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~判官びいきの心性~

 NHKの大河ドラマで取り上げられたりして注目を集めている”義経”に因んだ”判官びいき”という言葉があるが、自分の心性のなかに根強く判官びいきの心性があるのに気付く。どういう時に一番感じるかというと、やっぱりスポーツ観戦の時で、スポーツの試合などで、どちらのチーム、あるいは選手もひいきではない時は、大体負けているほうを応援している。何となくそうしている自分に気付く。一方的なゲームがおもしろくないという気持ちもある。ヨーロッパなどにもそういう心性はあるだろうか。ありそうな気がするが、アメリカには無さそうだ。日本でも若いひとはどうだろうか。若い世代のほうが世相の影響を受けやすいので、”強者の論理”で動いているひとが多いような気もする。”勝ち組”、”負け組”などという言葉で分類して、(私はその本読んでませんし、今後も読まないと思いますが、)自分が勝ち組だと安心し、自分は負け組だと確認したとしても、自虐を装うふりをして優越感に浸ってるような感じを受ける。どちらにしても、判官びいきとは遠い感性だと思う。
 ところで、また古い話で申し訳ないけれど、アテネオリンピックで私が一番心に残ったのは”井上康生選手の敗戦”なんですよね。凡人としては、強い選手が垣間見せる弱さというものにどうも弱くて、順風満帆で隙を見せない選手よりも、時々コケてしまう選手のほうが好きなんですよねえ。例えば、PKを失敗してしまうベッカムとか、ヴィクトリアに頭のあがらないベッカムとかいう風に。

 それにしても、「平家物語」の前文(祇園精舎ので始まるあれです)は素晴らしいと思う。あの前文だけでも、日本の政治家のひとびとに読んでもらいたいと思う。平家の運命に思いを馳せれば、自分達の身の処し方ももう少し潔くなるんではないだろうか。

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バレンタインデー

 チョコ、チョコとうるさいんである。
 我が家の息子ふたり(小5と小2)のことなんですが、毎年この時期になるとぼやいている。テレビ等のメディアに洗脳され過ぎと思うけれど。

 弟 「○○君は5個ももらったけど、ぼくは1個(母から)やった。」
 母 「ははは・・・・・・。」
 
 小学校でも、人気の一極集中はあるみたいで、人気がある子(チョコをたくさんもらう子)というのは、どことなく落ち着いた雰囲気のする子(つまり小学校時代は女の子のほうが成長が早いので、そういう中で女の子に選ばれる子というのは、”自分達と同じレベル”にあると思われる子が選ばれていると思う。)ということになると、なかなか限られてきて、無難なところで、かっこいい男の担任の先生といったところに落ち着くんじゃないだろうか。兄のクラスでも、
 
 母 「クラスで一番もてるの誰?」
 兄 「先生。休み時間になると、女子が(先生を)取り囲んでいる。」
 
 とのこと。

 で、そんな担任の先生がクラスの男子に対して、

 「バレンタインデーでチョコをもらえなかったぐらいで、自分の人生うらんだりしないように。」 

 という、適確なアドバイスをしてくれたようだ。(年長の同性ならではのアドバイスだなあと感心しました。)
 女の子にとっては、お祭りっぽいイベントなんでしょうが、(チョコをもらえない)多くの男子にとっては、悩ましい一日なんでしょうね。


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思い出のなかの映画~フェリーニ&アンゲロプロス~

 映画をあまり見なくなった。私にとって、新作が発表されたら必ず見たいと思わせる映画監督が、亡くなったり、作品を発表しなくなったりしてしまって、次々といなくなってしまったから。フェリーニ、ヴィスコンティ、キューブリック、ゴダール、トリュフォー・・・・。そんななかで、テオ・アンゲロプロスは、そんな気にさせる、残された稀有な作家の一人だと思う。
 その作品を全て見ている訳ではないので、二つの作品の感想を書くだけにします。
 あの独特の語り口に出遭ったのは、有名な「旅芸人の記録」(1975)だ。ギリシャ中を旅して回る旅芸人の一座を中心に据えて、大国に翻弄されたギリシャ現代史を、独特の語り口で映像化している。最初に見たときは、4時間にも及ぶ大作でもあり、この映画が描いているギリシャの現代史についての知識が全くないままに見たので、よく理解できない面もあった。その辺についての多少の知識はあったほうがわかり易いと思う。戦前、戦中はナチに、そして、戦後はアメリカやイギリスに支援されて誕生した軍事独裁政権によって支配されるというギリシャの不幸を、それにじっと絶え続ける民衆(旅芸人)の側から描いている。
反体制運動で命を落とした息子を埋葬するシーンで、棺を土に埋めるときに、長女が、「彼はよくがんばりました。」とひと言って、その後で皆が棺に向かって黙って拍手をするシーンでは、その抑制された悲しみの表現に、涙が止まらなくなってしまった。戦争の暴力も描かれている。でも、それらは、それを描くことが目的のように執拗にではなく、さらっと暗示的に描かれている。だからといって、こちらに訴えかけてくるものが弱いかというとそうではない。その抑制された表現によって余計に、私達は、作者の、そして、ギリシャの悲しみの深さを知ることができる。
 
