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「二○世紀から」(加藤周一 鶴見俊輔)

 年末ということで、来し方行く末に思いを馳せて、少し固めの本ですが、前回の「復刊ドットコム」の記事にも出てきた本、「二○世紀から」を紹介します。
 本当にすごい本です!この本は、月刊雑誌「潮」誌上での(1999年1月号~2000年2月号)、加藤周一、鶴見俊輔という”知の巨人”ともいえる二人の対談を本にしたものです。二十世紀の百年を回顧して語られる二人の言葉は、歴史のみならず、文化、科学、思想、哲学、宗教などに対する該博な知識と柔軟な思考に裏付けられた言葉です。テーマは、戦争、社会主義、帝国主義、ファシズム、消費社会と南北格差、大衆文化、科学技術、宗教、ジャーナリズムなどですが、この本は、2001年9月5日に初版が発行されていますが、7 消費社会が生んだ南北格差の項では、あの、9・11のテロがおきるかもしれない中東の現状が語られています。
 
鶴見 中東はいま石油でもっているわけですが、石油は無限にあるわけではなく、石油がなくなったときは中東は大変なことになる。・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・、長い射程で考えると、中東にあるのは絶望的な未来です。やがてそこからアメリカに対する憎悪が噴出し、それをイスラム教が正義づけるかもしれない。南北格差というのは人類にとって恐ろしい問題をはらんでいることに気づくべきです。(「二○世紀から」155頁)

 また、14 ジャーナリストは何を表現したかの項で、加藤氏は、マスメディアの問題として、まず、さまざまな圧力や部数、視聴率がニュースやエンターテイメントの内容に強い影響を与えているというを点をあげた後、

加藤 もうひとつは、「中立・客観的・公正」というけれども、沈黙もまた意見の表明で、「中立」の意見というのはないんです。また、「客観的に事実を報道する」といっても、「事実」は無数にあるわけで、事実を選ぶには何らかの基準がなければならない。その基準は、結局、価値観で、したがって、客観的なニュース報道というものも原理的にはない。多くの新聞やテレビが言っている「中立・客観的・公正」というのは、よくいえば幻想で、悪くいえばウソです。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 それから、アメリカではウォーターゲート事件のようにジャーナリストが自分で調べるけれども、日本のジャーナリストは主として記者クラブでしょう。警察の発表をそのまま報道するから、ニュースソースが政府に偏っているという弱点があると思う。(同書291頁)

加藤 結局は話題の選択の問題だと思う。テレビに何が映っているかというと、世の中にとって重大なことはほとんどない。飛行機が落ちたということで大ニュースになったりするけれども、全体としては構造的に重大な問題はあまりない。そうすると世界は調和的だという印象が大衆の中に浸透していく。これがいちばん大きな問題です。(301頁)

鶴見 それが武谷三男が言う「新しい闇」なんです。オーウェルは一介の巡査として植民地・ビルマにいたし、志願してスペイン市民戦争に参加しているから、現実の政治には必ず妥協が必要だということを知っていた。どういう妥協か、彼にとってはそれが問題で、それが彼の文学批評の基準だった。だから字面だけのラジカルは否定する。オーウェルが二十世紀の偉大なライターであり、偉大な政治思想を代表しているというのは、敵の中にもいいものは見ているからで、そういうものが日本では少ない。
加藤 イギリス人は「どちらが正しいか」ではなく、「どちらがより正しいか」、あるいは「より悪いか」という比較級で、最上級は使わない。それでいて、「どちらでもいい」とはいわず、場合によってはいいと思うほうに命懸けで取り組む。そこが偉い。(302頁)


 9・11のテロが起きた時、私は寝ているところを、いきなり殴られて起こされたような気がした。あの後、ニュースや新聞、特集番組などを片っ端から見たり、イスラム教についての本を読んだりした。そして、自分は世界について何も知らなかったんだということを思い知らされた。世界の現実についての無知と無関心は、大きな怒りとなって、自分達にはねかえってくるということ、そして、私達が、少しでもこの現実を知ることによって、世界が変わる可能性が出てくると思う。この本は、二十世紀を振り返ることによって、私達に二十一世紀を生きていくための的確なヒントを与えてくれます。私は、特に、政治とジャーナリズムをどう読むかという点で参考になりました。

