよくわかってくれるかもしれないからね。」
                         (「3/朝びらき丸 東の海へ」 302頁より)

このアスランの言葉に、作者のこの物語を読む子どもたちに向けたメッセージが込められていると思うし、それは、「6/魔術師のおい」でもアスランに、わたしたちの世界に対するいましめのことばを吐かせてはいますが、ポリーとディゴリーはちゃんとこちらがわの世界にもどってきていますので、物語の構造はここまでは一貫していると思います。でも、「7/さいごの戦い」は、このアスランの言葉を否定するような構造、結末となっているのです。このことを、私たちはどう考えたらいいのでしょう。この、物語を終わらせるに当たって、どういう心境の変化が作者におこったのでしょうか。作者は、アスランの警告の言葉のように、わたしたちの世界がなってしまったので、物語の結末をああせざるをえなかったのでしょうか。そう考えることはとても切ないです。そして、ほろんでしまった影のナルニア国のおろかな住人たちのように、わたしたちは、アスランの、

 この老人はみずからわたしの声がきこえないようにしてしまっている。・・・・・・・・・・・。ああ、アダムの子らよ、あんたがた人間はなんと手ぎわよく、じぶんたちによいことをしてくれるものから身を防ぐことか!・・・・・」
                            (「6/魔術師のおい」 249頁より)

  という警告に気付かずに、”ヨコシマ”が作った偽アスランのようなサギに騙され続けているのではないでしょうか。
 「さいごの戦い」でディゴリー卿が、アスランがあなたがたがもどることがないといったのは、影のナルニアのことで、いまわたしたちがもどってきたのは、まことのナルニアだと説明しているのですが、彼らがそこにもどるのは、こちらがわの世界(影の世界)で死ぬことによってなのです。この点に、この結末に、わたしは作者のわれわれの現実に対する深い絶望のようなものを感じてしまうのです。

 わたしたちは、こちらの世界で死ぬことによってしかユートピアを見いだせないのでしょうか。それとも、「うちがわは、そとがわよりも大きいものだ。」 (「さいごの戦い」より)というディゴリー卿の言葉のように、私たちは、私たちの内側にしかユートピアを見いだせないということなのでしょうか?

  ※gooブログの「ナルニア」関連記事です。

ナルニア国ものがたり(全7巻セット)
C.S.ルイス作 / 瀬田貞二訳
岩波書店 (2005.6)
通常24時間以内に発送します。

 

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