 そんなアンゲロプロスの作品をもうひとつ。「霧のなかの風景」(1988)。冒頭、ドイツ行きの列車に乗ろうとして、決心がつかず逡巡する姉弟の姿が描かれる。母親に聞かされている、ドイツにいるという父親に、ふたりだけで会いに出かけようとして、列車に乗ろうとするのだが、あと一歩が踏み出せないふたりの気持ちが、ふたりの眼前で閉まる列車のドアによって見事に描き出されている。しかし、ある日、とうとうふたりは列車に乗ってしまう。11才と5才のふたりの、国境を越える旅の過酷さが暗示されている冒頭だった。予想どおり、ふたりはいろいろな困難に遭遇する。特にその姉にとっては、旅に出なければ、女性として、そんな目に会うこともなかったろうにという経験までするのであるが、(勿論、暴力は暗示的に描かれている)作者は、そんなふたりの旅を淡々と描いている。
作者が、このふたりを通して描きたかったのは何だろうか。それは、ギリシャの辿った過酷な運命ではないだろうか。そして、そんな運命に翻弄されているように見えて、意外に力強く生きていくふたりに、作者の、祖国の民衆の力強さへの、愛と希望を感じた。それにしても、どちらの作品も、静謐だけれども、力強い!単調だけれども、飽きない!
  
 次に、イタリアの国民的映画監督フェリーニの最も有名な作品「道」(1954)について。
何で、この作品のことを思い出したかというと、前回の記事で紹介したヤノッシュの絵本、「くまのサーカスザンパーノ」のザンパーノという名前から、映画「道」の主人公、あのアンソニィ・クウィンが演じた、”粗野で悲しい”ザンパノのことを思い出したからだ。映画「道」のザンパノは、アンソニィ・クウィンの名演とともに忘れがたい人物だ。彼の人間としての罪と悲しみは、ジェルソミーナの無垢と純真との対比で、一層強くあぶり出される。ジェルソミーナを亡くして、号泣する彼の悲しみが胸を打つのは、私達は、彼のなかに自分達自身の姿を見ているからだと思う。私達は、無垢なジェルソミーナではない。ザンパノは、戯画化された私達の自画像なのではないだろうか。
 
 フェリーニの作品の中でも、「道」はネオ・レアリスモ的な時代の匂いのする作品で、私達にとって比較的入り込みやすい作品だと思うけれど、彼の最も彼らしい作品は、その後に作られた「8 1/2」や「フェリーニの道化師」や「フェリーニのローマ」などに始まる、夢や幻想が入り混じった、猥雑で、濃密で、ファンタジックな作品の世界だと思う。そんなフェリーニが自らの内面世界を表現するのに最も好んで使ったいくつかのモチーフ、夢、サーカス、ピエロ、そして、巨女、(この最後の巨女は、心理学的にも興味があるところだが、)などによって描かれる世界は、正直言って、最初の頃は、そのラテン的過剰さに違和感があったが、見続けているうちに、段々その濃密で猥雑な世界がくせになってくる。そんな作品の中でも、彼が故郷のリミニでの少年時代の思い出を映画化した、「フェリーニのアマルコルド」(1973)という作品は、ノスタルジーとファンタジーが絶妙に融合した、とても印象的な作品だった。”風に綿毛が舞い始めると、春の訪れに気付いた。”というナレーションで、私達は彼の心の中の故郷に導かれて行く。ちょっと、可笑しくて、悲しい人々の織り成すお得意の群像劇なのだが、全てが彼の実体験に基づいているらしいので、全てのエピソードがファンタジックであるけれども自然に描かれている。
 