上に、かなり長々と引用したのは、この本が現在、絶版となっているからです。この本は、私にとって、二十一世紀を生きるための炬火のような本です。興味を持たれた方は、下記より復刊リクエスト(前記事「復刊ドットコム」参照)に投票してください。読むだけの、価値のある本だと思います。
 
  「二○世紀から」復刊リクエスト投票ページへ

追:それと、絵本作家、長谷川集平さんの絶版になっている「とんぼとり」という絵本の復刊リクエストにも投票しています。そちらの投票ページへのリンクも張っておきますので、ご賛同いただける方は、投票してください。(長谷川集平さんの絵本については、また、項を改めて書きたいと思ってます。それとマイホームページ「あざみ野荘でつかまえて」に掲示板あざみ広場を設置しましたので、皆さん恐れずに、書き込んでください。簡単な近況報告を掲載しています。)

 「とんぼとり」復刊リクエスト投票ページへ

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復刊ドットコム

 ある絵本のことを調べていて、(その絵本とは長谷川集平の「はせがわくんきらいや」と「とんぼとりの日々」なのだが、)その絵本が、インターネットの復刊ドットコムというサイトの復刊リクエストの投票によって、復刊が決まったということを知った。本の流通の世界の流れは速く、欲しい本は、書店で見つけたときに無理してでも買わないと、後から思い出して探しても、すでに絶版になっていて、図書館にもないということがよくある。この企画で、自分が読みたいと思っている絶版本が復刊されるとしたら、それはとても画期的なことだと思う。もし、読みたいけれど手に入らない本があるというひとは、上記のサイトより復刊リクエストに投票してみてはどうでしょうか。
 私も現在、一冊リクエストしています。その本への投票ページへのリンクを張っておきますので、ご賛同いただける方は是非、投票してください。その本は、
 二○世紀から」、(著者/加藤周一 鶴見俊輔 です。
 投票ページに、この本についての簡単な説明を載せてますので、興味のあるかたは、そちらのほうに飛んでみてください。近じか、このサイトでも、この本の書評を書きたいと思ってます。

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前衛絵本作家 長新太!

 長新太の絵本の絵をみていると、羨望を覚える。その線にしても、色の塗り方にしても、じょうずに描きたいとか、うまく思われたいとかいう気持ちの誘惑からまったく自由な境地に達していると思うから。日本の前衛絵本作家と呼びたい。彼のような作風の作家が、”かわいい”ということが必須条件のように幅を利かしてる日本において、ずっとトップで活躍し続けているということは、日本の絵本の世界もまだまだ大丈夫という、私にとって、ひとつのバロメーターというか、希望の灯火とさえ言っても良い。あの境地にまで達している人は、世界をさがしてもそんなにいない。それでいて、野暮では無く、粋。画家で言うと、ピカソより、マチスといった感じか。
 氏の「絵本画家の日記」という著作を読むと、通俗、低俗が幅を利かせている、日本の絵本界、出版社、編集者たちを、ばさばさ切っていて、やはり、内面に確固とした信念のようなものを持ち続けているひとなんだ、ということがわかる。ちょっと抜粋してみよう。
 

「かわいくて、キレイなものがキライなんですか?」と、女の人から詰問された。ふだん、その種の絵本の悪口を言ったりしているから、こんなことを言われる。かわいくてキレイで、いい絵だったらいいのです。かわいくてキレイで低俗なのがいっぱいだから、悪口のひとつも言いたくなるのです。

イラストレーションの年鑑を見ると。そのテクニックに感心する。イラストレーターの創造性は別にして、テクニックにはおどろく。絵本画家は到底かなわない。

わたしの作品に対する評価に「ついていけない」と、いうのがある。お母さんが、そう感じている。それでいいと思う。無理してわかろうとすることはない。わたしも「ついていけない」ものがたくさんある。内緒だけど「ついていけない」同業者が,いっぱいいるのよ。                         
                                     「絵本画家の日記」(ブックローン出版)より
 
 
 そんな過激な長新太であるが、彼の作品の一番の理解者は、やっぱり、子どもたち。氏自身、子どもの絵に嫉妬をおぼえると、述べられているように、お母さんがついていけなくても、子どもたち、特に、意味の世界にとらわれるまえの年令の小さい子どもたちのほうが長新太ワールドにすっとはいっていける、直感的にそのよさを感じとっているのではないだろうか。
 長新太の著作は、かなりたくさんあるが、ここでは、「キャベツくん」シリーズより
 


 
 ちいさな子どもさんでも楽しめる
 
の三冊を紹介します。お母さんたちも、これくらいなら、「ついていける」かな?

