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ビートたけし~永遠の少年~

 前回の記事「お笑いにみる学力の低下」で、とりあげたビートたけしさんについて、今回は、私が彼に感じている違和感のようなものを、彼が制作、出演した映画を中心に考えてみたいと思う。
 今のお笑い界で、一番、頭が切れて、カリスマ性もあり、若者たちにもその発言がかなりの影響力を持っている存在であることに異論はない。しかし、私は彼が北野武として監督、主演した映画に、いまひとつ食指を動かされないのだ。だから、彼の映画作品を私は見ていない。作品を見ずに批評するのは反則だと思う。でもどうしても映画館に足が向かない、その理由について書いてみたいと思う。
 彼が自分の作品の過激な暴力表現について聞かれたときに、「私の映画の暴力は、ハリウッド映画などで描かれているような”痛くない暴力”ではなく、観客が見て”痛い”と感じるように描かれている。”切ったら血が出る”その痛さを描いている。」と言う意味のことを言っていたと思う。だから、観客が感じるその痛さが、暴力への抑止になるのだと。なるほどと、思わず納得したが、しかし、「待てよ」とも思う。観客が痛いと感じるには、観客のほうにそれを見て痛いと感じるだけの共通の感覚があることが前提となっていると思うけれど、最近の世相やニュース、事件などを見ていると、受け取る側に、彼が前提としている、そういう感性の共通の土壌がが無くなりつつあるんではないか、という気がしているからである。彼が期待するそういう表現の前提が崩れてきている気がするのだ。
 さらに、自分も含めて、みんな疲れていると思う。世界がすでに暴力に満ちているのに、さらに、フィクションの世界でまで見たくない、というところが正直な気持ちだ。そんな気力がない。
 それは、彼が最近主演した映画「血と骨」にも感じる。各映画賞を総なめにしている話題作で、在日を描いた力作というのはわかるが、女性として見る気がしない。映画でまで現実を再確認したくない、というところだろうか。 たぶん、こう書くと、女こどもに向けてつくってない、という彼の哄笑が聞こえてきそうだけれど。実際のところ、趣味の問題かもしれない。若くて何にでも好奇心があった時代の自分なら見たかもしれない。でも、自分の感覚のなかの何かが違うと言って拒否しているのだ。
 子どもに見せてはいけない文学や表現というものを否定するつもりはない。だが、子どもに接して、絵本の世界に触れるうちに、自分の表現に対しての考え方が変わってきたと思う。リアリズムでは表現しきれない豊かな世界があるということを感じている。ファンタジィというのだろうか、そういう分野は日本人の最も苦手なところらしいけれど。
 うまく、表現できないままに終わってしまいそうですが、私が、彼の表現で一番好きなのは、彼が自分の母や両親、生まれ育った下町を描いた「たけしくん、ハイ!」や「「菊次郎とさき」などの自伝的作品だ。私たちは、彼がどんなに反発しようとも、母親に対して抱いていた親愛の情を、それらの作品や、時々、彼が語る言葉によって知っている。彼の拠って立つところはやっぱりそこだという気がしている。貧しいけれども誇り高い下町の人々の世界。「教育によって貧乏を絶つ」という猛烈な教育ママの走りのような母親への反発が、今までの彼の原動力だったと思うが、これからはもっと、成熟したおとなの表現者となって欲しいと思う。(永遠の不良少年でい続けると言う声が聞こえてきそうだけれど。)
 彼の映画に対する不満は、そのまま日本映画に対する不満でもある。女性が描けてない。女性の視点がない。まあ、無理かもしれないなと思うが、私の映画離れは、ますます、進みそうだ。


 ※マイホームページの掲示板あざみ広場ものぞいてみてください。

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