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ちいさい頃によく読んだ絵本~ベストスリー

 子どもがちいさい頃によく読んだ本を紹介しようと思う。

 我が家は、男の子二人ですが、性格がかなり違うので、好みの絵本もかなり違っていて、上の子は「おばけもの」が好きで、「ねないこだれだ」のおばけに始まり、せなけいこの「おばけえほんシリーズ」などを好んで選んでいた。下の方は、乗り物系の絵本が好きで、歯医者さんに置いてあったロイス・レンスキーの「ちいさいきかんしゃ」という絵本を治療に行くたびに読まされたのを覚えている。

 今回は、ふたりともに人気のあった絵本を三冊紹介することにします。
 まず、誰でもご存知と思います超有名ベストセラー絵本ですが、エリック=カールの「はらぺこあおむし」(偕成社)です。これは二人とも夢中になりました。絵本のぼろぼろ具合が読んだ回数の多さを物語っています。子どもたちの大好きな食べ物の話ですし、何よりも、最後にさなぎからちょうちょになるところで、子どもたちの顔がぱっと輝いて、読み終わると必ず「もう一回」と何度も何度も読まされたのを覚えています。そして、子どもって、絵本に食べ物が出てくると、必ず食べる真似をすると思うのですが、この絵本でも、どようびに、あおむしは見開きページいっぱいに描かれた食べ物を全部食べておなかがいたくなるのですが、子どもたちも、その食べ物のページが大好きで、毎回そこに描かれた食べ物を全部食べる真似をしていたのを思い出します。絵本は次のページで、みどりのはっぱをたべてあおむしのおなかのぐあいがなおるというストーリーになっているのですが、ヘンゼルとグレーテルがお菓子の家にあこがれるように、さなぎから蝶になるところと同じくらいに、食べ物のページを目を輝かせて見ていたのを思い出します。

 次は、もう少し長い文章の絵本、ウクライナ民話の「てぶくろ」(福音館書店)です。これもかなり、読んだ痕跡が残っています。おじいさんがもりにおとしたてぶくろに、ねずみ、かえる、うさぎ、きつね、おおかみ、いのしし、くままでがつぎつぎとやってきて暮らしだすという、気難しいひとが聞いたら、うさぎは許すとして、きつねからは論理的に無理だろうと文句を言われそうな話なのですが、同じやりとりが繰り返されるリフレインの醸し出す面白さを子どもたちも楽しんでいたようです。あとから来た動物のキャラクターに合わせて、同じことを訪ねるのにも言い方を変えていたり(読んでいるほうも楽しいです)、中に住んでいると答えるメンバーが一匹ずつ増えていったりというのが思いのほか子どもたちには楽しいようです。あなたは、いのししのところで、初めて、中にいるメンバーに「(いのししがてぶくろにはいるのは)ちょっと むりじゃないですか」と言わせているのはちょっと無理があると言いたいですか?

 三冊目は、これもご存知だと思いますが、北欧民話「三びきのやぎのがらがらどん」(福音館書店)です。そういえば、これも、ちいさいやぎと、ちゅうくらいのやぎと、おおきいやぎが、順番に、はしをわたろうとして、それぞれのトロルとのやりとりが、三回繰り返されますね。それぞれのやぎによって、はしのなるおとや、しゃべるこえが変えられています。はしのなるおとは、ちいさいやぎ→かた こと かた こと、ちゅうくらいのやぎ→がた ごと がた ごと、おおきいやぎ→がたん、ごとん、がたん、ごとんというふうに。そして、この絵本のクライマックスは、はしをうならせるがたん、ごとんというおとからすでにみんなに期待感を抱かせる、おおきいやぎの登場シーンです。 「おれだ!おおきいやぎのがらがらどんだ!」というがらがらごえとともに登場するおおきいやぎ―このシーンの絵は、おおきいやぎの頭部だけが見開きいっぱいにその力強いつのを強調するように描かれており、(読むほうも思わず力が入るところですが、)子どもたちも、おおきいやぎの力強さ、かっこよさに、何度読んでもどっと沸きます。その後、おおきいやぎにこっぱみじんにされて、かわへつきおとされるトロルはちょっとかわいそうな気もしますが・・。
 