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エルスケン写真展~セーヌ左岸の恋~

 高知県立美術館で開かれている「エルスケン写真展」に出かけた。(12/5~’05.1/30まで)私の手元に、'85年にリブロポートより初版が発行された「エルスケン 巴里時代」という写真集がある。私が買っているのは’88年に発行された4刷だから、写真集としては、当時としてはかなり売れたほうなのではないだろうか。展覧会では、写真集「セーヌ左岸の恋」が売られていたが、リブロポート版では、「セーヌ・・・・」の写真だけでなく、当時のパリの街角や市井の人々を撮ったもの(ブレッソン風)、有名人を撮った珍しい写真なども掲載されている。「セーヌ・・・・」以外の写真では、市井の人々を撮った写真と、有名人を撮った写真では、前者では、被写体に対する愛情のようなものが感じられるが、後者の有名人のポートレイトやスナップなどからは、対象との距離や皮肉っぽい眼差しさえ感じられて、そういうところは彼らしい。
 さて、「セーヌ左岸の恋」であるが、撮るほうと、撮られるほうの距離がほとんど無い写真、若い彼だからこそ撮れた写真といえると思う。それにしても、この暗さはなんだろう。時代の不幸と個人の不幸がリンクしている。アンの写真に、この物語の登場人物ロベルトの言葉として「不幸せなことがひとつの生き方になっていた。悲惨と堕落が僕たちの美。不幸がふつうのことだった。」と添えられている。この時代、戦争が終わって開放されたはずのパリにこんな暗い青春があったなんて。この写真集を買った当時の私はまだ、青春に片足位は突っ込んでいるような時期で、日本はというとバブルの真っ最中、暗さとか不幸とかは、個人の片隅に追いやられていた。そんな当時の私に、この写真集は、今よりも、大きなインパクトを持って突き刺さって来た。その写真たちは、「もっと暗さを!」と語りかけてきた。
 青春期なんてとうの昔に過ぎ去り、バブルも崩壊し、隠されていた不幸や悲惨が、以前程、珍しいものではなくなりつつあるような今、私はこの写真に、最初に出会ったとき程のショックは受けない。そこに、写っている当時の風俗(というには、あまりにも痛ましいが、)に憧れるようなこともない。只、時代を超越しているようなアンこと画家のヴァリ・マイヤーズの眼差しの普遍性には、変わらずに惹きつけられる。
 「世界の不幸から目をそらすな。」と、いわれているようで。

 アンは言う。「サンジェルマンで生き残った若者たちなんて、片手で数えるほどよ。夢も希望もない、つらい世界だった。・・・・・・・」  (「エルスケン 巴里時代」より)

 しかし、アンは、生き残った。そして、エルスケンも。芸術のちからによって、かれらは救われたのだと思う。


 「エルスケン写真展」高知県立美術館(TEL・088・866・8000)で’05、1/30(日)まで

 

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清原の選択でバッジョのことを思い出した

 プロ野球には、あまり関心のない私だが、「清原が巨人に残留を決めた。」というニュースを見て、あるサッカー選手のことが思い浮かんだので、そのことについて書いてみたいと思う。
 その選手の名前は、ロベルト・バッジョーサッカーファンなら誰でも知っている、イタリアサッカー界の至宝とも呼ばれた選手。引退した今でもバッジヨの復帰を望むファンは多い。
 彼は、その選手生活のキャリアの最後を、彼の故郷の近くの、ブレシアという、いつもセリエBへの降格を争っているようなチームで終えた。彼が、ブレシアの前に在籍していたのは、インテルというビッグクラブだったが、インテルでの彼は、監督の考えるチーム構想から外れていたのか、スーパースターなのに、いつもベンチを暖め続けなければならないという屈辱的な日々を送っていたのだ。そして、ブレシアでの彼は、中田のいたペルージャを指揮したこともあるマッツォーネ監督という、よき指導者にも恵まれ、チームのセリエBへの降格の危機には大活躍して、チームを降格から救い、ファンに愛され、惜しまれながら引退した。