 ところで、今回はやっぱり、「道」に帰りたいと思う。
 ザンパノは、”戯画化された私達の自画像だ”と書いたが、彼は、彼の犯した罪を、彼に代わって嘆き、悩んで死んでいったジェルソミーナの死によって、最後に、自らの罪に気付き救われた、と思うが、現代のザンパノである私達は、既に、ジェルソミーナのいなくなってしまった世界を生きている気がするのだ。いや・・・、ジェルソミーナは子どもに姿を変えて生きているのかもしれない・・・。

 以上、つらつらと、フォークロアな絵本の世界から思い出した映画について書いてみましたが、なかなか、うまく表現しきれないままに終わりそうですが、これらの作品に興味を持たれた方は、是非、御覧になってみてください。
 ※「旅芸人の記録」は4時間余りの大作なので、体調のいいときに見ることをお勧めします。

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フォークロアな絵本~タバック&ヤノッシュ~

 夜の間に雪が降りました。5cmくらい積もりました。私の住む南国では珍しいことです。時々、屋根から落ちる雪の音が、ばさっ、ばさっ、と聞こえてきます。普段より静かな気がします。
 今回は、フォークロアな絵本をニ冊紹介したいと思います。一冊目はシムズ・タバックの「ヨセフのだいじなコート」(フレーベル館)です。(2000年のコールデコット賞受賞作です。)
 ヨセフは穴のあいたコートを持っていました。表紙の絵のコートは、すでにすそのほうにいくつも穴があいています。まず、ヨセフはそのコートにつぎをあてて着ます。次に、すそのほうを切って、ジャケットを作ります。ジャッケトの袖が破けてきたらチョッキにします。という具合に、次々と小さいものにリサイクルしていって、最後にはボタン(くるみボタンなんでしょうね、)にして使います。ボタンをなくしたところで、お話は終わります。もうそれ以上リサイクルできないので。この絵本は、切りぬき絵本の手法が使われていて、リサイクルした次の形が、前のページの窓から見えるようになっています。私は、コート→ボタンになるという徹底ぶりに感動しました。皆さんはどう思われますか。貧乏臭くていやだと思うでしょうか。新品の服を着ている子がほとんどのような最近の子どもたちはどう思うでしょうか。案外、「すごい!」と思うんじゃないでしょうか。
 それと、切りぬき以外にコラージュの手法も使われていて、この絵本の、温かいフォークロアな雰囲気作りにマッチしています。それと、ストーリーと関係ない文章が、ページの端っこのほうに(コラージュされた新聞などに)書かれていて、(ナンセンスなものが多いです、)それを見落とさないように読むのも楽しみでした。
 「I Had a Little Overcoat」というイディッシュ語のわらべ歌をヒントにして書かれた絵本だそうです。

 フォークロア絵本、二冊目に紹介したいのは、絵本「おばけリンゴ」が有名な、ドイツの絵本作家ヤノッシュの、「くまのサーカスザンパーノ」です。
 
 ある村に、赤いトラックに乗って、ザンパーノおじさんと、くまがやってきました。おじさんは、おそろしいくまを、みごとにてなづけて、くまにいろいろなげいとうをさせます。くまは、おじさんのいうことならなんでもやりました。つなわたりやおどりまで。おしまいに、くまがおじぎをすると、おじさんはそのあたまのうえに、どかっとながぐつのあしをのせて、とくいそうなポーズまでしてみせました。みんなは、「おじさんってすごいなあ。」とかんしんしてみていました。そのとき、ハエがとんできて、くまのはなさきをまわりはじめました。くまはハエをおいはらおうと、手をぐるぐるまわしはじめました。それにつられてくまのつなをにぎっていたおじさんのからだも、空をぐるぐるまわりはじめました。そして、そのつなが切れると、おじさんはそのままどこかへとんでいってしまいました。くまは、そのまま森のなかへきえていきましたが、おじさんはいまでも空をとびつづけているそうです。ときどき、よそから来た人が「あの、空をとんでいるのはだれですか。」とたずねるそうです。

 くまよりつよいといい気になっていたおじさんですが、ほんとうは、くまのほうがつよかったんですね。
 ”これはほんとうにあったおはなしです。”という言葉でこのお話は終わっていますが、どこかで聞いたようなお話だと思いませんか?
 油絵風のタッチで、一見稚拙にみえるように描かれたヤノッシュの絵は、その作品に”素朴派”と呼びたいような懐かしい雰囲気を醸し出しています。

 

ヨセフのだいじなコート
シムズ・タバック作・木坂涼訳

 ※ヤノッシュの「くまのサーカスザンパーノ」は、現在、書店では入手困難なようです。図書館でさがしてみてください。
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