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20代の右傾化について

 前に私の掲示板の方でちょっと触れさせてもらった日本の20代の右傾化について、少しだけ書いてみようと思う。あの天木直人氏のホームページの8月15日の記事「あの戦争は止むを得なかったのか」の記事で評論家、保阪正康氏の「日本が右傾化する傾向が20代や60-70代にみられる」という言葉が紹介されていますが、(60-70代の右傾化については、私のホームページの掲示板の8月25日の「無題」という書き込みでちょっと触れさせてもらいましたので、そちらを参考にしてもらいたいと思いますが、)今回は、20代の右傾化について少しだけ書いてみたいと思います。(合わせて、リンク先のそれらの記事も読んでもらえたらと思います。)
 
 20代の右傾化については、彼らのそういう傾向というのは、思想と言えるほど深い思考に基づくものでもなく、60-70代のように自身の受けてきた教育や経験によるどうしようもない心情と言うのとも違う、とても観念的なものでしかない印象を受ける。たぶん、ナイーブである彼らが、ナイーブなままに、彼らの中にある左翼へのぼんやりとした感情的反発から、それらを面白おかしく揶揄し、反日的と言われるアジア各国を勇ましくこきおろし、自分達の自尊心をくすぐってくれる―例えば小林よしのりのような(私から見れば彼のマンガは男のヒステリーにしか見えないが)単純で非現実的な断言者達(ハーメルンの笛吹き)の声にファッション的に付和雷同しているのにすぎないように見える。
 パーティーにナチの腕章を付けた姿で出席して批判された英国の王子のように、ファッション的な右傾化、現実への不満の捌け口のような右傾化でしかないと思う。(王子には説教してくれる父親がいたわけですが・・。)

 ところで、このことに関連して紹介したいのが、共同通信ワシントン支局長杉田弘毅氏の「戦後60年の日米関係」という評論です。その中で杉田氏は、今年7月14日に「米下院が圧倒的多数で可決した戦後六十年決議」の東京裁判条項 「東京裁判の戦犯判決を再確認する」について言及している。以下に少し引用してみます。

 
 「米連邦の公的機関として初の東京裁判に関する声明」(米議会調査局)というこの条項は、第二次大戦に出征したハイド下院外交委員長が提案した。「日本で広がる東京裁判見直しの機運を認めない」(同委員会スタッフ)という米国の決意表明である。
 米主要メディアは小泉純一郎首相の終戦記念日の靖国神社参拝見送りや、「おわびの気持ち」を表明した首相談話を「驚くほどの和解的なトーン」(ワシントン・ポスト紙)などと評価した。日本が伝統的な太平洋戦争観の枠にはまっている限り、米国は安心する。   (「戦後60年の日米関係」より)


  その記事は、米国は日本に平和主義からの転換を求め、日本の対テロ戦争への軍事的貢献を容易にしたいとの思惑があるが、そのことは日本人の「近現代史や太平洋戦争への見直しをも噴出させる、もろ刃の剣でもある」と続き、さらにそのことによって、日本が「良好な対中関係を描き、東アジア共同体を築こうとする新アジア外交に動きだす可能性」もあるが、その場合は、「米国の国益と正面からぶつかる」ことになり、「米国は強烈な圧力をかけてくるだろう」と続いている。
 このアメリカの思惑のねじれがそのまま日本の戦後のねじれになっていると思うが、それでも、米下院の決議というのは、アメリカの太平洋戦争についてのオフィシャルな意志表明だろうし、それに対して公式に真っ向から反対する態度を表明することなど、少なくともファッション的身振りでしかない彼らにできるとは思えない。アメリカの掌の上の彼らにできるのは、せいぜいアメリカの国益に反しない単視眼的な嫌中、嫌韓、嫌北朝鮮的態度位だろう。