 清原の選択の結果は、シーズンが始まってみないとわからないけれど、同じような立場に置かれて、彼とは違う選択をした選手がいるということを、ちょっと思い出しました。
 そして、これからプロ野球が生き残っていくためには、プロ野球=巨人という考え方から、ファンも選手も抜け出す必要があるんじゃないのかな、と私見ながら思うのですが・・・。


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「ゲド戦記」

12月のはじめに、「ゲド戦記」の翻訳者、清水真砂子さんの、「アースシーを旅して」と題された講演を聴きに出かけた。講演では、「ゲド戦記」に出遭ったときのことや、翻訳で苦労した点、作者のル=グウィン夫妻のこと、また清水さんご夫妻の日常のやりとり、そして、フェミニズムの人々やアカデミズムへの批判、(断っておくが、彼女は反フェミニストではない!第四巻から第五巻の説明のところで、ル=グウィンのフェミニズム思想について語られながら、ご自身の考えを述べられていた。そこで、フェミニズムの”人々”の問題点を述べられていたのだ。)そして、最後に、
 「(「ゲド戦記」に出てくる)竜とは何か?」という問に対して、清水さんの考えとして、「ひょっとしたら、子供って竜かもしれない。」と、おっしゃられたのが、印象的だった。(「ゲド戦記」に出てくる竜は、多くの西欧の物語の破壊や悪の象徴のドラゴンとは違う存在として、描かれている。)
 
 「ゲド戦記」の素晴らしさについては、児童文学、ファンタジーの傑作として、多くの人が語られているので、今更、多くは語らないことにするが、この「ゲド戦記」全五巻+外伝を子供だけのものにしておくのはもったいない、もっと、多くの大人たちに読んでもらいたい、ということは言いたい。物語の思想の深さ、という点からだけでなく、読み物としても非常におもしろい。読み出したら次どうなるのか知りたくて止まらなくなる。
 
 余談として、付け加えさせてもらえば、”ゲド”は、私の中で”理想の男性No1”の位置にある。
 私が特に気に入っているのは、第二巻「こわれた腕環」のなかで迷宮の中に閉じ込められたゲドが、巫女として、本当の名前をとりあげられて暮らしているテナーにはじめて出会うところ。ゲドは、そのとき、アルハと呼ばれている彼女の本当の名前を呼ぶ。「気をつけてな、テナー。」と。そのときの彼は、閉じ込められて死ぬかもしれない状況なのに、鷹揚さと余裕を感じさせる。
 そして、第四巻と第五巻の、清水さん曰く、「定年退職した男」として描かれているゲドに、大人の男の忍耐強さや落ち着きを感じて、好ましい気持ちになる。(勿論、第一巻から三巻の大魔法使い、英雄として描かれているゲドも、”かっこいい”のであるが。)

ゲド戦記 全6冊
L.グウィン 作・清水 真砂子 訳


 