 この絵本、このおおきいやぎの英雄的ともいえるような力強さに男の子があこがれるのはわかりますが、女の子にもなかなか人気があるみたいなのですが、一方、読んでいるお母さん方は、どうでしょうか。子どもたちの圧倒的な支持に比べて、お母さん方は、「絵がかわいくない」とか「どこがおもしろいのかわからない」とかの感想を持つ方が結構多いようです。お母さん方の「かわいい」という基準でのみ選ばれた、ふわふわ綿菓子か、ぺろぺろキャンディーのような絵本しか与えられずにいると、絵本の面白さを本能的に感じ取ることのできる子どもたちは、絵本の世界の豊かな広がりを与えられないまま、本物の面白さを知ることもなく絵本から興味を失ってしまうことになるのではないかという危惧を覚えます。ずっと、読み継がれたきた絵本には、読み継がれるだけの価値と理由がある。自身の狭い価値観に縛られて絵本が選ばれることによって、絵本の優秀な読み手である子どもたちが絵本から遠ざけられているのではないかと思います。ただ、「かわいくない」という理由のみで。(このことについては、もう一回、項を改めて、書いてみたいと思います。)

はらぺこあおむし
森 比左志 / Carle Eric
てぶくろ
内田 莉莎子 / Rachёv Evgienii Mikha〓〓lovich
三びきのやぎのがらがらどん
瀬田 貞二 / Brown Marcia

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ペイントギャラリー~星と星の協力~

hositohosinokyouryoku
「星と星の協力」 by kai

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ドラマ「天城越え」の松本清張

 ちょっと前に、松本清張原作のテレビドラマ「天城越え」が再放送されて、(NHKアーカイブスで放送された大谷直子主演のもの)何となく見ていたのだが、そのドラマに松本清張本人が俳優として出演していたのである。ストーリーは大体わかっていたし、田中裕子主演の映画も見たことがあったので、そんなに熱心に見ていたわけではなかったのですが、俳優松本清張の登場には思わず惹きこまれてしまった。
 その出演を本人が希望したのか、それとも演出家(和田勉)が頼んだのかは知らないが、このドラマのテーマの表現に欠かせないような、重要な役だった。ストーリーについてはよく知られていると思うので、省略させてもらいますが、松本清張の役は、同じ時刻に天城越えをした娼婦へのほのかな思慕から、少年の起こしてしまった殺人を目撃する旅の遍路のような役だった。殺人を犯してしまって放心状態の少年を岩の上のほうからじっと見つめて、「ぼうやのために祈ってあげたよ。」と言って、手を合わせて祈り、そのまま立ち去るという役だった。松本清張というひとは、容貌にも迫力があったので、彼が現われた場面は、今思い出しても、まるで神様か仏様があらわれたかのような、静かではあるが圧倒的な存在感があった。この少年役は鶴見辰吾だったみたいだが、そして、宇野重吉という名優も出ていたのだが、俳優松本清張の印象が強烈で、あまり覚えていない。
 
 ドラマや映画は説明するとつまらなくなるので、あまり説明したくないし、うまく説明もできないのですが、松本清張の役は、誰も見ていないと思っていても、神様は見ている、あるいは自分の心が知っているという昔からの教えを思い起こさせる。個人のなかにある良心が形として現われて(それを神と言うのかもしれないが)なおかつ、その罪のために祈ってくれる。そういう存在を自分のなかに持っているということが、そしてその目を意識しているということが、生きていくうえで重要なことなんじゃないかとちょっと思いました。