 この辺りの事情については、gooブログでも紹介した立花隆氏の記事の「日本の政治を動かす”アメリカの意志”」という項なども参考にしてください。

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あいのりに見る現代恋愛事情

 皆さん、「あいのり」って番組を見たことありますか。若い人は殆ど知っていて、年輩の人はあんまり見ないというイメージがありますが、バラエティは余り見ない私ですが、この番組だけは殆ど見ています。小6の長男と一緒に見ることもあって、「ヒデはどうするんだろう・・」とか言いながら見ています。
 
 この番組が始まった当初は、正直、一回見てつまらなかったので、その後ずーっと見てなかったのですが、ある日消費税か何かのニュースを見ていて余りに腹が立ったので、チャンネルを替えたらやっていたのがこの番組だった。ひさしぶりに何となーく見ていたのですが、番組や出演者の雰囲気ががらっと変わっていて面白くなっていて、それ以来ずっと、最近の若者の恋愛事情をウォッチングさせてもらってます。
 私がこの番組を新たに見始めたのは2年位前のことだったと思う。何かバブルの浮ついた雰囲気が残っているような番組スタート時と較べて、出演者の皆が必死と言ってもいいくらい真剣に相手を捜している雰囲気が番組から伝わって来ました。”恋愛”ではなく”結婚”の相手を捜しに来たとはっきり言っている人もいたし、彼らのその必死さが却って清々しいなと思いました。番組でカップルが誕生した時は、彼らの幸せの正のエネルギーを分けてもらえるようでうれしくなります。恋愛にこんなに真剣になれる彼らを素直にいいなと思えるし、最近の若者もなかなか捨てたものでは無いと思うことしきりです。いーやその真剣さにおいて、昔より誠実な若者が増えているのかもしれないと思ったりもします。でも、彼らが、どちらかと言えば日本より貧しい国を旅することが多い「あいのり」の旅で、日本での狭く限定された自分の殻を破って、旅を通して成長していることが何より大きいし、若者にとっての旅の重要性を思うし、若者が自分の殻を破ることができる環境が日本の中にいては中々得られないということも感じます。そういう自分の殻を破る旅が偶然にしろ、この番組の中にあって、自分の殻を破って誰かに告白する姿は、例え振られたとしても何がしかの感動を周囲に与えるのだと思います。環境は大事ですよね。
 何か説教臭くなりましたね。この辺で止めましょうか。

 でも、最近番組を見ていて思うことは、これは駄目かもしれないっていう告白の場合、女性→男性の場合はOKのことが多くて、男性→女性の場合はNOのことが多い気がするのですが・・。女性のほうが、その辺シビアって言うか、自分の好みに忠実で余り気が変わらないのに較べて、男の人は、女性から告白されると、他に好きな人がいない場合断れないことが多いなと思います。最近の展開では、そうとばかりも言えない結果が出ていますが。取りあえず次回(ミカリンとスーザンの結末)も楽しみです。

 ※掲示板のほうにもちょこっと書いてますので、よかったらのぞいてみてください。

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黒澤、小津映画の中の品のある日本人の顔

 私は、特に黒澤映画のファンと言う訳でもなく、小津映画のファンと言う訳でもなく、両者の作品ともTVで放送されたのを何作か見たことがあるばかりであるということは断っておきますが、今でも日本映画を代表する映画監督としてこの二人の名前をあげる人が多い状況は変わっていないと思います。日本映画といえばまず、”黒澤”、”小津”という状況は海外の方でも根強く残っていて、日本の新人監督達にとっては、巨匠として尊敬の対象であると共に、いつまでもそういう状況があるということで彼らが目の上のたんこぶ的に目障りな存在でもあるのかもしれないと思う。

 この文章では、そういう日本映画の現状について考察すると言うようなことを書きたい訳ではなくて、この両者の映画が何故にこれほどまでにインターナショナルな人気を得ることができたかということを、あるひとつの視点からだけ考察(そんなオーバーなものではないですが)してみました。
 