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クリスマスの絵本

 もうすぐクリスマスということで、クリスマスの絵本を紹介します。
 まず「スノーマン」で有名なブリッグズ「さむがりやのサンタ」(福音館書店)。サンタが、ぶつくさぼやきながら、プレゼントをとどけるところが笑えます。ふたつとも、ヴィデオが出ていて、子供が小さい頃は、クリスマス前には、繰り返しみては、気分を盛り上げていました。
 次は、イギリスの作家ジョン・バーニンガム「クリスマスのおくりもの」(ほるぷ出版)。
 クリスマス・イブのよる、おじいさんサンタは、つかれきってかえってきました。いっとうのトナカイは、ぐあいがわるそうです。やっと、やすもうとしたおじいさんサンタは、ふくろのなかにおくりものがひとつのこっているのにきがつきます。それは、とおくはなれた、ロリー・ポリー山のてっぺんにすむハービー・スラムヘンバーガーへのおくりものでした。おじいさんサンタは、ハービー・スラムヘンバーガーのいえにむかってあるきはじめます。
 この絵本を最初に読んだとき、思わず泣いてしまったのを覚えている。といっても、バーニンガムの絵本は、情緒たっぷりに、こちらの涙腺を刺激するような類の絵本ではない。この、おじいさんサンタも、ポーカーフェイスに描かれていて、ハービーのいえにむかうようすも、淡々と、抑制された表現で描かれている。そこら辺りに、イギリス的美学を感じる。
 イギリス的といえば、イギリス的な乾いたユーモアを感じさせる、バーニンガムの絵本をもう一冊。
 「いつもちこくのおとこのこージョン・パトリック・ノーマン・マクヘネシー」(あかね書房)。
 いつもちこくするおとこのこノーマンが、とてもきびしい担任の先生に、毎回、ありえない遅刻の言い訳をして、先生から罰をうけるというストーリーなのだが、この言い訳が、子供の言い訳の特徴をよく表していて、「子供の言い訳って、そうそう、こんな感じ。」と、思ってしまう。最後のところでは、先生と立場が逆転して、先生のありえない言い訳に対するノーマンの逆襲には、子供たちも喜んで読み終えられるだろう。バーニンガムには、この他にも、たくさんの作品が、あるので、ぜひ、読んでみてください。イギリス的な叙情とユーモアに浸れます。

いつもちこくのおとこのこ(あかねせかいの本 17)
ジョン・バーニンガムさく・たにかわしゅんたろうやく

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「ダ・ヴィンチ・コード」読了!

 世界的なベストセラー小説「ダ・ヴィンチ・コード」をやっと読了しました!
 物語は、ハーヴァード大学の宗教象徴学の教授ロバート・ラングドンと、フランス司法警察暗号解読官のソフィー・ヌヴーが、ソフィーの祖父で、ルーヴル美術館館長のジャック・ソニエールが殺されたときに残したダイイングメッセージを解読しながら展開していくのだが、暗号として使われているのが、あの有名なダ・ヴィンチの<モナ・リザ>や<岩窟の聖母>などルーヴルの至宝ともいえる作品だ。そして、「フィボナッチ数列」という有名な数列(1-1-2-3-5-8-13-21ーそれぞれの項の値が、先行するふたつの項の和に等しいという性質の数列)が謎解きに使われたりもする。また、「シオン修道会」ーダ・ヴィンチやニュートン、ヴィクトル・ユゴー、ジャン・コクトーなどが総長だったとされるヨーロッパの秘密結社ー、「聖杯伝説」などというキーワードが出てくるのだが、この辺りはキリスト教の歴史に疎いわれわれ日本人には聞き慣れない言葉であるが、そんな、キリスト教史や美術史、宗教象徴学なんてものを知らなくても充分楽しめる物語だと思う。登場人物の職業や社会的地位や宗教的立場などによる性格や言葉使いの違いがとてもよく描かれていて、謎解きとおなじくらいおもしろかった。特に、フランス司法警察中央局警部のベズ・ファーシュとイギリス人の宗教史学者リー・ティービングの造形はフランス人とイギリス人のあるタイプの人間の典型をみるようで傑作だった。警察の包囲網を突破してリー・ティーピング邸から脱出する件などは、まるで「007」ばりの展開だったし。
 
 薀蓄好きのひと、理数系のひと、美術ファン、そして、勿論ミステりーファンにも必見の小説といえると思う。
 
 ※読むときには、ダ・ヴィンチの画集を用意しておくことをおすすめします!

ダ・ヴィンチ・コード 上
ダン・ブラウン著・越前敏弥訳

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ペイントギャラリー

merryxmas.gif

メリー・クリスマス by kai

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やっぱりナカタは!!

 フィオレンティーナでは色々と言われて、大変そうだった中田選手。やっぱり、やってくれましたね。世界選抜でゴール!しかも、監督がヨハン・クライフというのも泣ける。フィオレンティーナの試合チェックしてないから、わからないけど、周囲と合わないだけで、調子は悪くないんじゃないかなあ?セリエA(イタリアリーグのプレースタイル)が中田君に合ってるのかどうか、私は、ずっと、疑問に思ってますけど・・・・・。これを、機会に、チームでの状況が好転することを祈ってます。

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