 この作品はNHKよりDVDとして出ているみたいなので、興味のあるかたは御覧になってみてください。松本清張を見るためにだけでも見る価値はあると思います。

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絵本のなかの子どもの顔~エッツ他

 今回は、ちょっと変わった視点で絵本を紹介してみたいと思う。

 絵本の絵の方に注目して、”絵本に描かれた子どもの顔ベストスリー”と言った感じで選んでみました。

 ひとつめは、 「おやすみなさいフランシス」 (ラッセル・ホーバン 文 /ガース・ウイリアムズ 絵 /福音館書店)です。この絵本の主人公、あなぐまの子どもフランシスの顔は最高です。
 まず、表紙の絵の、こっちを向いたフランシスの顔の好奇心にあふれて、生き生きした目の表情を見ていると、思わずぎゅっとしたくなるほど可愛いいです。
 次に、おとうさんにおんぶしてもらって、へやまでつれてってもらうときの、フランシスのみちたりて、とろんとしたうれしそうな顔を見ていると、こっちまでしあわせな気分になってきます。
 次に、へやのすみにとらがいると両親にうったえにいくときの顔も食べちゃいたいくらいかわいい。
 そして、散々、両親にあまえてはなしを聞いてもらって、あんしんしたフランシスの寝顔がまた可愛い。子どもが小さい頃、「子どもって、寝顔が一番可愛い」と思ったりしたことを思い出します。フランシスの顔を見ていると、そんな時期を思い出して、しあわせな気持ちになれます。子どもの子どもらしさをこんなにも巧みに描けるガース・ウイリアムズの観察眼と表現力には、ただただ脱帽するばかりです。

 次に紹介するのは、私の大好きな絵本作家マリー・ホール・エッツの 「またもりへ」 (福音館書店)です。
 この絵本は、前に紹介したエッツの絵本「もりのなか」の姉妹篇とも言える絵本ですが、またもりのなかへいったぼくが、どうぶつたちと、じぶんのとくいなことのみせあいっこをじゅんばんにするというあそびをするのですが、ぼくのばんになって、ぼくがどうぶつたちのまえでさかだちをしたあと、はなでぴーなっつをつまもうとして、おかしくなってわらってしまうという重要なシーンがあるんですが、そのぼくのわらう顔が、これまた本当にいいんです。エッツの絵は、「フランシス」のガースの絵ほど細部を描いていませんが、最小限の線だけでよくぞここまで、というほどそのぼくの笑顔が絶品なのです。
 それは、物語のラストで、また、ぼくをむかえにきたおとうさんに、「おとうさんだって、ほかに なにも できなくても いいから、おまえのように わらってみたいよ」と言わせるほどいい笑顔なんです。そして、そういう笑顔を描ける、エッツにも脱帽するしかありません。

 最後に、日本の画家から誰かひとり挙げておきたいのですが、なかなか思い浮かばないですね。いわさきちひろさんもうまいと思いますが、彼女の描く子どもは、愁いがあって、ちょっと私の思う子ども像ではないんですね。
うーん、絵の大きさと大らかさで赤羽末吉画伯を挙げておきます。昔話が多いので、おじいさんとおばあさんの絵がやっぱり多いですが、日本古来の子どもの顔のよさがあると思う 「ももたろう」(福音館書店)のももたろうの顔を挙げておきます。
 やっぱり、日本の場合は、子どもの生き生きとした表情まで描くという伝統がないのかなあ。

 子どもというのは、ある年齢までは、世の中の愁いなどからは守られて育ってほしいし、そういう子どもたちの見せてくれる豊かな表情は、私たち大人にとって得難い宝石のように大事なものに思われます。風船一個、石ころ一個で幸せになれる彼らの能力を「またもりへ」のおとうさんのようにうらやましく思いながら。

 