 それは、彼らが起用したお気に入りの俳優の顔に、具体的にあげると、黒澤映画の三船敏郎、小津映画の原節子や笠智衆の顔に、現代のと言うより、戦後の高度成長期以降の日本人からは失われてしまった品を感じると言うことである。
 例えば、映画「用心棒」の三船敏郎には、周囲を圧するような圧倒的な威厳と品がある。そして、人間に備わったそういう品があるとしか言いようのない特質というものは、世界中の誰が見ても理解でき、共感される特質なのだと思う。同じことは、映画「東京物語」の原節子や笠智衆にも言えると思う。人はそういう人間の持っている品という特質を普遍的な価値あるものとして直感的に感じ取って評価するのではないだろうか。だから、黒澤、小津両監督とも、彼らを見出し、起用した時点で映画の成功は7割方約束されたようなものだったと言う気がします。
 だから、そういう品を失ってしまった我々現代の日本人によって映画を撮らざるを得ない現代の映画監督が世界で評価されるような作品を作るためには、作品の質のみで勝負するしかないというより困難な状況はあるという気はします。残念ながら。

サッカー専門ブログ掲示板の方ものぞいてみてください。

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読書の効用~みうらじゅんの言葉

 イラストレーターのみうらじゅんが、新聞の読書欄で松本清張の小説「ゼロの焦点」について書いている文章が心に残ったので、少し紹介してみたい。
 私は、みうら氏の本職のイラストや、時々のTV出演での人を喰ったようなコメント(どうでもいいことを真面目な顔をしてしゃべるという「トリビアの泉」的芸風)に特に興味も関心も無いのですが、彼が時々発する真面目な発言がおやっという感じで心に残ることがある。
 みうらじゅんは松本清張の「ゼロの焦点」を紹介しながら、自分自身について語っている。一人っ子で両親の愛情を一身に受けて育ち、大きな挫折や不幸な経験も無く今まで来たというような、彼が折に触れて語っている自己像である。だから、自分には他人の気持ちが分からない、特に弱者の気持ちが分からずに来たというコンプレックスのような心情があったと。だから自分の思う優しさにはうそがある。そのことを問われるのが怖くて、その話題を避けてきたと。ここまでは、現代の多くの若者にも共通する心情だと思う。いや、心の隅にでもこういう自覚を持っている人は、それだけでも現代ではかなり誠実な人と言えるかもしれない。そんなことは思いもよらず、他人の身になってものを考えることには思いもよらず、他人とどうかかわるかについてばかり考えているというのが多数派になってしまっているのが現実なのかもしれないが。そして、他人の気持ちがわかる人間になりたいと思った彼は、松本清張の小説をむさぼり読むことによって、他者(弱者)の視点を学んだのだと。この彼の姿勢は、私にはかなり誠実な態度に思える。そんなことには思いもよらず、他人とどうかかわるかについてばかりに心をくだいている人が圧倒的多数を占めている現代において。

 他にも、みうらじゅんの発言で、「仏像が好き」なところなどの点で注目したりしているのですが、初めにも書いたように、彼のTV出演での発言等には、養老孟司氏がベストセラー「バカの壁」の”知識と常識は違う”の項で紹介していたピーター・バラカン氏の言葉、「日本人は、”常識”を”雑学”のことだと思っている」をいつも思い出してしまう。それは「トリビアの泉」のような番組を見ても感じることですが。知的探究心があるだけましだと思うべきなのか・・。私は、積極的にはこれらの番組は見てないです。おたくの限界っていうか、どうでもいいことによくそんなに真剣になれるねっていうか、あまりにも状況から切り離された彼らのパフォーマンスのイノセンスぶりが悲しいというか、結局、表現するものを何も持たずに表現している人の無意味さ、時間とエネルギーの無駄遣い・・・。ああ、「読書の効用」 というようなことを書くつもりがだいぶ脱線してしまいましたので、今日はこの辺で。
 
 ※コメント、ご意見等お待ちしています。
  掲示板の方にもちょこちょこ書いてますので、よかったらのぞいてみてください。簡単な料理とかも紹介してます。

 

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