おやすみなさいフランシス
松岡 享子 / Hoban Russell / Williams Garth

 
またもりへ
間崎 ルリ子 / Ets Marie Hall

ももたろう
赤羽 末吉 / 赤羽 末吉著 / 赤羽 末吉絵 / 松居 直

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旅で出遭った異相のひと

 奈良について書いたついでに、旅で出遭った不思議な人物についての思い出を書いてみたいと思う。
 
 旅に出ると、日常生活では絶対に出遭わないだろうなという人に出遭ったりすることがある。二回目の奈良旅行の時のことだったと思う。奈良から少し足を伸ばして長谷寺に行った時のことだ。季節は五月の中旬から下旬にかけての頃だったと思う。有名な牡丹の時季は終わっていて、参拝客もまばらな季節だった。私は、行きは近鉄で桜井まで行き、そこからバスで長谷寺前という仁王門のすぐ近くのバス停で降りて(まだ、朝早い時間だった)、仁王門をくぐって有名な登廊を上り始めた。(この登廊は圧巻です。桜や牡丹の花の季節なら更によい眺めだと思います)そして本堂の長谷観音にお参りして、これも有名な本堂から張り出した舞台からの景色を眺めたりしていたのですが、ふと登廊の方を見た時、奇妙な人物が登って来るのに気が付いて、その格好の怪しさに目を奪われてしまったのです。上から順番に紹介すると、昔の学生帽のような帽子を被り、ブラック・ジャックのようなぼろぼろの黒いマントを羽織り、手には杖という、まるでタイムスリップして現代に現れた横溝正史の金田一耕助シリーズのドラマの登場人物のような不思議な人物が、見晴らしのよい所で立ち止まっては、大きな声で何か感想のようなことを言ったりしながら石段を登って来るのです。私は、面白さ半分と、怖さ半分で、その人物から目が離せなくなくなってしまったのです。 帰りは、みやげ物屋の並ぶ参道をぶらぶら歩きながらも、その人物との距離が縮まらないように注意しながら、近鉄の長谷寺駅に着いた時は、正直ほっとしました。そこから彼が何処へ向かったのかは、知る由もありませんが、彼は何者なのか、何処から来たのか、と考えさせられるような異相の人でした。たぶん、そういう空間でなければ出遭うことはないような。破戒僧のようにも見えました。

 もうひとつ、旅で出遭った人物について書いてみたいと思う。今度はイタリアの旅で。
 フィレンツェから普通列車でアレッツォという街に行った時のこと。目的は、アレッツォのサン・フランチェスコ聖堂にある、ピエロ・デッラ・フランチェスカの壁画を見に行くことだったのだが、イタリアの田舎街といった感じのアレッツォの駅で、この時は連れがいたのだが、連れがトイレに行ってホームでひとり待っている間に、いきなりがばっと腕をつかまれたのだった。見れば、目の下に隈のあるような痩せた女の人が、イタリア語で必死で何か言っていたが、いかんせん私のイタリア語は「こんにちは」とか「いくらですか」とか「トイレはどこですか」ぐらいのものだったので、彼女が何を言っているのか全くわからないので、そのままの姿勢で固まっていると、諦めて何処かへ行ってしまった。その表情から察するのに、「金をくれえ」か「薬をくれえ」というようなことを言っていたような気がしますが。駅を出てから歩いたアレッツォの街は、そんな駅での出来事がうそのような平和でちょっと退屈な田舎街だったのですが、それは、私たちがイタリア人に抱いているイメージ―陽気に人生を楽しんで悩みなんかあんまり無さそうというような―とは違うイタリアの別の一面に触れたような出来事でした。各駅停車のローカル線に乗ると、不思議とそういう人物に出遭うことが多く、そういう気配を感じた時は、言葉がわからないので余計に早く終着駅に着いてと祈りながら乗ったりしてました。そういうひとは、何かしゃべりながら車内をうろうろしていることが多いのです。イタリア人にも悩みがあり、イタリアの社会にも影があるということだと思いますが。勿論、イタリアのイメージどおりのひとも多いんですけれど。

 皆さんは、旅に出て、このような経験をしたことはありませんか。旅という非日常空間で出遭ったひとの思い出が
皆さんにもあるのではないでしょうか。余談とは思いましたがそんな思い出をちょっと書いてみました。

 ※感想お待ちしています。よかったらマイホームページの掲示板のほうものぞいてみてください。そちらのほうにも奈良旅行のエピソードをひとつ書いています。

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